2. 無垢なる悪魔
次の日の朝、あの悪魔の少女のことを思い出すと心が暗くなる。
あの少女が居た場所をさけるように駅にむかったら、いつもの電車を乗り過ごし遅刻しそうになった。
授業の終わりが近づいた頃、窓の外を見ると昼ごろから降り出した雨は止みそうもなかった。
天気予報ではくもり時々雨となっていて、もしかしたらと帰る頃には止んでいるかもと淡い期待を抱いていたがそれは実現しなかったようだ。
昇降口に来たところで自分の失敗に気づく。
「傘わすれちゃった」
困り顔で立ち尽くすわたしに、ミキが呆れ顔で見ている。
「なにやってんのよ、これだけ雨がふってるのに。昨日はちゃんと持ってきたのにどうしたの?」
「あー、うん、なくしちゃってね」
季節は夏の一歩手前、暑さを感じる時期とはいえ、雨に濡れて帰るのはきつい。
途中までミキの傘に入れてもらい、駅前のコンビニでビニール傘を購入した。
母がいたら、無駄遣いと怒られるだろうけど、もうそれをいわれることはないと思うと寂しさを感じる。
家に向かう道を進みながら昨日の少女はどうしただろうかと考えていると、同じ場所で小柄な人影を見つけてしまった。
昨日は雨の中、その姿をはっきりと見えなかったが、彼女はその小柄な体には合わないの男物のTシャツを着ているだけだった。
素足のままざらざらとしたアスファルトの上で、ぼんやりとした表情で立ち尽くしている。
その手に、ひらいたままのビニール傘を差すこともなく握り締めたまま。
自分にはどうしようもないことだと目をつぶって足早に通り過ぎようとした。
しかし、チラリと横目で見てしまい、彼女の赤い瞳と目があった。
「あうー、あー」
舌足らずな言葉にもならない声をだしていたが、その表情はまるで親にかけよる幼子のように嬉しげだった。
傘をひきずるようにして私の前まで駆け寄り、ニコニコと満面の笑顔を向けてきた。
「……ごめん」
「あうー?」
胸に広がる罪悪感に抵抗しながらも、少女を振り切るように走り出した。
少女は私の後を追おうとするが、手に持った傘のせいでバランスを崩してバシャリと水溜りの中に転がっていた。
思わず立ち止まった私に、泥にまみれた顔でなおも笑顔を向けてくる。
唇をぎゅっとかみ締め走り出す。今度は後ろをふりかえらないように。
家に着き、ガチャガチャと乱暴に鍵を開けると、急に走った疲れと、精神的な疲れが同時に押し寄せてきた。
気分を落ち着けようと玄関口でうつむきながら座り込んでいると、そっと近づいてくる気配を感じた。
「ただいま、フサタロウ」
返事をするようにパタパタと尻尾が振られているのを見て、少しだけ精神状態がましになった。
真っ白な毛に覆われた大型犬、この家の同居人でありわたしにとっての唯一の家族である。
彼のためのご飯と自分の分を用意するために、重たい体を持ち上げるようにゆっくりと足を動かす。
わたしにできることといったら、自分とその周りのひとのことだけだ。
作業的にまな板の上で包丁を振るっていると、だいぶ心が落ち着いてきた気がした。
晩御飯を食べ終えると、傍らにねそべるフサタロウの背中をなでながら、スマホの画面見つめていた。
そこには保健所のホームページが表示されている。
読み進めていくと、召喚された悪魔は保健所の職員によって速やかに殺処分されていくと書かれていた。
まるで家畜のような扱われ方に気分が悪くなる。もしもあの子が保健所につれていかれた先、その末路について想像してしまう。
彼女のように召喚されたものたちは、この世界に元からいたものではない。
すべては召喚術の発見によるものだった。
無理矢理、別の世界から呼び出された彼らは、召喚主のいいなりに働き続ける。そして、帰るときは肉体が滅びて魂になったときだけだ。つまりは、死ぬまで使い潰される消耗品として扱われる。
いまもあの少女は雨に下でじっと立ったままなのだろうか、と窓の外に視線を向ける。激しさを増した雨によって窓に雨粒の跡がついていた。
立ち上がると、フサタロウが顔を起こしてわたしの顔を見上げていた。
そして、彼はおもむろに玄関に向かい、その口に散歩用のリードをくわえてお座りしはじめた。
「外は大雨だけど、いいの?」
フサタロウはワンと一声鳴く。わたしが小さい頃から一緒にいて、もう、10歳を超える老犬だというのに元気なものだった。
外に出ると、昼の空気と夜の雨が交じり合いもわっと湿った生臭い臭いがあたりに立ちこめていた。
激しくたたく雨音の中、傘をさしながら突き進んでいく。
外灯の下でぬれねずみになっている少女を見つけた。
濡れそぼった髪からぽたぽたと水滴を垂らし、傘をささず宝物のようにギュッと手でつかんでいた。
「それ、こうやって持つんだよ」
少女の手をとって傘をまっすぐにたててやった。少女はビニール傘に当たる雨をおもしろがるように口を開けて見ていた。
「あーうー」
少女が楽しそうにくるりと傘を回転させると、雨粒のしぶきがわたしとフサタロウに降りかかる。
