14-9.黒姫の診療
前回のあらすじ:世界樹の記憶に触れたことで、自分自身のイメージが揺らいでしまい、身体の感覚を確認したり、居合わせた人達と話をしたり、抱きしめて貰ったりしたことで、何とか落ち着くことができました。その後も遠隔地から大勢の方に来て貰い、言葉を交わすことで何とか元通りといったところですけど、危ない真似をするなと皆から怒られてしまいました。大反省です(アキ視点)
いきなり、空間転移してきた黒姫様。
注意事項を手短に伝えると飛び去っていった雲取様、白竜さんを観て、慌ただしいのぉ、などと話してるけど、我が道を行く思考パターンは、とっても竜族らしい。勿論、わざわざ僕の為にやってきてくれた善意にはとても感謝しているのだけれど。
「黒姫様、お久しぶりです。こうしてお会いできて嬉しいです。ところで、魔力は抑えられますか?」
<造作もない>
そう告げると、すぐに魔力を抑えてくれた。抑えた魔力圧は白岩様と同じくらい。やっぱり、身体の大きさと抑えられる比率は比例してそうだ。老竜に直接会うのは、耐性がある僕やリア姉、それに竜神子達以外は厳しそう。
「圧がだいぶ抑えられましたね。それにとても穏やかで安心できます。空間転移と魔力を抑えることは同時にはできない感じでしょうか?」
<体を縮めたまま空を飛ぼうとするような難事よ。して、実際にその目で見てどう思った?>
ふむ、わざわざ実演してくれたのは、皆にそれを見せる為か。半分くらいは演出を兼ねてだろうけどそこは口にしないほうが良さそう。
「空が揺らいだと思った後、まるで初めからそこにいたかのように、黒姫様が現れて驚きました。魔力を感じなければ、幻影と言われても疑問に思わなかったと思います」
他の人はどうかな?
「いつぞやぶりですな、黒姫様。竜の空間転移は話には聞いておったが、妖精界も含めて行ったのを見たのは初めてじゃった。見事な技じゃ。儂にも跳んできたその時まで何も気付けんかった。召喚体の限界か、妖精界で直に観ても気付かんかどうかはわからんのぉ」
お爺ちゃんはふわりと飛んで、面白い言い回しをした。空間転移したことはない、と話した通り、妖精さん達は結構、負けず嫌いなところがあるけど、召喚体同士での心話もうまくできない、と言ってた通り、本体との差は色々ありそう。
「アキの姉、リアです。黒姫様、初めまして。私達、街エルフも年老いた世代はともかく、私や親の世代あたりでは天空竜が空間転移を行う、その様子を観た者はおらず、上の世代より話を聞かされたのみでした。私や両親も含めて、アキと同様、空の揺らぎから、跳躍してくるのを認識しました。ソフィアはどう?」
「私も似たようなモノです。強いて言えば、黒姫様が現れるのと同時に、元々あった大気が外に押し出されたように思えたところでしょうか。僅かな量なので気のせいかもしれません」
師匠がそう話すと、黒姫様は目を細めて感心した表情を浮かべた。
「其方がアキの師匠か。覚えた。其方が感じた通り、跳躍すると、先にあるモノはなんであれ、排斥される。何もない領域でも自身を保てる存在がやってくれば、場を譲るのが道理よ」
つまり、黒姫様が降りてきて、雲取様や白竜さんが場を空けたのと同じ、と。
<皆の力量は理解した。――ところで、そこの人形、アイリーンだな? 雲取の加護が見えるから違いあるまい?>
同席していたアイリーンさんに黒姫様が視線を向けた。
「ハイ、私がアイリーンです、黒姫様」
<今回、診る対価として、プリンという食べ物を食したい。よいか?>
おや、料理まで指定してくるとは珍しい。
「竜の方々向けは常備しておりませんノデ、二時間ほどお待ち頂ければお出しできマス」
<それで良い。これからアキを診る故、その後で食すこととしよう。無理に急がずとも良い。少し時間もかかる>
「承りまシタ」
アイリーンさんの返事に満足そうに頷くと、黒姫様はゆっくり座ると尻尾の上に頭を乗せた。敵意はないことを示す姿勢だ。ありがたい。
<それでは、アキ、それとリア。二人はそこに並ぶように。先ずは竜眼で観る>
ぽんっと音を出して、地面に丸い輪が二つ描かれた。創造術式によるマーキングだろう。それから僕とリア姉は二人して輪の中に立って、黒姫様があっち向け、そっち向け、と言われるままに、立ち位置を変えて、延々と観て貰った。かなり近い距離ということもあって、リア姉は結構緊張してて、もう少し力を抜くように、と何度か注意される始末だった。
◇
