第15話 不機嫌ちゃんとミルクティー
帰りはほとんど雨が上がっていて、顔にまだ少しポツポツくる程度だった。俺も奴もこれくらいなら平気かと傘は差さない。最寄り駅までのきれいに舗装された歩道を奴と二人で歩く。
――よかったですううう姉貴の車じゃなくって!!
俺の中のぶりっ子メイドが内心で大いに叫んだ。本当は今日何も予定なくて暇だった姉貴に急遽デートのお誘いを入れてくれた彼氏さんとやら、ありがとう! そうでなけりゃ、今頃帰りも戦闘機パイロットもかくやなGが掛かった過酷な訓練だった。
いよっ社長! 総理大臣!
……って、本当にそういう人物と付き合ってたらどうしよう。
姉貴の交友関係はかなり謎だかんな。
いつだかは友人だと言って家に白衣の男を連れて来た。私服が白衣って時点で俺は何かやべえと思う。別の日にはきっちりリーマンスーツを着た政府高官を連れて来た。友人だという割にはやけに「ごごごめん小梅ちゃん!」「いいいいの小梅ちゃん?」「まままままって小梅ちゃん!」とか、ことあるごとに姉貴にへこへこしてたのが解せなかった。まさか姉貴は一般人に身をやつし密かに世界を牛耳る女ボスなのか?
一見ピシッとしてまともそうだったのにな。そのまま街角を歩いてたらさぞかし女性の視線を集めるだろう男性だったのに、残念だ。それにどことなく俺と奴の関係性の延長線上を見ているようで心がとても……っ……っ。
「――あの大きな白馬の絵、毛並みの光沢とか筋肉の付き方とか躍動感すごかったわね。今にも飛び出して来そうだったし眼も生き生きとしてて、生身のあんたより余程生命力を感じたわ」
隣を歩きながら感想を語るゆめりは珍しくも頬を紅潮させている。
「ふっ、やっぱりムチが好きな奴は、馬が気になるんだな……」
「何わけわかんない事言ってんのよ。高尚な絵に触れて興奮しすぎて人格崩壊したの?」
整った顔でさらっと人を小馬鹿にするな。お前みたいな容姿の奴から罵られて喜ぶMな俺だと思うなよ? 俺の属性はМとかSなんて次元で括られるもんじゃねえ。……XL? 3L? 3エロ?
「そうかもな。結構今テンション高い。やっぱり巨匠たちは巨匠って呼ばれるだけはあるよなー。俺もあんな絵が描けるようになりてー」
俺は小雨の降る曇天を見上げた。
「……悔しいの?」
思わず、苦笑が漏れる。
気付かれたか。
「否定はしない。どうやったらあんな絵が描けんだって思ってた。ま、芸術に勝ち負けはねえって思ってるが、実際コンクールなんかはそういう場だし、何より俺がまだ未熟なのは確かだ」
一流の絵には強烈に人を惹きつける何かがある。
俺の絵にはそこまでの何かがあるだろうか。
この先、生まれるだろうか。
周囲はそこそこ評価してくれるが、自分じゃよくわからない。
「あたしは、前も言ったけどあんたの絵すごく好きよ」
「そりゃーどうも。てっきりこき下ろされるかと思った」
「してほしいの?」
奴はどうしようもない阿保を見る目つきになっている。
「今まで薄々感じてたけど、あんたってやっぱり……エムなの?」
……ん?
俺は固まりかけた思考を何とか動かし、脳内言語検索をかける。
エム、M、えむ、EMU……えみゅー? 鳥の名前かどこかのバンド名?
「確かに俺のサイズはメンズのMで合ってるがな」
「マゾかって訊いてんのよ」
「違えよ! しかもやっぱりとか思ってるって酷くねえ? 一体俺の何処を見てマゾだとか思ってるわけ?」
「いつまでも引き摺って一人で痛みを抱えてるところよ」
「はあ? いつも俺を引き摺って痛めつけてんのはお前だろ――いひゃいひゃいひゃい!」
「何ですって、もう一度言ってみなさいよ? あたしがいつどこであんたを引き摺って痛めつけんのよ!」
「ふぉふふぉふふぉっ」
ほっぺつねられてて何も言えねえよ!!
