第10話 家には何がいるものぞ
昔、確か幼稚園の年長さんぐらいの頃、ゆめりはヤドカリを育てようとしていた。
海辺で拾ったきれいな巻き貝を持ち帰って来たらしい。
それを箱に入れていつヤドカリに育つのか待っていた。
もしかしたらかつてはヤドカリも棲んでいたかもしれないが、空の貝は所詮どれだけ待っても空の貝。ヤドカリになんてならない。
それでも根気強く毎日観察していたと聞く。
純粋な子供心のなせる業だな。
くううっ……心が洗われる逸話だ。
もしも貝のない裸のヤドカリがいたなら、あの頃の奴ならきっと可哀想に思って大事にしていたその貝を差し出しすらしただろう。
……ん? あれ?
今考えると、あの頃から奴は何かを自分の支配下に置いて育成するのが好きだった……?
なーんてハハハ穿った見方だな。
いやはや全く俺も汚れっちまったぜ。
「ああもう早く起きなさいよ! このっ……!」
「あと五分っ、あと五分下さいいいい!」
「それこれで三回目じゃない。もう十分は待ってあげたのよ。観念して起きろーっ!」
六月に入っての休日。安息日の日曜日。
外は梅雨時期に入ってのしとしと雨。
俺はベッドに潜ったまま奴に布団を剥ぎ取られまいと懸命に抵抗していた。
「この布団ヤドカリ! いいえ布団亀かしら。それとも布団かたつむり? さっさと起きて準備しなさいよ!」
……奴は、変わり果てた。
「お前昔はヤドカリヤドカリ言って散々俺に空の貝見せてまだかなまだかなーって言ってたくせに。大きなヤドカリさんから家を取り上げようとするなんて、あの時の清い心はどうした!? この外道がっ!」
「はあっ外道!? 何でそこまで言われなきゃならないのよ!」
奴は被った布団で死角なのをいい事に、俺へ真上からエルボーアタック。
「ぎゃああああッ!」
痛さラスボス級。
俺は下っ端モンスターの断末魔みたいな声を上げた。
「ヤドカリにしては変な声ね。コンコン、入ってますかー?」
変な声!? 普通だと思ってるけど俺自分ではっ。
それにここは駅のトイレじゃねえよっ、急かすなもう少し待っとけ!
「起きないと二撃目三撃目のノックが行くわよ?」
ひいいいっノック? 鉄槌の間違いだろ!?
「ハイごめんなさい起きます起きます起きます起きますからヘルプミーーーーッ!!」
俺は屈し、ついに家を脱ぎ捨てた……。
「ほらさっさと着替えなさいよ」
「はい女王様」
今までの攻防が何だったのかと言うような絶対服従に、奴はすこぶる満足げ。
腕組みし、やはり駄馬の調教にはムチだな……とか思っていそうな悪辣極まりない顔ぶりだ。
「……悪い着替えるからちょっと出てて」
「いくら午後五時までやってるからって、のんびり行ったらじっくり見る時間なくなるじゃない。もう十一時なのよ」
今日俺たちは美術館で開催されている名画展に行く。
俺は美術部員だし芸術が好きだからだが、券が余っていたので「お前こういうの行く?」と誘ってみたら奴も奴で興味があるのか「一度は見てみたいわね」と案外乗り気だった。
「……なあホントちょっと出てくんない? 着替えるから」
「世界の巨匠の名画ってどんな迫力かしら。ああ楽しみだわ。あんたの絵と比べてこき下ろしてやろうかしらね」
以前にもらった尊いアメちゃんは大事に取っておいたらもう溶けてどろどろべたべた。ああ良かったぺろぺろ嘗めちゃわなくて。蟻んこにでもやっとこ。
「おいこらちょっと。着替えたいんですけど?」
「五月蠅いわね。着替えればいいでしょ?」
「ほ」
俺はちょっと考え、着替えを手に自分の部屋を出た。そして廊下で着替える。何が悲しくて自分の部屋の外で着替えなきゃならんのか。
だが奴に俺のセクシーショットを見せるわけにはいかない。
何故か? ……あれ? 別によくねえ? 減るもんもねーしな。
ってなわけで俺は下は終えたが上は脱いだままな半端もんのまま部屋に戻った。
「あらもう終わったの? 早いわね」
部屋の本棚を凝視していたゆめりが振り返った。
ふははは残念だな。もうそこには御当地限定ものはないぜ。
マイスイーツ、あいつは安全な場所に避難させたからな。
ベッド本体と布団の間と言うシークレット・シェルターに!
「ちょっと何で上裸なのよ! 着替えたんじゃなかったの!?」
奴は不意打ちに弱いのか明らかに動揺して赤くなった。
これくらいで大袈裟だな。
水泳の授業では毎度見てるだろ。
「着替えればいいって言ってただろ」
「ここでとは言ってないわよ! 廊下に戻って!」
「ここは俺の部屋なんですがね」
「いいから出てって!」
「るせえな、上着ればいいんだろ着れば! でも今日はあちいなー」
寝起きで多少機嫌が悪かった俺は珍しくカチンと来てそのまま居座ってやった。
「な、早く出るか着るかしなさいよ!」
奴は奴で落ち着かない様子で何故か後ずさる。
その拍子によろけて器用にも俺のベッドの端の方に倒れ込んだ。
「あ、きゃあッ」
「――待てええええええ!! そこには俺の菓子シェルターがああああ!」
奴の悲鳴と俺の絶叫が重なった瞬間だった。
「やめてくれこれ以上の略奪行為はやめてくれえええっ!」
「えっ? ちょっ、な?」
俺は着替えもせず決死の覚悟をしたヒーローのように立ち向かう。
つまり倒れ込む奴に飛び付いてその両肩を掴んでベッドから追いやろうとした。
窮鼠猫を噛むじゃないが、突然の俺の行動に驚いた奴は驚き過ぎて固まっている。
その時の俺は、奴がべこりと潰したであろう菓子箱の中身を想像して絶望するのに忙しく、傍から見てそれがどういう状況に思われるのか見えていなかった。
半裸の男がだよ? いたいけな女子を無理やり押し倒している図にしか見えないよね?
――ガチャリ。
妙に耳朶を突き刺すようなその音で俺はハッと我に返った。
幸か不幸かこれがラブコメなら、こんなハプニングには誰かしらの第三者が登場するもんだよな。
しかもここは俺ん家。
必然的に家族しかいねえじゃん?
「……何やってるの?」
女性の声。
終わった。たぶん人生が。
きっと今晩は俺がステーキ皿の上に乗っかってるよ。
「ちちち違うんだ母さんこれには深いわけが! 俺の菓子が犠牲になった悲しみから起きた悲劇なんだ! お赦しをッ突発的事故なんですうううう!」
「お菓子……?」
俺の下で奴が困惑した呟きを漏らす。
「無駄に騒がないでよ。わかってるわよ。あんたがゆめゆめに手を出せないヘタレなことくらい」
…………はい?
奴を、ゆめゆめ?
それにこの口調は、まさか……。
「あ、姉貴……」
茶髪に染めたショートカットの女――花垣小梅は俺を顎でしゃくった。
「おら命が惜しければさっさとゆめゆめから離れな。ママに見られてもいいの? この手の嗅覚半端ないんだからママは」
母さんとよく似た声の持ち主は縦縞の寝間着のまま、歯ブラシ片手に口元に白い泡を、頭には寝癖をくっ付けて、俺たちをめんどくさそうに眺め下ろしていた。