竜眼で観る作業は十五分くらいで、暫くは話をするということで、僕以外の人達は控室に戻って貰うことになった。診療の一環かと思ったら、続きはプリンができてから、と言われて皆も脱力したけど、その決定に文句を言える人などいる筈もなし。足元にトラ吉さん、隣にお爺ちゃんだけ残ることになった。
<それで、思念波はアキに絞れば良いのだったか>
「はい、そうしていただけるとトラ吉さんやお爺ちゃんへの負担が減るので助かります」
<理解した。どちらも難しいとは思うがゆるりとするが良い。それではアキ。例の記憶に触れた後、他の者と話をし、触れ合ったことで、自身とは何か、その認識を取り戻すに至ったと聞いた。それについて少し話してみよ>
ふむ。
思念波から伝わってきた感情からすると、推測はできているけど、確信が欲しいってところかな。それと、竜族との違いを気にしているようだ。
「あの記憶に触れた後、自分自身がどこにいるのか、何をしているのか、自分は誰か、何がしたいのか、そんな普段なら気にもしない当たり前のこと、その根元が脆くなって、しっかり地に足を付けて立ってた感覚が失せて、何をしようにも、考えようにも、空回りするような、何もないところに手を伸ばすような不安と、不確かさを感じていました。心話をしていた時はその感覚が顕著で、心話を終えて身体感覚が戻ってくると、自身の体に触れることで、肌の感覚や、呼吸、身体を動かすことで、自分がここにいると思えて少し安心できました。それに僕を認識して言葉を交わしてくれる相手がいると、やり取りをすることで、それに対応した僕の心を認識できて、脆かった部分がしっかりと形を取り戻していくように思えました」
心話をしている時って、身体感覚がないけど、それを不安に思ったことはなかった。だけど、あの後は、身体感覚があることがとても大切なことのように思えた。
例えば、ということで、トラ吉さんと触れ合った時と、お爺ちゃんと話した時では、心の動く部分が違ってて、動いた部分がそれぞれ回復していった感じ、とも話した。
その話を興味深く聞いていた黒姫様は、少し考えた後、語り始めた。
<群れで生きる種族と、我らの差かもしれぬ。私が知る症例では、そこまで自身のイメージが崩れることはなかった。そもそも、ある程度の地力がなければ、空間転移に手は届かぬ。何もない虚無の領域に初めて触れることによる戸惑い、混乱で多少揺らぐ程度だった。アキの場合、独りで生きる準備がまるで整わぬのに、あの領域を識ってしまった。そのせいかもしれない。――ところで、見知った相手と話すことで回復したというが、こうして私と話して何か変わったか?>
ん。ちょっと心の内を意識して確認してみたけど、やっぱり癒された感じはしている。
「黒姫様とは、空の上で僅かな時間、言葉を交わしただけでしたが、それでもあの時の記憶を思い出して、脆かった穴が塞がった感じがしました。それに、こうして新たにお話していると、やり取りを繰り返すことで、相手を認識するのと同時に、自分自身を意識することにも繋がって、心が穏やかになって安心します」
<それは良いな。竜も我が揺らいだ時は独りにはせず、近しい者達と過ごすものよ>
なるほど。
「黒姫様、ちと質問があるんじゃがよいじゃろうか?」
<話してみよ>
「儂ら妖精族は、魔力の量はともかく、質では竜族に並ぶと認識しておる。じゃが、空間転移はできる気がせん。何が違うんじゃろうか? 儂らはこの通り小さい。ならば体に見合った小さい魔力でも術式の発動はできると思うんじゃよ」
<それは、意識や在り方の差であろう。手頃な石はないか、うむ、アレにしよう>
演習場の周囲にある壁石の一つがふわりと浮いて、こちらに引き寄せられた。何百キロもありそうな石なのに、まるでシャボン玉のような軽さで、ふわふわと飛んできて僕達の前に置かれた。繊細な操作に驚いたら、嬉しそうに目を細めてくれた。
<まず爪で斬る。そして、今度は爪で叩く。この差を識ったならば、糸口は掴める。後は努力で何とかせい>
黒姫様は、身体を起こすと、大きな石に対して勢いを付けず触れるように爪で触れると、そのままゆっくりと緩い粘土を変形させるように爪で途中まで斬った。そして、一旦、爪を離すと、また石をトントンと叩いた。今度は斬れない。
まるで手品を観ているようで、何が違うのか全然わからない。
お爺ちゃんのほうを見たけれど、やっぱり、何が違うのかわかってない感じだ。
んー、前に雲取様が言ってた話かな?
