第十四話 禊ぎ
芹菜は袴を脱ぎながら、隣で帯を解いている小鞠に声を掛ける。
「古くても良いので、袴をいただけませんか」
今まで穿いていた物は、ずいぶん汚れてしまった。
「行灯袴なら私のもありますけど、馬乗袴の方が良いですよね」
「出来れば」
馬乗袴は股の割れた袴、行灯袴は股の無いスカート状の袴で、芹菜は普段、男物の馬乗袴を使っている。
「わかりました、明日までに用意させます」
「お願いします」
芹菜は脱いだ袴を丸めるようにして棚へ置く。
もちろん、普段は折り目を崩さないよう気を付けているが、この袴はもう洗って古着屋へ売る事になる。
何気なく目を遣ると、小鞠の向こうで服を脱いでいた花梨が、腰巻き姿で何かを探している。
「どうしたの? 何か無くした?」
「無くした訳ではないですが。えっと、湯巻きはこれですか?」
花梨の問いに、着物を襦袢ごと袖畳みにしていた小鞠が答える。
「それは上がった後の腰巻きです。女同士ですし、湯巻きは要らないでしょう?」
「えー」
声を上げたのは花梨では無く芹菜。
「裸で入るの?」
「私は、一人で入る時はいつも裸ですよ。体を洗い易いですし。特に今日は、体を綺麗にするのが目的ですから」
穢れと汚れは別物だが、汚れは穢れの一つでもある。
禊ぎの目的が身を清める事であるなら、体を綺麗に洗うのは当然の事だ。
小鞠は簪を引き抜いて結い上げた髪を下ろし、それをくるくると丸めて別の簪で止め直す。
おそらく入浴用の簪で、髪も洗うつもりなのだろう。
花梨も特に異議を申し立てる事無く、腰巻きを解いて、手ぬぐいと桶を持って浴場に向かった。
温泉町の住人なら、そういう物なのだろうか。
芹菜が普段から湯を借りている春庭閣では、大人になった女性は湯巻きを着けている。
芹菜の逡巡など気にも留めずに、小鞠もサッサと花梨に続いていった。
グズグズしていても仕方が無い。
はあっと溜め息を一つ吐いて服を脱ぎ、手ぬぐいだけを桶に入れて、二人の後を追った。
「そもそも湯巻きはお風呂で着ける物で、湯に入る時は外すのが礼儀ですよぉ」
先に入った二人は湯船のそばに腰をおろし、掛かり湯を浴びていた。
一般的に言われる風呂は、蒸し風呂の事である。湯の入り方は、地方によって違いがあるらしい。
昨夜も入ったが、内湯はそれほど広くなく、湯船を含めて六畳ほどしかない。
入り口の両脇に明かりが灯されている限りで非常に暗く、また湯気が籠もってよく見えない。
確かに恥ずかしがる程ではないのかも知れない。
芹菜も小鞠の横にしゃがみ、湯をすくって肩から掛ける。
正式な作法では左足、右足、左肩、右肩、そして前、後ろの順で湯を掛ける事になっているが、略式で済ませる。
「ぬか袋どうぞ」
「ありがとう」
小鞠は三人分のぬか袋を用意してくれていた。
局部だけ先に指で丁寧に洗い、米ぬかの入った袋で全身を洗っていく。
芹菜は桶から両手で湯をすくい、それで顔を濡らした後、額から順に円を描くように洗う。
これは作法では無く、個人のこだわりのような物だ。
「花梨ちゃん、お背中流しましょうか?」
「あ、先に私が」
「そうですか。ではお願いします」
隣の二人が、背中の流し合いを始める。
「ではでは、芹菜さんの背中をこちらに」
「んえ?」
思わず変な声が出る。
「花梨ちゃんが流してくれている間に、私が芹菜さんのお背中を流しますよぉ」
小鞠は右手でぬか袋を持ち、何故か左手をわきわきと動かしている。
「あ、はい。お願いします」
親しい者と湯に入った時には、背中を流し合うものだと、芹菜もそう教えられた。
ここは素直に背中を預けつつ、先に腕から洗っていく。
その間、小鞠は慣れた手つきで、首筋から腰へ向けてぬか袋で擦っていった。
「お尻を少しだけ持ち上げてくださいねぇ」
「えっ、ちょっと、お尻は自分で洗いますよ。背中だけで結構です」
慌てて振り返ると、小鞠が悪戯っぽく笑っていた。
「そうですかぁ。残念です」
残念なのか。何が?
