第十三話 銀
芹菜が語る行動計画は、大まかな物である。
何より、行ってみなければ判らない事が多い。
戦力的にも十分とは言えず、撤退前提の隠密行動である。
ただ、隠密と言っても相手は鬼である為、活動は真っ昼間で、日の光のある内に行って戻る予定としている。
清人は花梨が参加する事に強く反対を述べたが、それは花梨の意思も含め、既に話し合い済みであると受け入れられなかった。
清人は理解していなかったが、そもそも話を聞く事は出来ても、この場で意見を言える立場では無い。
大きな流れとしての説明が終わると、退出を促された。
まだ花梨と話がしたいと訴えもしたが、花梨にはやる事があるからと、これも聞き入れられなかった。
「今後の事については、この鬼の一件が片付いてから」
芹菜にそう言われ、仕方なく席を立つ。
何度か出てきた今後という言葉が指す意味を、これも、清人は正しく理解していなかった。
とりあえず今やるべき事は、河鹿亭に戻り、何事も無かったかのように過ごす事である。
そして明日、大浦屋の葬儀に参列しなければならない。
釈然としないものを胸に抱えながら、清人は一人、赤壁亭を後にした。
夜は神の時間である。
一般的には鬼や死霊の時間だと思われている節もあるが、人のざわめきが静まる深夜は、町の中も山や森と同じ、自然の一部に還る。
特に都市部で活動する神祇官の間では、神を祀るには深夜から未明が良いとされている。
赤壁亭一階、従業員たちの部屋があるその奥、正確に言えば亭主の部屋の奥の間に、祭壇が備え付けられていた。
「予備の鏡はありますか?」
もしあれば助かる、くらいの軽い気持ちで芹菜は聞いてみた。
それに弁柄が答える。
「残念ながら、無いな。ここの面々が、自分たちで使う鏡をそれぞれ持っている限りだ。この町の神祇官はあまり協力的ではないし、そもそも、我々が皇儀の隠密だとは知らん」
そういう事もある。
協力関係にある場合も多いが、基本的に村付きの隠密は、その村の長や神祇官に顔を知られない様にしている。
村長や神祇官も監視対象なのである。
その為、村付きの隠密という存在すら知られていなかったりする。
任地から離れる事が少ない者が青銅器を必要とする場合、地元神社の協力が得られないのなら、中央の神祇官に直接依頼して回してもらうか、商人をしている隠密から手に入れるしかない。
何にせよ、今すぐ空きの青銅鏡を手に入れる事は出来ない。
芹菜は口元に手を当て、しばらく考える。
初めて自分の神を祀るなら、鏡が有った方が良いと思えた。しかし、花梨に宿った火之迦具土命の元の鏡は、変色してくすみ、使えそうに無い。
「神籬を用意していただけますか?」
神籬は神の依り代。通常、榊の枝などを使う。
「わかった。祭壇と神饌の用意は私たちでしておこう。君たちはまず、禊ぎをしてきたら良い」
「禊ぎ?」
確かに川はあるが、町中では人目に付くかも知れない。もう少し上流に行けば大丈夫だろうか。
そんな事を考えている芹菜に、小鞠が後ろから声をかける。
「ここは温泉宿ですよ」
「そうだった!」
勘違いしている者も多いが、禊ぎは苦行ではない。
冷水に入ったり滝に打たれたりする必要は無く、湯に入るのも一つの方法である。
振り返ると、小鞠は白い着物と手ぬぐいを抱えていた。
「今夜は貸し切りですよぉ」
通常、葬儀の前の遺体は、布団に寝かされる。
故人の使っていた物をそのまま使うのが一般的だが、やむを得ぬ事情で使えない時や、旅人が亡くなられた時の為に、それ用の布団が町で用意されている。
しかし、それらが大浦屋のために使われる事は無かった。
遺体は蓙の上に寝かされ、その上に更に蓙が被せられている。
焼け跡から回収された三人の遺体は、火災による損傷が激しく、特に主人と柘榴はかなり炭化していた為だ。
部屋の内側には注連縄が張られ、灯明が三つ、僅かな光を放っている。
その中で一人、清彦だけが静かに座していた。
手には小さな鉄くずが握られている。
柘榴の遺体に首は無く、衣服も焼け落ち、それが柘榴であるか花梨であるかの判別は困難を極めた。
それを決定づけたのは、遺体の腹部辺りに落ちていたこの鉄くず、かつて簪であった、これだった。
十年ほど前、清彦が父に付いて都に上った時、自分の小遣いで買った、安物の鉄の簪。
清彦が柘榴に何かを贈ったのは、これが初めてで、最後だった。