「これって、意識を籠めなければ何でも斬れたりはしない、そうでなければ危なくて堪らないって雲取様が話してたことでしょうか?」
<その通り。竜の爪は何でも斬るが、いつでも斬れる訳ではない>
「刃物で斬るとか、鋭さで食い込んで割っていくのとは、根本的に違う現象ですね」
黒姫様の了解を得て、爪を触らせて貰ったり、斬られた石の断面を眺めたりしてみたけど、その切り口はあまりにも滑らかで、磨いたように綺麗だった。切断というけど、一般的な意味での切断とはまるで違うのは確かだ。お爺ちゃんもペタペタと触れて観てるけど、やっぱり驚いてる。あ、でも、妙なことに気付いた。
「これ、斬ったのに爪が入り込んだ分の石が消えてますね。変形した訳でも、圧迫された訳でもなく、破片も切り屑もないし、切断面も熱くなったりもしてない」
そもそも、大きな石に爪が途中まで斬った跡はついてるけど、割れてはいないし、ゆっくり爪を押し当てていった感じだから、実は超圧力とかだったなら石が変形したり、圧縮で熱くなったりする筈なのにそれはなし。
「じゃが、魔術で理を曲げた訳でもなさそうじゃ」
お爺ちゃんが杖を振って、何か確認してたけど、手応えなしと。
<竜族は貰ってばかりであったから、ちょうどよかろう。その石を教材に考えてみるといい。ただ、何か試すなら、竜族を同席させることだ。そうでなければ、何かあっても面倒はみれぬ>
これ以上は教えてくれない感じだ。というか、教えられてできるモノでもないのかも。
僕とお爺ちゃんはお礼を言って、この件は宿題とした。
◇
その後は、自身を形作る記憶の大半、地球側、マコトの時のことは、どうしたのか聞かれて、マコト文書に詳しい父さん、母さん、リア姉、それにダニエルさんやケイティさんに協力して貰って、書かれているエピソードを話して貰い、それを思い出したり、あれこれ話題とすることで、認識の揺らぎを治めることができたと話した。そこまで思い出せるものかと疑問を持たれたので、リア姉にマコト文書抜粋版を持ってきて貰い、実際にいくつかエピソードを読んで貰うことで納得して貰った。昔の事をありありと思い返せる文書の便利さに触れて、黒姫様は強く興味を示して楽しそうだった。
マコト文書はミア姉の視点で書かれた内容だから、僕が語った内容であっても、僕の記憶と捉え方が違ってたりして、その差異にも、黒姫様は興味津々だった。
<地の種族の時の認識は面白い。我らはそれを必要としてはこなかったが、今後はそれも必要となろう。ただそうなると、筆記用具と文字は欠かせないか>
黒姫様が語った内容を要約すると、竜族は大きなイベントの起きた時期の前後関係くらいは把握しているけれど、何年にどこで何があった、みたいな歴史に相当する概念がないようだった。何せ技術レベルも、魔術レベルも、文化レベルもほぼ変わらず、勢力争いも、ある程度の規模になると、管理限界を超えて分かれる、といった具合で、あまり覚えておく必然性もなかったそうだ。恐竜達の時代が一億年続いたと言っても、それで人類のように技術が発展したりはしなかったし、必要がなければ、そういった概念すら発達しないってことなんだろう。
「金竜さんが頑張ってるので、黒姫様もお暇な時に手を貸してあげてください。文字は使う人が増えないと意味がありませんから」
<考えておこう>
そう言いつつも、黒姫様はまじまじと僕を観て、不思議そうな顔をしていた。
「どうかしました? 診療で何か気付いたとか?」
<そうではない。アキは何とも不思議な子と思っただけだ。こうして我らと恐れを抱かず語り合う様や、弱くて目が離せない様は幼竜のようであり、しかし、我らでも理解に手間取る話を駆使する様は成竜にも並ぼう。他の竜達も言う通り、目が離せない存在よな>
雌竜達に迫られ続けて、精神的な癒しを求めて地の種族に興味を向けたのか、とも邪推したがそうでなくて良かった、などと笑ってもいた。もしそうなら、なんかヤバそうな気配も感じたけど、雲取様はちゃんと彼女達と向き合う立派な青年だから、その点は大丈夫。
しかし、やっぱ、僕は白竜さんも語ってるように、ペット枠かぁ。
まぁ、別にそれで何か変わる訳でもないから、気にはしないけど。
「気にかけて貰えるのは嬉しいです。今回も皆さんにはとても助けて貰いました」