疑問が湧いたがあえて口にはしない。まあ、冗談だろう。
「ではぁ。花梨ちゃん、交代です」
「はい。お願いします」
二人が背を向けたが、小鞠の背中は花梨が洗った後なので、芹菜はそのまま手持ち無沙汰になった。
腰を上げ、自分のお尻を洗って、そのまま足を洗う。
湯でざっと流した後、先に湯船に入った。
少し離れて、二人の様子を眺める。
小鞠はニコニコと笑っているが、本当に楽しんでいるのか、演技なのか、判別が付かない。
花梨はほぼ無表情。
会話をすれば普通に言葉を返してくるが、何か、言い知れぬ不安を感じさせる。
家族を失ったばかりなのだから、表情が曇ったり、無くなったりするのは解る。
気になったのは、花梨はその状態でも、普通に会話をしているという点だ。
先ほどの、清人を交えた話し合いも、その前の三人で話し合った時も、どこかまるで他人事のように感情を込めず、それでいて、清人には寄り添ったり、その手を握ったり。
おそらくは、清人に対している時の反応が素の花梨で、今は感情を殺しているのだろうか。
一瞬、花梨と目が合ったが、すぐに逸らされた。
何故か芹菜には、家族を亡くした悲しみに耐えている、我慢しているのだと、そう思えなかった。
ひょっとすると、彼女が抑圧している感情は、悲しみではなく、怒りや憎しみかも知れない。
「敵討ちこそが最も良い手段」小鞠の言葉が思い出される。
それまで寝たふりをしていた花梨が話に入ってきたのは、この言葉に触発されたからでは無いだろうか。
もしそうであるなら、怒りや憎しみで暴走しないように、気を付けておかなくてはいけない。
「芹菜さん、髪も流しましょうか」
「え? 髪を温泉で?」
「髪を、と言うより、頭ですね。やってみせますので、後で私もお願いします」
「はい、解りました」
「湯船に入ったまま、肩をここへ、そのまま横になるように体を浮かべてください」
体を流し終えた花梨が湯船に入ってくる。
その隣で横になると、自分の乳房がぷかりと浮かんだようになって、妙に恥ずかしい。
「まず、髪を解いて桶に垂らしますねぇ」
小鞠は額の辺りから湯を掛けつつ、髪の毛を指で梳いていった。
そして軽く洗った後、指の腹で芹菜の頭皮をわしっわしっと揉むように洗い始めた。
なるほど、髪と言うより頭というのはよく判る。
「かゆい所はないですかぁ」
「えーっと、天辺の辺りが、ああ、すごく気持ちいいです」
これは良い。なんとも癖になりそうな気持ちよさだ。
小鞠は細かく湯を掛け流しつつ、頭全体をもみ洗いにして、最後に髪の毛を上がり湯で流し、握るように絞ってから、用意した手ぬぐいでまとめ上げた。
「最後の濯ぎは上がり湯を使う事。これは気を付けておいてくださいね。では次、花梨ちゃんにしますので、見て覚えてくださいね。花梨ちゃん、ここ」
ぺしぺしと湯船の縁を叩いて呼ぶ。
「……お願いします」
花梨は少し躊躇ったようだが、素直に従った。
これは、薬湯と合わせれば良い仕事になるかも知れない。そんな余計な考えが頭をよぎる。
お金を稼ぐつもりは更々無いので、むしろ、春庭閣の湯屋で皆に披露しようかと思った。
花梨の頭を洗いながらコツを説明する小鞠に、真剣に耳を傾け、その技を覚える。
「では、私もお願いします」
小鞠は一度湯を浴びてから湯船に入り、簪を抜いて髪を桶に垂らしつつ横になった。
「はい。では、参ります」
ふと、御大将、羽黒様が常々云われている「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ」を思い出す。
この言葉の通りなら、私はこの後、褒められるのだろうか。
「ん。お上手ですよぉ」
小鞠の言葉に、思わず笑みがこぼれた。
その後、芹菜、小鞠、花梨の三人はゆっくり湯船につかった。
疲れを癒やすのも、祓いの一つである。
