第84話 ゆめりの試練6
久保田さんとの通話を切った俺はどこか晴れ晴れとした気持ちで息を吐いた。
すると、タイミング良くドアがノックされ、顔を覗かせたのは母さんだった。
「松三朗、ちょっといい?」
「いいけど」
大方風呂に入れと催促にでも来たんだろう。つーか入室OKの返事する前にドア開けるのホントやめて。
そんな母さんは、何故か俺の部屋の中をぐるりと一度見回した。
「何だよ。風呂の催促じゃなくて何か探し物?」
「ええ。ちょっとゆめりちゃんを」
「何でここにいると思ったんですかね!」
「念のためよ念のため。お隣から電話があったのよ。もう十一時近いのにゆめりちゃんまだ帰ってないみたいで。ああでも遅くなるって連絡はちゃんとあったみたいなのよ。でもねえ、時間も時間だし……」
「そうなのか? あいつ明日本番なのにどこで油売ってんだ。電話してみるよ」
頷く母さんを部屋の入口で待たせたままスマホを操作する。
通話直後の端末の温さとは裏腹に、冷えたような沈黙が俺の内面を満たしていく。
何度鳴らしても奴は出ない。
俺の電話だから取らないってんならいいが、もしも何か事件に巻き込まれでもしていたら……。
「えっちょっと松三朗!?」
「近所捜してくるわ」
居ても立ってもいられなくなってクローゼットからコートを引っ掴むと、ハンガーが床に落ちるのも構わず乱暴に引き抜いた。俺の暴挙にも似た行動に驚く母さんの横をすり抜け、コートをろくに羽織る間も惜しんで靴を引っ掻け外に出る。
雪こそまだないが、十二月末の夜の寒さが身に沁みて俺はここでようやくきちんと前を閉めた。
何もなければいい。
心底そう願った。
当てなんてなかったが、通行人なんて数えるほどもない夜のコンクリの路地を、息が切れて途中何度も立ち止まりそうになりながらも、咽が渇いて冷たい空気が無情に肺を侵食しようともグッと顎を上げた。
今にもへばりそうになりながら近所のコンビニを覗き、次に小さな公園へと向かった。
公園入口に差し掛かった俺は、そこから奥へと目を向ける。
――ゆめりが居た。
一人外灯の下のベンチで何かの本を開いている。
俺は乱れた呼吸を整えながらゆっくりと心に広がる安堵を噛みしめ、一歩また一歩と地面を踏みしめた。
足音に気付き、向こうがハッとしたように顔を撥ね上げる。
時間も時間だと自分でもわかっていたんだろう、最初警戒心を露わにしたような顔をしていた。
「……何だ。花垣君か。びっくりするじゃない。でもどうして……」
「おばさんが心配して、うちに電話して来たんだよ」
「遅くなるって連絡は入れたわよ」
相手が俺だとわかってホッとする様を見て、俺は自分が勝手に思い違いをしていたんだという結論がもう確信的になった。
「だからって遅過ぎだ。何かあったのかって普通心配すんだろ。しかも一人で夜の公園なんかにいるなよ。マジで危ないやつが来たらどうすんだ。電話も出なかったし」
俺自身極度の心配から来た苛立ちもあって、窘める声が多少尖っていたのは否めない。
奴は「電話?」と呟いて隣に置いた鞄の中のスマホを確認すると、「マナーにしてたんだった」とバツの悪そうな顔をした。
「悪かったわ。寒い中捜させちゃったのね。でも変な人なんてどうせ来ないわよ」
「お前な……」
んなもんは結果論だ……と説教しそうになったところで、俺は奴が手にしている本が何なのか悟った。
劇の台本だ。
「まさか今までここで練習してたのか?」
ベンチに座ったままの奴は僅かに台本を握る手指に力を込めて「そうよ」とだけ呟くと、顔を伏せたきり黙りこむ。
膝上を見つめたままのその奇妙な沈黙に俺がさすがに訝りを感じた時、
「――言われた通りかもしれない」
俯いた下から存外に弱々しい声が届いた。垂れた前髪に隠れて表情まではわからない。
「何の話だよ……?」