<アキが気前よく絆を結び、行動で関係を深めていったからこその結果よ。誰も、名前も知らぬ相手に手を貸そうなどとは思わぬモノ。いくら刺激に飢えた我らとてそれは変わらない>
とはいえ、身体が小さいのだから、我らに近づく時は押し潰されぬよう注意するのだぞ、などと言って、成竜に近づく際のマナーについてあれこれ教わることになった。竜眼で見えると言っても、同じ竜相手には使わないように、見えてるようで、死角は多いこととか、驚いた時に尻尾や羽が思わず動くこともあるので、その辺りには不用意に近づかないことととか、急な動きをしないこととか、結構、配慮することがあった。
他にも、僕や召喚されてきてる妖精さん達は、魔力属性が僕に引き摺られて完全無色透明なせいで、魔力感知に引っかからないので、視界の範囲内でゆっくり動くよう注意された。注意してれば認識できるが、散漫な意識では見落とすこともあるのだから、と。
お爺ちゃん達、妖精族は動きが素早いので、竜が気付いて避けるのではなく、妖精の側が避けたほうがいいとも言われた。姿を消したりしていれば、魔力属性も相まって、気付かずに空中衝突することもあるだろうから、とも。
お爺ちゃんも、身を隠す利点より、気付かれずに事故に遭うことの問題が大きいと認識していて、こちらに多人数が召喚される際には、識別用の宝珠を鞄に入れて背負うことで、魔力属性の問題を回避するようにした件を伝えた。そうしたら、実際に見てみたいと言われ、ケイティさんが用意してくれた宝珠をお爺ちゃんが背負い、飛んでみたり、姿を消したりして、あれこれ確認することにもなった。
そんなことをしている間に、アイリーンさんが空間鞄を持って戻ってきた。
◇
大きなテーブルに、大皿が置かれ、バケツサイズの巨大プリンが姿を現した。その大きさでも少し変形した程度で保つ絶妙な柔らかさと、光沢に包まれた滑らかな卵黄の色合い、上面を彩るキャラメルの焦げ茶色がとても映える。隣には、やはりバケツサイズの大きく透明なジョッキにたっぷりと注がれた紅茶の紅葉のような色合いもまた美しい。
黒姫様はそれを観ると、満足そうに頷き、関係者を集めるよう伝え、暫くして控室にいた皆さんが戻ってきた。
<それでは、診察した結果を皆に伝えよう。アキは子供だから家族もそれを知る権利と義務がある>
その言葉に、皆も静かに頷いた。
<以前、アキは魂交換の秘術を用いたそうだが、雲取も告げたように、二度と同じ事をしてはならぬ。本来、魂は成長して安定していれば、ここにあるプリンのように、器から出しても形は崩れぬ。脆いが丁寧に扱えば崩れたりはしない。だが、術式で入れ替えた魂は、こちらのガラスの器に注がれた紅茶のように不安定だ。器から出せば形を保てはしまい。そして、今のアキの状態はプリンに近いが、器から出すのは怖い。世界樹も配慮はしているようだが、記憶の管理や反応が甘い。今回のようにまた触れるのを避ける意味でも、世界樹との心話は避けたほうがいいだろう>
わざわざ、プリンと紅茶を用意させたのは、食欲だけじゃなかったんだね。
雲取様にも、魂交換は二度とやってはいけない、と言われていたし、これは注意しないと不味そうだ。
おや、師匠が手を挙げた。
「黒姫様、成竜は空間転移を行えると聞きました。ならば、心話で今回のように記憶に触れる恐れはないのでしょうか?」
む。言われてみれば確かに。
<地の種族は皆、幼竜のようなモノ。だから、成竜は自然と触れてはならない記憶には触れさせないよう配慮するモノだ。それに今回の件を受けて、例の領域に関しては、地の種族には求められても安易に伝えぬよう通達を回しておこうと思っている>
ふむ。
ん、今度はお爺ちゃんか。
「儂らも、触れぬほうが良いのじゃろうか?」
<翁も、石を爪で斬った様を理解してはいなかった。つまり時期尚早という事だ。意味を識ったなら触れても良い>
控室にいた皆さんは何のことか知らないので、黒姫様が爪で壁石を斬った件についてざっと説明した。すると、まさに神技としか言えない代物と分かり、どよめきが広がった。
今度はリア姉か。
