■4話■約束をめぐって
マルネリッタは床に崩れ落ちる前に王弟殿下によって助けられた。
殿下はマルネリッタの腰の後ろに軽く腕をまわしただけで簡単に彼女の背中を引き上げたのだ。
マルネリッタは力が抜けた状態で、殿下のその腕に支えられている。
それはまるで抱きしめられているに近い態勢で、マルネリッタの目の前には殿下の胸がある。
パチパチと瞬きを繰り返した。
そんなことをしても状況は変わらないのだが。
言葉はなく沈黙だったけれど、そこが今どんな空気なのかを読むどころではなかった。
こんな至近距離で男性と接していて平静でいられるほどマルネリッタは子供ではない。
一緒に暮らしていた祖父や使用人達はたいてい年老いていたし、領地の男性はこんなに優雅だったりしなかった。
殿下は優雅な動きなのに力強い、大人の男性なんだ。
固くて冷たそうに感じていたのに、そんなことはなくて。
マルネリッタは狼狽えながら、変に体温が上がっているような気がした。
落ち着かなくては。
殿下の腕を支えにして、足に力をこめ身体を起こす。
いきなり力が抜けた膝も、もう大丈夫のよう。
もう離してくれていいのですがと思いつつ背中に当てられた手を意識してしまうマルネリッタに、殿下が声をかけた。
「ところで……マルネリッタは、何をしているんだ?」
少し前までの不機嫌さはどこへやら、その言葉には殿下の困惑が滲んでいた。もちろん心配も含んでいたのだろうが。
重い雰囲気は薄れている。
「あ……いえ、……」
マルネリッタは言葉を濁した。
彼女にもよくわかっていなかったので説明なんてできない。
殿下の接近と驚き過ぎたために、突然膝の力が抜けたのだと思うけれど。
驚き、それが何だったかと言えば。
ダックという子供の頃に出会った男性が、王弟殿下だった。つまり、今まさに自分を支えてくれている人であるということで。
約束を守ると、どうなるか。
殿下と一緒にいよう、ということになる。
それは。
約束を……守ったら、駄目でしょう。
やっとそこまで考えたマルネリッタは殿下の腕からすり抜けた。
さっと頭を下げて腰を落すと。
「助けていただきまして本当にありがとうございます、殿下。昔交わした約束は子供の戯言でございますので、どうぞ忘れてください」
マルネリッタははっきりとした言葉で告げた。
力が抜けたところを助けてもらっておきながらこの態度は、自分でもどうかと思う。
だが、謝罪は早い方がいい。特に身分の高い人が相手の場合は。
「……マルネリッタ」
「はい」
殿下は困惑しているらしい。
倒れそうになっていたのに、すぐ立ち直っているのだから、その戸惑いもわかる気がした。
しかし、マルネリッタの混乱は困惑どころではないのだ。
マルネリッタは早々にこの場を辞したい思いでいっぱいだった。
十年前の初恋との対面だが、懐かしいですねと気楽に言える相手ではない。
一緒にいようなんて約束したんでしたね、と笑って話せる場面でもない。
しかも記憶はうろ覚えで、マルネリッタには初恋の人ダックが殿下と同一人物とは思えない。
はっきりいって別人としか思えない。
殿下は殿下だ。
目の前にいるのは貴族よりも身分の高い王族なのだ。
いろんな意味でドキドキしっぱなしのマルネリッタの感情は非常に不安定な状態にあった。
そんなマルネリッタを前に、王弟殿下は小さく咳払いをすると、穏やかな口調で彼女に改めて尋ねた。
「マルネリッタは、僕との約束を覚えているね?」
「はい」
「交わした約束は、果たされるべきだと思わないか?」
一般論なら、はい、と素直に答えられるけれど。
この場合、約束とは、一緒にいよう、という約束のことで。
約束を果たすのは、殿下と自分で。
約束は果たされなくてもよくないですか?
