第72話 北都さんちのケンジロウ君
あ、やべえ、と思った。
手が手摺りから滑ったと同時にガクンと景色が急旋回。
やけにゆっくりと感じる中、屋上のなけなしの端っことその先の校庭のイルミネーションが目に入って、こんな時なのにああ綺麗だな……なんて思った。
しかし刹那、逆再生するように景色が巻き戻って星の瞬き始めの空が視界一杯に広がっていた。
転落よりはずっと軽いだろう衝撃を伴って。
一体自分の身に何が起こったのか咄嗟には把握できないままに、俺は屋上のコンクリの上に背中から転がっていた。鈍痛に耐えながらのそりと半身を起こして座り込む。
「――何やってるのよ花垣君ッ!!」
誰かの大喝に、既に覚醒しているはずの意識がようやく現実を認識する。
ええと、屋上から身を乗り出して、ああそうだ、落ちそうになって……ん? 落ちたのか? ……違うか、ここが屋上だしな。
天地が回った所で、強い力で後ろに引っ張られたみたいだ。
その証拠に、腰からシャツの裾がだらしなく出てしまっている。
誰かが腰のベルトと服を掴んで力一杯俺をここに留めてくれたのだと、直前の感覚を思い出して理解する。
眼前の人物をぼんやり見上げれば、さらりとした綺麗な金髪が夕方の薄闇にも沈まずに浮かび上がっていた。
「オネヤン…先輩……?」
「間に合ったから良かったものの、本当に危なかったのよ!」
彼は真剣な怒り顔だ。
そんなヒーローを前に、段々と麻痺が解けるように感情が戻る俺は、反対に顔から血の気を引かせた。ここは実質五階。落ちたら言うまでもなくただじゃ済まなかった。
「……先輩が、助けてくれたんですね。ありがとうございます……本当に」
今更ながら全身が震えた。
「わあああん花ガッキーバカバカ何やってるのさーッ!」
「――どわあっ!」
藤宮から感極まったようにタックルされ、支え切れずに屋上に倒れ込む。
「そうね花垣君。蛮勇で突っ走るとヤンキービンタのち壁激突よりも最悪な結末になるんだからん」
「そうそうもっと馬鹿ガッキーに言ってやって下さい~! 宇宙の果てまで文字で埋まるくらいに!!」
どんだけだよ……。
「んーそれじゃ、自分の身体能力値きちんとわかって行動しなさいねん?」
「そうだそうだー! 花ガッキーは人間もやしなんだからー」
「あら、かいわれ大根じゃないのん?」
そこまで細くねえよと突っ込みたいのを我慢する。
キッと俺を睨む藤宮も叱るように見下ろすオネヤンも言いたい放題だが、文句なんて言えるはずもなかった。
「迷惑掛けてすみませんオネヤン先輩、藤宮も」
「花ガッキー天誅!」
「でっ……!」
脳天チョップしてきた藤宮が胡乱な目になった。
「またそうやって迷惑とか言う」
「そうよ花垣君、私とあなたの仲なのよ。他人行儀じゃないの」
「え、いやええと……」
「藤宮さんからの連絡で駆け付けてみれば、穏やかじゃなさそうな事になってるし、危ないと思って追いかけて正解だったわ。あと一歩遅かったら…………あいつらを殺してたかもねん」
「えっ」
俺を恨みがましい目付きで見下ろすオネヤンは、物騒なセリフを口にそのままの視線を唖然として突っ立つ元不良仲間へと突き刺した。
二人は捕食相手に睨まれた蛙のようにビクッと体を震わせた。
彼らだって俺が転落しそうになるなんて想像もしてなかったに違いない。
俺はゆっくり立ち上がると藤宮にカメラを手渡す。
「ほらこれ。レンズも割れてないし多分大丈夫だとは思うが、精密機器は中でどうなってるかわかんないから一応は動作確かめてくれ」
あの時、伸ばした右手に引っ掛かったカメラの首紐を無意識に強く握りしめたおかげか、その先に繋がる一眼レフ本体は倒れ込む間際、慣性に従って俺の胸に当たり懐に落ちてくれたようだった。硬いコンクリに落ちなくて良かった。
「ありがとう。後で見てみるよ。でも何であんな必死に追いかけてくれたの?」
「ああ、だってそのカメラ年季入ってるし大事なものだろ?」
「……うん、実はお祖父ちゃんの形見なんだ」
両手で受け取った一眼レフを複雑そうに見下ろして、藤宮は笑みにならない笑みを浮かべた。
「でもさ花ガッキー、次こんなことあったらカメラは放っておいていいからね」
「え、何で」
「花ガッキーの方が大事だからだよ」
「……」
「ひひっ、うちらの友情は不偏で不変で不屈だよ」
丁寧にカメラの表面を一つ撫で藤宮は伏し目がちだった目を上げると、拳を握って軽く俺の胸へとぶつけてきた。
さすがにちょっとドキリとはしたが、そんな友情なら素直に嬉しい。
助かったし、カメラは無事だし、ヤンキーズは戦意喪失っぽいから落着するかと思いきや、低い声が聞こえた。
「二人共、昨日あれだけお灸を据えたのに、まだ懲りずに私の花垣君にちょっかい掛けてたのね。反省したふりだったのね、ふ・り」
天使の羽を背負っていてもおかしくない神笑顔でに~っこりしたオネヤンが、その反面全く笑っていない双眸をリーゼントと坊主に向けている。
「ひっ、いやこれはだな、おおお落ち着けッ――ケンジロウ!」
「そそそうだって話せばわかる! 話し合おうぜ? な? ――ケンジロウ!」
「……その名で呼ぶなって前言ったわよね?」
「「じゃあ何て呼ぶんだよ!!」」
「普通に苗字でいいじゃない」
「わわわかった、ホクト!」
「だから怒りを鎮めてくれって、なあ? やっぱ人間一番は話し合いだろ?」
いやさ、お宅らが言うな……。
「うふふ話し合い? 何のために?」
抑揚なき声が降る。ゆらゆらと陽炎が立ち昇る炎天下の荒野、孤高に歩き来る強き漢の俯いた顔の先で、怒れる眼だけが鋭く光る……そんな幻覚が見えた。
縮み上がる不良たち。
オネヤン……いや本名を「ホクトケンジロウ」っつーらしい御仁は真っ直ぐ距離を詰めていく。
んな硬派そうな名前だったとは。
「なあオネヤンの苗字どう書くか知ってるか? やっぱ北斗七星の北斗?」
「北の都の北都だよ」
「ああ、そうなのか」
ちょっと残念。暮れなずむ屋上からどこか世紀末的な匂いが薄れた。
俺の心情を察したのか藤宮が苦笑を浮かべる。
そして何故かカメラを預けてきた。
「少しの間これ頼むよ。北都先輩一人でも十分だけど、やっぱりフェアに二対二じゃないと」
「は? ひ? ふ……フェア?」
俺の困惑を余所にオネヤンを追うように遠ざかる背中。
おいおいまさかだよな藤宮?
「待てって危ねえよ! オネヤン先輩も!」
「大丈夫。さっきはカメラがあったけど今は手ぶらだから」
「私を心配してくれるなんて、うふふふ感激。平気だからそこで見ててん?」
二人からさらりと超余裕の一瞥を返され、オネヤンからは投げキッスまでされ、俺は一時呆気に取られた。