「我々、街エルフや三大勢力の国々は、空間鞄で空間制御を、保管庫で時間流制御を部分的に成功させています。また、転移門を用いて離れた地同士を繋ぐ技にも手が届きました。竜の空間転移や、竜爪の斬る技はそれらの延長線上にあるモノでしょうか? 我々の技術はその術式や原理を知ったからと言って、心の安定を失うモノではないので、似た現象を扱ってはいるものの、両者が同じモノとは考えにくいのです」
リア姉の話を聞いて、暫し考えて黒姫様は口を開いた。
<例えば、先ほど、プリンや紅茶を運んできた空間鞄を竜眼で観察してわかったが、空間の狭間を、魔術を用いて上手く使っている。私も、こうして観察して方法を知った今なら空間にモノをしまい込む真似もできるだろうが、昨日の私にはそんな真似はできなかっただろう。つまり、両者の理は異なるモノだ。結果は似ていても辿った道筋は違う>
ふむ。
「黒姫様、空間転移でも妖精界のような異なる世界には跳べないと聞いてます。それなら、竜の技と、地の種族の技を組み合わせたら、届くでしょうか?」
<できぬ、とは言わない。組み合わせた事など無く、地の種族の時空間制御の技も詳しくは知らない。ただ、皆の技はこの世界の中で使う理であり、世界の外に使う理とは異なる。そして竜族もまたあの領域は僅かな時間、身を晒す程度で使いこなしているとは言えぬ。世界樹の手を借りてみてどうなるか、といったところだろう>
なるほど。
ならどうしようか、と考えていたら、黒姫様がじっと僕のほうを見た。
「えっと、何でしょうか?」
<触れてはならぬ、と言った傍からそれでは、気が休まらん。連樹はまだ話がわかるモノと聞く。あの領域を含めた研究は私に任せよ。アキ自身がやらずとも、誰かがそれに携わっていれば不満はあるまい?>
え?
「あの、それはとてもありがたい申し出なのですけど、宜しいのですか?」
<子育てもとうに終わり飽いたところだった。ここに通ってきている者達はそれぞれ既に抱えているモノがあり、新たな試みに手を伸ばす余裕もあるまい。――それにいい加減、話だけ聞かされ続けて我慢も限界だったのよ>
そこまで話すと、黒姫様は他に質問がないか聞いてきた。
ん、父さんが手を挙げた。
「黒姫様、アキは今回のような記憶に触れないとして、他に何か気を付けることはあるでしょうか?」
<アキの心はまだ成長途中、ならば、他者との交流はこれまで通り行い、心を育むことが重要だ。心話は負担にならないなら好きにすればいい。ただ、老竜クラスとの接触は注意することだ。平穏時ならともかく、怒りに我を忘れた福慈様など、私とて近付きたくはない>
「ありがとうございます」
父さんが深く頭を下げると、黒姫様は他にないか確認すると、急に気配をがらりと変えた。
<それでは、要件も済んだのだから、用意してくれたプリンを食すとしよう。なんとも甘い香りだ。それに器を持つだけで揺れる様は氷とも違う――>
などと、手で摘まんだ大皿で、ちょっと揺らしてみたりした後、パクリと口に含んだ。そのまま舌触りを楽しんでいたようで、その後は無言のまま、紅茶を飲んで、満足そうに笑みを浮かべた。
<今まで食べたことのない不思議な食感だった。アイリーン、見事だった。ところで、例えば材料を持ち込めば料理の技を振るって貰えるモノだろうか? 私の縄張りで取れる獣は――>
黒姫様は話は終わったとばかりに、アイリーンさんにまぁ座れ、と席を勧めると、色々と考えていたようで、他の竜達がしなかった交渉まで持ち出してきた。他の者はもういいぞ、と言って追い出しにかかるくらいで、アイリーンさんも腹を括って、持ち込まれる食材について下処理の重要性に触れるなど、本気モードで対応を始めた。
……そんな風に、振り回されっぱなしな感じではあったけど、僕の診察もして貰えたし、新たな分野への研究に黒姫様が参加してくれることも決まって、良い方向に話が進んだのは確かそうだった。
黒姫の診察も終わり、新たな研究分野への参加も決まりました。素材持ち込みという新たな切り口も出てきた為、アイリーンの料理を巡る竜達の駆け引きもまた、新たな次元へと進んでいくことでしょう。
あと、竜族も大きくなると、その身に合った甘味なんてなくなってしまうので、やはりアイリーンの料理は威力抜群でした。今後はこれまで人が口にすることが殆どなかった食材(獣)も持ち込まれることにもなりそうで、そうなると料理界にも大きな変化が生まれそうです。
次回の投稿は、九月二十二日(水)二十一時五分です。