「あたし演技は初心者同然だもの。経験豊富な部員よりも上手く演れるとは皆も思わない。だから先輩たちの気持ちはわかる気がするわ」
脈略なく始まった話は、どうやら上級生からのイチャモンに対してのようだった。
俺は眉をひそめた。
「それ本気で言ってんのか?」
「本気も嘘も、経験の差は埋まらないでしょ。何くそって思って意地でも演ってやるって今日まで頑張ったけど、あたしは心のどこかで本当にあたしで最高の劇ができるのか疑ってる。いくら練習してもこれじゃまだ駄目だって思うと、もう少しあと少しってなって……」
「だからこんな時間になるまで自主練を?」
奴の頭がコクりと小さく上下した。
視線を下げていた奴は気付かなかっただろうが、俺は呆然として立ち尽くしていた。
俺が半ば無理やりねじ込んで、こいつは今日までやってきた。
強い強いって思ってたが、こいつだって俺と同い年なんだ。
もし俺があんなお節介を焼かなけりゃ、こいつは役を降りていたかもしれない。
こんな精神的な苦痛を味わわずに済んだのかもしれない。
全てはそう、俺のせいかもしれない。
「ハハ、ハ……――だったら、降りればいい。今からでも」
「……っ」
「代役はいるんだろ。無理なら他のやつに譲ればいい」
顔を上げ、押し黙ったまま驚いたように俺を見つめるゆめり。俺がこんないい加減で他人事で突き放した言葉を浴びせるとは夢にも思っていなかったって顔付きだ。正直、俺自身だってそうだよ。びっくりだ。
「そんな気持ちじゃ出たっていい舞台にならない」
奴は悔しそうに唇を引き結ぶ。
「もう諦めちまえよ」
「……っ」
「譲った方が賢明だって」
「っっっやよ! この役は部内オーディションであたしが勝ち取ったあたしの役なんだから! 何も知らないあんたが偉っそうに言わな……――っ」
嬉しそうに呆れる俺の微苦笑に気付いたのかもしれない。
感情任せに立ち上がって怒鳴ったのをピタリと止めた奴は、やらかしたとでも言うように口をぱくぱくさせた。
「かまかけっ、騙しっ……」
「人聞きの悪い。試したっつってくれ。でもわかったろ自分の根っこの気持ち。今のお前の努力そのものが既に称賛に値するんだよ。すげえんだよ。んでもってスポットライトの下に実際に立てばそれはもうすげえ以上に無敵なんだよ。そう思っとけ」
奴がハッとしたように薄い瞼を広げた。
「堂々と胸を張れ、萎縮すんな。お前が演技の方をやってみたいと思ったきっかけは何であれ、立ち止まんな」
沈んでいた黒い瞳に活力の光が戻りつつある。
俺は奴の手から台本を抜き取るとベンチに置き、次に奴の両手を取って俺の頭の両側に当てさせる。
走って温まっている俺の手とは違ってひんやりとしてすっかり冷えた掌が、何とも言えない苦々しさを生じさせた。
それでも、瞳に明らかな困惑の色が過ぎる真正面の幼馴染み相手に、大きく息を吸い込み言ってやる。
「俺のこの頭ん中はな、意識も無意識も潜在意識も深層心理も何もかんも全部でお前の味方なんだよ! 怒りは伝播するって言うように、だから根拠はねえがこの感情だってこうやって直接頭に触れてりゃ、よりお前に伝わるだろ。っつか伝われ!」
人間の意識は未だその全容が科学できっちり解明されているわけじゃないし、かなりクサい事をしている自覚もある。
だが馬鹿みたいとか思われてもいいんだ。
それで少しでもこいつが浮上できるんなら。
「我が道を貫け――緑川ゆめり」
奴はその大きな目をゆっくりと数回瞬かせてから、やがて微苦笑を浮かべた。
「不器用な励まし、ありがと。もう大丈夫。おかげで目が覚めたわ」
「そうか」
「うん。だからね松くん……あたしの姿、もう一秒だって目が離せないようにしてやるんだから」
「ははっ、すっげ大女優発言!」
「……鈍っっっ感!」
奴は何故だか頬を膨らませた。