フサタロウがばたばたと体をふるわせて、水しぶきを弾き飛ばす。
わたしもおなじようにずぶぬれになってしまった。だけど、不快な気分にはならなかった。
「おいで」
膝をおって彼女と目線を合わせながら手を差し出すと、不思議そうな顔をしながらジッと見つめる。
どうしたものかと悩んでいると、フサタロウが少女の背に回り、鼻をおしつけてそっと押し出した。
彼女の手がボクの手と触れ合った。握ると、そっと握り返す。
わたしたちは手をつないでおそろいのビニール傘を差しながら、一緒に歩き出した。
家に帰る頃には、すっかり体が濡れてしまっていた。
つれてきた少女の体も濡れて、握っている手も冷えている。
ひとりでお風呂に入れても、この子が体や髪を洗えるのか心配になる。
「お風呂、いっしょにはいろっか」
すっかり水を吸ってしまった服を洗濯機に投げ入れていった。少女はこれから何をするのか理解していないといった様子でわたしを見ていたので、服を脱がす。
「ほら、両手をあげて」
微妙に緊張しながらも、両手をバンザイさせてTシャツを抜き取り裸にした。
ほんの少しだけなだらかな丘陵を描いている胸。くびれのほとんどない腰、小さなおへそ、折れそうな鎖骨の線。頼りなげな両太ももの付け根と、その真ん中の合わせ目。
少女は恥らう様子もなく、ただわたしを見ているだけだった。意識しているわけではないが罪悪感を感じ目をそらす。
風呂場に入ると、まず少女にシャワーから出るお湯をかけてやる。
温かい湯がかかって気持ちいいのか目を細めている。
シャンプーで泡立てながらゆっくりと髪をすくように手を動かすと、彼女の口からは吐息のような声が漏れてきた。
洗い終わると、猫のように細いしなやかな髪に艶が戻っていた。
体を洗うのはためらいを感じ、ボディーソープをたらしたスポンジを手渡した。
「ほら、これで体を洗うんだよ」
少女はスポンジを受け取るが、手で握るごとに増えていく泡を見つめ、楽しげにどんどん手を泡まみれにしていく。
少女にまかせるのを諦め、スポンジで体を洗ってやる。
最後に、シャワーをかけて石鹸を洗い流すと、湯船に入るように指差した。
危なっかしい足取りで湯船の縁に手をかけて足を上げようとしたところで、その体が傾いた。
「だいじょうぶ?」
慌てて受け止めたが、少女は驚き視線をあちこちにさ迷わせながら、コアラのようにわたしの体にギュッと抱きついてきた。
小さくすべすべした体を両手で支えながら、後ろ抱きの状態で一緒に湯船に身を沈めた。
少女は水面から足を出したり入れたり、不安定な姿勢でゆらゆらするのを楽しんでいるようだった。
ばちゃばちゃと水しぶきがはね、少女の楽しげな声が風呂場で反響する。
狭い湯船のなかでほぼ密着していると、その体の小ささをより強く感じた。
少女が後ろを振り返り、濡れた細い毛の束が、鼻先をくすぐる。
かすかに甘いような、安心するにおいがした。
小さくて柔らかい体の感触が、子犬を抱いているときのように無条件に気持ちいいと感じる。
頭の中がかわいいという言葉で弛緩し、口元も緩んでくる。
風呂をあがると、少女の水分を拭い取り、わたしが昔きていたパジャマを着せてやる。タンスの奥にしまいこまれていたものだったが、まだ使えそうだった。
着替えさせている間も、少女はずっとされるがままだった。どこまでも従順で、命令を聞くまで動こうとしない。
彼女たちはそうやって作られているからだろう。
いやな気持ちになりそうになるのを押さえて、彼女の食事を用意することにした。
しかし、悪魔である少女は一体なにを食べるのかがわからなかった。召喚獣たちは地球の生物とはまったくことなるものといっていい。
ためしに、少女に聞いてみるが、彼女は言葉の意味がわからないのか首をかしげているだけだった。
スマホを片手に調べた結果、彼女たちに通常の食事は必要ないとわかった。
寝室に少女をつれていき、ベッドに寝かせる。
眠りにつくまで近くにいようと、部屋のライトの光量を下げて、ベッドの脇にもたれかかるように座り込む。
この子をどうすべきだろうか。保健所に連絡するのが正しいはずなのだけど、どうしてもやりたいと思えなかった。
眉間にシワを寄せながら悩んでいると、髪の襟足を引っ張られる感触がした。
「あーうー」
振り向くと、指先にわたしの髪に絡みつけていた。毛先をいじって遊んでいるだけで、痛くはないがくすぐったくなってくる。
振り払うこともできず、結局同じベッドで寝ることにした。
部屋の明りを完全に落とし、暗い中、少女の隣で横になる。
ベッドの中はとても温かった。フサタロウがまだ子犬だったころを思い出す。
少女はぬくもりを求めるように懐へともぐりこみ、胸に顔をうずめるようにしてぴったりと寄り添ってくる。
まだ湿り気を帯びている髪をなでてやると、やがてスゥスゥと寝息が聞こえ始める。子守歌のように、わたし自身も眠りに落ちていった。