幼い柘榴は好んで髪に挿していたが、やがて年頃になると、親から与えられた年相応で、その場に合った簪を使う様になり、この数年見る事は無かった。
だが、柘榴は人知れず懐に忍ばせていたのである。
柘榴も清彦も長子であり、跡取りである、と思っていた。結ばれる事は無いだろうと。
果たして、自分の気持ちはどうであったのだろうか。
清彦は、柘榴を愛していたか。
柘榴は、清彦を愛していたのだろうか。
今の清彦には何も判らない。自分の気持ちすら判らない。
ただ、柘榴がこの簪を大切にしていてくれた事だけが、事実として、清彦の手の中にある。
灯り守は遺体に悪霊が憑くのを防ぐ為に行われる。
亡者が実在の脅威として存在するこの世界において、それは重要な役割であり、実のところ防ぐ事など出来ないのだが、もし何かがあった時に、すぐに対応するために必要な役目だった。
本来なら身内の者が務めるが、清彦は頼み込んでこの役目に就いた。
柘榴のあの姿を、他人の目には触れさせたくない。ただ、そう思った。
明日の朝にはまず火葬が行われる、それまで、彼女を守りたい。ただ、それだけだった。
「この度は大変な事でございましたな、郷司様」
薄明かりの中、白髪頭の老人が、向かいに座った男に酒を勧めながら、呟くよう声で話しかけた。
「うむ。ただ火災だけでも難儀な事だが、鬼が出たとはなぁ。何かの間違いであって欲しい所だ」
郷司様と呼ばれた、四十がらみの脂ぎった男は、天井に視線を移して他人事のように応えた。
「ここの衛士長は今一当てにならん。早めに国府を頼った方が良かろうか」
酒を器の中で揺らし、それをくいっと呷る。
降ろした盃に、すかさず酒を注ぎながら、老人が囁く。
「それがよろしいかと。被害が広がりますれば、郷司様のお名前に傷が付くやも知れません」
「そうよな。あんな輩の為に泥は被りたくない」
「文をご用意くだされば、下りの船でお届けいたしましょう」
部屋には二人しかいないはずだが、老人は絶えず声を潜め、顔を近づけて話そうとする。
まるで盗み聞きを警戒しているかのように。
「おお。頼む。此度はすぐに出るのか」
「既に予約の物がありますれば、隊の半分ほどを明日にでも降ろす所存です。私は商談がありまして暫く滞在いたしますが、信頼できる者をお付けしまして、先に届けさせましょう」
「解った、では明日の朝にでも用意しよう」
盃を下ろし、肴に箸を進める。
「これも川崎屋の荷か」
「はい、今日届けました荷でございます。大浦屋に卸す予定の物でございましたが、あの有様ゆえ、折角ですので郷司様にと、旅館の台所に調理させましてございます」
「そちの方も大変よのぉ、これで取引先を一つ無くしたか」
その言葉に、老人の目がキラリと輝く。
「その件でございますが。湯川には他に乾物屋もなく、このままでは町人どもも不便いたしましょう。よろしければ、川崎屋が商人を手配させていただきますが」
「ほう。川崎屋が、店を出す気か」
箸を止め、老人の顔を覗き込み、にやりと笑う。
「いえいえ、滅相もございません。あくまで手配、でございます。若い、良い商人を紹介させていただきましょう。川崎屋と致しましては今まで通り、そこへ荷を卸させていただければ問題ございません」
「ふん、商売の手を広げるのではないのかね。良い機会だと思うがね」
「商い事には、分というものもございます。過ぎれば身を滅ぼすもの。私どもはしがない運び屋でございます」
「そうか」
商いの話自体には興味が無いように、盃を取って老人に差し出す。静かに酒が注がれた。
「大浦屋と言えば、あれには分家は無かったか。儂は知らんのだが、川崎屋、聞いた事はないか」
「はて。確か当代には兄と弟が一人ずつ居りましたが、ともに戦で命を落としたと聞いた事がございます。姉か妹か、女が一人いましたが、嫁に出てございます」
「ふむ」
「先代には弟が居りましたが、婿に出ており分家は作っておりません」
「と、言う事は、大浦屋の財は、郷の預かりとなるか」
「娘が一人、行方不明と伺いましたが」
「鬼に攫われたのであろう? 無事ではあるまい。生きて戻ったとしても、婿に入る輩はおらんだろう。お主の言う若い商人とやらの嫁にでも致すか?」
「いやいや、それは。郷司様の養女にでもしては如何でしょうか」
「ああ、その手もあるか」
ふっと、笑って、酒を飲み干す。