髪を乾かし、衣服を白衣白袴に改め、三人が祭壇の間に戻る頃には、お供え物が用意されて、明かりも灯されていた。
そして祭壇の上段には鏡を載せる台と、刀掛けが置かれている。
芹菜は自分の鏡を中央の鏡台に並べながら、同じように向かって右端の台に鏡を置く小鞠に問いかける。
「この刀掛けは? コマさんの?」
「いえ、私はこれだけです」
小鞠が用意した鏡は一面だけである。刀の類いは持っていない。
「それは花梨に、これを」
弁柄が白木の短刀を三方に載せて現れた。
「普通の短刀だが、使えるだろう。どうだ」
三方を祭壇の脇に置き、短刀を鞘から抜く。
刃渡り八寸程の、やや短い鉄の短刀である。
それを、刃を上に向け、刀掛けに寝かせる。
「祓い清めは済ませてある。業物では無いが、長らく使われてきた物だ、力はあると思う」
「弁柄さんが使っていた物ですか?」
芹菜の質問に軽く首を振る。
「古い友人が使っていた物だ。……いや、そうだな、その、小鞠の母親が持っていた物だ」
その言葉に、小鞠がピクリと反応する。
「母さんの……」
「隠していた訳じゃ無いが、すまない、渡す機会を逸してな。本来なら小鞠が受け継ぐべき刀かも知れないが、今回だけは貸してやってくれないか」
「……はい」
「コマさんのお母さんも、ここの隠密だったんですか?」
「いや、元は中央の人間だよ。旦那が私の友人で、商人上がりの隠密だった。親しくなったのは二人が結婚してからだな」
弁柄は祭壇の短刀を、懐かしそうな目で見ていた。
「以前、この町に多くの鬼が出た事があって、私が不甲斐ないばかりに、二人を、多くの仲間を死なせてしまった」
「もう、昔の話です」
その話は止めましょうと言うように、小鞠が口を挟んだ。
「二度とあのような事が起こらないように、私たちはここに居るんですから」
「ああ、そうだな」
弁柄は鞘を三方の上に置き、後ろへ下がる。
「私たちは席を外そう。阿刀、阿子」
「はい」
「はい」
部屋の隅に控えていた二人が応え、一礼して立ち上がる。
「何かあれば遠慮無く呼んでくれ」
退出する弁柄に対し、芹菜は目礼を送る。
そして、再び祭壇へと向かった。
「さて、これからの事を簡単に説明しましょうか」
芹菜は鏡の他に小さな御幣(依り代)を八本立てる。小鞠は同じように二本だけ立てた。
「この祭壇に掲げた鏡や刀などの神器に自分を映して、その姿を神としてお祀りを行います。姿無き神霊に自分の姿を贈り、人に対するのと同じように食事を勧めつつ、自分も同じ物をいただきます。鏡を隔てた向こうに神霊がいて、共に食事をするのが神人共食という祭祀です」
「基本的には、人を接待するのと変わりませんね」
芹菜の説明に言葉を足しつつ、小鞠が右の座に座る。
祭壇の鏡がちょうど顔の高さになり、芹菜からは見えないが、小鞠には自分の姿が映って見えている筈である。
「本来なら、立ち方とか座り方とか、いろいろ作法があるけど、その辺りは気にしなくて良いから」
そう言って花梨に座を勧める。
「はい」
軽く頷き、袴を押さえながら花梨が膝をつく。
「刀に自分の姿が見える?」
すっと、花梨の視線が鋭くなる。
「はい。見えます」
「それはあなたの姿であっても、あなたでは無く、神霊、火之迦具土命だと思ってね。まず、名前を呼びかけてから、食事を始めましょう。私が先導を務めるから、見よう見まねでやってみて」
「はい」
右に座る小鞠に目配せし、軽くうなずき合った。
正面に向かい、深々と一礼する。
瓶子(御神酒徳利)の蓋を取り、土器に御神酒を注いでから、手を合わせて鏡の向こうに呼びかける。
「掛けまくも畏き我が大神、建御雷命、火雷命の御前に、慎み敬い恐み恐みも白さく……」
「掛けまくも畏き我が大神、大地主命の御前に……」
芹菜と小鞠の言葉を聞いてから、花梨も正面に一礼して二人の真似をした。
「掛けまくも畏き我が大神、火之迦具土命の御前に……」