んとに容赦ねえな!
くそっこれも逃げ道を封じるという奴の巧妙な手なのか!?
幼き頃「見て見て松くん、たこ焼き!」と、指と柔らかそうな頬でたこ焼きを作りし天使ちゃんが霞む……。
「ふぉふぉふぉっふぉー!」
「は? コケコッコー?」
何でここでそんなボケが出てくるんじゃい!
ホントやめてその指力! あ、ちょっとねじり取らないで! 馬の絵見て馬刺しでも食べたくなったのかい!? でも俺食べても美味しくないから! 駄馬だが人間ですから! パン工場とジャムっぽくないけどジャムなおじさんがバックに付いてる正義の味方じゃないんだ。顔の替えは利かないんだよ!
「だあああーーーーっもう!」
我慢の限界を超えた俺は奴の手首を掴んで大事なほっぺを救済した。
「言っておくがこの俺のほっぺはな、未来に神聖なる唇が触れるかもしれないんだぞ。今後は美術品並みに細心の注意を払って扱ってくれないと困るんだ」
ジンジンと痛む頬を擦っていると、奴はじっと俺の顔を見据えた。
「大事な頬を痛くして悪かったわね。あんたが茶化すから腹が立ったのよ。また人物画描き始めたらいいじゃない。絵画展でも人物画ばっか見てたくせに」
俺は思わず足を止めてしまった。
なるほど、奴はそれが言いたかったのか。
妙に絵について語るなと思えば。……まあ馬限定だったが。
おそらくここまで会話を持ってきたかったんだろ。
ゆめりはさっさと前を向いて歩き出す。
「あたしあんたの描いたあのおばあちゃんの絵、柔らかい雰囲気ですごく好――」
「――ゆめり」
未だ立ち止まっていた俺を、奴が振り返る。少し強い声だったからだろう。
「俺はもう人物は描かない。お前だってそれは知ってるだろ」
「あれはあんたのせいじゃないわ。あんただってそう理解してるはずよ」
「それでも、俺は描かない」
きっぱり宣言する。
奴はまだ何か言いたげだったが、上手く言葉を探せないようだった。
小雨が少しだけ強まった。
一度空を仰いで前を向く。
「……傘差すの面倒だし、駅に急ぐか」
「そうね……」
奴も同意して、俺たちは再び歩き出した。
駅まで互いに無言だった。正直気まずい。超~っ気まずい。
変な汗出てくる~う……という時間を味わった末の駅構内の自販機前。
――ピ。ガゴン。
「あ、やべえ押し間違えた。これ飲むか? 俺は飲まんし」
缶ジュースのお返しに……創業十五年、昔と変わらぬ味の大根な演技でちょうど午後にいいミルクティーを買った。さてどこのメーカーでしょう?
俺は後味の悪い沈黙は好きじゃない。途中で微妙な空気になったのを払拭したかった。純粋にこのままだと俺の平常心が恐怖の大王に支配されてこの豊かな大地は闇の軍勢に蹂躙され……とにかく、要はご機嫌取りだ。
ほれ、と差し出した小ペットボトルをしばし無表情で凝視していた奴は、それでも素直に受け取った。
「……買い間違えるなんて馬鹿じゃないの?」
「そう言うなよ」
やっぱ物で釣るのは失敗だったか?
僅かに後悔し始めた俺の前で、奴はしかし真冬でもないのに両手でミルクティーのボトルを包み込んではにかんだ。
「……バレバレ」
何事かを小さく呟いて。何だかとても嬉しそうに。
俺に届いたのは、
「まあでも、ありがと」
そこだけ。