「もし、娘が戻ったのならば養女に取るとして、戻らなかった場合は、大浦屋の財は郷の金庫に入る事になろう。然らば、帳簿を取るに当たって、立ち会い人が必要になる。川崎屋。お主なら誰も異は唱えんだろう。やってくれるか」
「それは……、立ち会うだけでよろしいので?」
「いやまあ、それはそれ、良いようにしてくれ」
何をどのようにとは決して言わない。誰も聞いてはいないようなこの場においても、察してくれと言外に訴える。
「左様でございましたら、郷司様の良いように、目利きを務めさせていただきましょう」
「うむ、よしなにな」
うんうんと頷くと、再び肴に箸を戻す。
「魚もよろしいが、今日は海鼠を用意してございます」
「ほう? 海鼠?」
郷司は眉をひそめる。
「海鼠、でございます」
言いながら、老人は自分の懐に手を入れ、小さな布包みを取り出した。
それを膳の端に置き、はらりと捲って見せる。
そこにあったのは海鼠形の銀塊だった。
「これは……」
「実はある筋から頼まれまして、少々多めに仕入れてございます。郷司様にもご賞味いただければと」
「何が望みか」
「この海鼠、今は山津の蔵に収めてございますが、近い内に動かす事になりまして。その時、海鼠を海鼠としてお取り扱いいただければ、それだけの事にございます」
「なるほど。それで、如何ほどある」
「千両箱に三つでございます」
「はっはっは、海鼠を千両箱に入れるのかね」
「運びます時には、他の乾物と同じ箱に入れまする。あくまで、海鼠は海鼠。郷司様にもあと十本ほどお持ち致しましょう」
「相分かった。その時は前もって声を掛けてくれ、良きに計らおう」
応えて、銀の海鼠を乱暴に包み直し、懐へ納めた。
「しかし、それほどの銀をどこへ流すつもりだ」
「さすがにそれは、お答え致しかねまする。それも込みで、どうか何卒、よろしくお願いいたします」
老人は少し退き、深々と頭をさげた。
「そうか、ならば、そうだな」
顎を指で掻きながら、不承不承に納得する。
おかしな所に銀を持ち出されると、あまり好ましくない事になるかも知れない。
しかし、目を瞑っているだけで銀塊が手に入るのだから、断るのも勿体ない。
郷司は再び盃を手に持った、それに老人が酒を注ぐ。
「そろそろ、若い者をお呼びいたしましょうか」
つまり、密談すべき事はもう終わったのだろう。
「うむ」
郷司が鷹揚に頷くと、老人は廊下に向かって二回手を打った。
暫くして、足音が聞こえてくる。
「お呼びでございましょうか」
襖は開かれず、声だけが掛けられる。
「若い者に郷司様のお相手を。あと、舞を一差し頼む」
「はい、承りました」
応えて、足音が遠ざかっていく。
老人は、郷司に背を向け、襖に向かったまま、にたりと笑った。
(注釈・貨幣について)
本来、設定設定は作中において表現すべきですが、物語の筋とは関係の無い、金銀銅の貨幣について、一つの情報として記しておきます。
流通貨幣は主に金貨である小判、銅貨である銭が使われています。
小判の単位は両
銀の単位は匁
銭の単位は文
金と銅は貨幣一枚単位。
銀のみが重さの単位です。
一匁と言う重さは、日本の五円玉の重さです。
この世界の銅銭一枚の重さも、一匁。
金一両=銀五十匁=銅四千文
銀一匁=銅八十文
金一両は現代日本でおおよそ十二万円ほどの価値と仮定しています。
よって、銀一匁が約二千四百円、銅一文が約三十円の価値です。
つまり、この世界において、銀は同じ重さの銅に対して八十倍の価値があります。
銀貨も存在していますが、鬼や亡者の多かった時期に溶かされて武器になり、あまり流通していません。
また、小判の四分の一の価値を持つ、一分金という金貨もあり、銅銭一千文と交換されます。
銅銭1千文を一貫と呼び、穴に紐を通して一つの貨幣のようにして扱います。穴を貫く、故に一貫。
一般人が一両小判を持つ事はあまりなく、一貫(千文、約三万円)が、最高貨幣のように扱われます。
貫は重さの単位でもあり、当然、千匁が一貫です。
一貫銭を貨幣として使う場合、当然、数えるのが面倒くさいので、秤で重さを量ります。
他に、よく使われる百文束なども重さで取引され、商人は常に棒秤を持っています。
作中のナマコ銀は四十匁の重さがあり、約九万六千円の価値。
川崎屋はもう十本(九十六万円分)を渡すと言っており、百万円少々の賄賂だと思ってください。