そう言いたいけれど。
殿下は眉間に皺をよせてじっと見つめてくる。
じわじわと追い詰められ。
「……………………はい」
マルネリッタは渋々と同意した。
「そこでだ、マルネリッタには僕の妹のような者としてしばらく王宮に滞在してもらいたい」
マルネリッタの同意を受け、殿下は口調を和らげ言葉を続けた。
妹のような者って何!?
殿下の妹というと王族では?
妹のような者って何でしょうか?
いや、それよりも。
「……王宮への滞在は、ご容赦いただきたく……」
「なぜ王宮滞在を嫌がる? 理由は何だ?」
再び、殿下が眉間を寄せ、表情を曇らせる。
まるでマルネリッタが我儘を言って困らせているかのようだ。
だが、この場合、殿下の方がおかしいはず。
マルネリッタはキョロキョロと周囲を見回した。
騎士達や官吏が室内に何人もいて、話を聞いている。
彼等も殿下の発言を止めたいと考えているはず。そう思って周囲の反応を探ったのだが。
誰も止めないらしい。
彼等は全く動くことなく、部屋の中の家具や壁と同化していた。
助けはない。
マルネリッタは自身が止めるしかないことを理解しただけだった。
この際、不敬に問われるなどと言っている場合ではない。止めない官吏や騎士達が悪いのだから。
マルネリッタは疲れた頭を必死に働かせ、殿下に言葉を返した。
「大変光栄なことではありますが、私のような者が王宮に暮らすことなどできません。私は貴族でも功績を挙げた者でもない、ただの庶民です。私では、王弟殿下の妹のような者になれるはずがありません」
「妹が気に入らなければ、婚約者としてでもいい。だが、娘としてというのは勘弁してもらいたい。僕は三十前の独身男だ。十八の娘はおかしいだろう」
そこはおかしいと思うんだ。ふうん。
マルネリッタにはすごく不思議だった。
妹のような者として滞在させるなら、別に娘のような者でも大差ないと思うのだけれど。そこには微妙なこだわりがあるらしい。
理解できない感性だ。
「王弟殿下はとても高貴な方です。子供の戯言のために妹のような者として王宮滞在だなんて、過分な申し出はありがたいと思います。ですが、私には身分不相応すぎます」
「身分など、断る理由にはならない」
「そんなことはありません。王弟殿下は、私の身分では声をかけることも近付くこともできない方です。そんな方の妹のような者が私につとまるはずないのです」
「誰かに言われたのか? あの頃は身分など気にせず楽しく一緒に過ごしていただろう?」
「あれは子供だったからです。当時は、王弟殿下だなんて知りませんでしたので」
「王弟だと思わなければいい。様、も付ける必要はない。マルネリッタはそんな呼び方はしていなかった。僕は今も昔もダックだ。それなら何の問題もないだろう」
「無理をおっしゃらないでください。殿下を呼び捨てになんてできません。約束を守れなくて申し訳ないとは思いますが、それで殿下が困ることはないでしょう。どうかお許しください」
「それでは困る」
「どうしてですか?」
「約束は、守られるべきだ。マルネリッタはすでに家もなく頼れる身内もいない。これからは、僕が保護者となる」
「私はもう大人です。保護者は必要ありません」
殿下が困ったようにマルネリッタを見つめる。彼が何かを言いかけようとした時。
官吏の声が響いた。
「殿下、お時間です」
「マルネリッタ……とにかく、しばらく王宮に滞在するように」
殿下はマルネリッタの手をすくいあげ指に口づけた。断りの言葉を口にしようとしたマルネリッタを遮るように。
時間がないと言われれば、口を噤むしかなく。
「では、また明日会おう」
「……はい、殿下」
マルネリッタは不満を飲み込み、腰を落して返した。
そして、王弟殿下と騎士達や官吏が次々と部屋を出て行き、再びマルネリッタは部屋に取り残される。
放心していると、いつの間にか女官が目の前に立っていた。
「マルネリッタ・シオンズ様、部屋へご案内いたします」
こうしてマルネリッタの王宮暮らしが始まった。