■最終話■ロマンチストな婚約者
マルネリッタは殿下の言葉を信じられない思いで聞いていた。
自分が求婚するから、殿下が求婚しては駄目だと言った?
「マルネリッタが一緒にいようという約束を破棄して欲しいといったのは、こういうことだったのか」
マルネリッタには何がこういうことなのかはわからないのに、殿下は嬉しそうにマルネリッタを抱きしめている。
殿下がこんなに興奮しているのは、はじめて見るかもしれない。
殿下が頭に頬を擦りつけるようにしているから、マルネリッタの態勢はとても窮屈なものになっている。でも、そんな苦情を伝えるどころではない。
何だかんだいっても嬉しい。とても嬉しいのだけれども、状況がよくわかっていないためマルネリッタはその喜びに浸れないでいた。
「あの、殿下?」
「約束したから一緒にいるというのとは違って、一緒にいたいから結婚しようというのはいいものだな」
それは、まあ、そうなのですが……。
マルネリッタに殿下の言葉は少しも状況理解の糸口にはならない。
「殿下……私と結婚しても、いいんですか?」
「いいと言ってるじゃないか。僕もマルネリッタに求婚しようか?」
「いえ……そうじゃなく、ですね……」
求婚? しないって言っていたのでは?
どうして殿下に抱きあげられているのだろう?
この態勢でいると殿下が近すぎて普通に考えられない気がする。
まずはそこからと思い、マルネリッタは殿下にお願いしてみた、が。
「駄目だよ。婚約者じゃないか」
「お……降ろして欲しいと言っているだけなのですが……」
「このままの方が話しやすい。マルネリッタだって僕を見上げて喋るのは大変だろう? 前から思っていたんだ。マルネリッタが見上げてくれないと顔も見られないからね」
上機嫌で非常に饒舌な殿下だが、今は自分のお願いをきいてもらえそうにないかも。マルネリッタは何となくそう思った。
「本当に私と結婚してもいいんですか? 私は庶民ですし、他の方々に、その、陛下に、反対されるのではありませんか?」
「それはない。婚約は成立したと言っただろう? 僕は十年前に両親と約束をした。マルネリッタが大きくなって僕に求婚することがあれば、どんな状況であっても結婚をする。両親はそれを認める代わりに、僕からマルネリッタに近付いたり結婚を強制してはいけないという条件を出した。その両親との約束を兄陛下も了承している」
「それが……殿下が求婚できない理由、ですか?」
「それもあるが。マルネリッタが、自分が求婚するからするなと言いはったからだ」
マルネリッタは地面に穴掘って埋まりたいくらい恥ずかしかった。
十年前のことは確かにぼんやりとしか覚えていなかったけれど。
そんな約束を殿下と交わしておきながら、すっかり忘れて、求婚しないなんて言わないでとか頼んでいたとは。あまりにも酷すぎる。
しかも、どうして自分が求婚するなんて言ったんだろう。確かに、そうした行動をとったけれども、かなり恥ずかしい行動なのに。
「でも……それだと、殿下は、他の女性には求婚することができるのですよね?」
「そうだ。だが、他の女性は考えたことがなかったな。漠然と、マルネリッタがいつかやってくると思っていたからね」
マルネリッタはちらりと殿下を見上げた。
漠然と十年も待っていたなんて。かなり呆れてしまう。
もしも、すごく嫌な娘に育っていたらどうするつもりだったのだろう。犯罪者になっていたり、殿下を忘れて他の男性と結婚していたら……。殿下に集る娘達のように身分や財産目当てに結婚を迫ったかもしれないのに。
真面目というか、殿下は……ロマンチストなんだろう。子供の夢を壊さないように誓ってくれたのは、きっと殿下自身が夢を見ることができる人だから。
「さあ、婚約のキスをさせてくれないか、僕の姫君?」
「……今? ここで? みんなが見ているのに?」
「今、ここで」
当然だろうという顔で殿下はマルネリッタの返事を待つ。
当然のことながら、否という返事を受ける気はないようで、にっこりと笑顔で彼女を見つめている。
殿下は自分が嫌がらないことを知っているのだと思うととても恥ずかしかったが。ゆっくりと瞼を下ろした。
騒がしい雑音を耳にしながら、頬に近付いてくる殿下の気配にドキドキと胸を高鳴らせ、瞼に力がこもる。
クスッと笑う柔らかな息が頬に触れ。
「愛しているよ。マルネリッタ」
答えようとしたマルネリッタの唇は言葉を紡ぐことはなかったけれど、交わすキスが多くの気持ちを伝えていた。子供へではないキスで。
知らない娘と王弟殿下の仲睦まじい様子を遠巻きに、広間は騒然としていた。
図々しくも小柄な娘が王弟殿下に大声で求婚した広間では、みな、彼女が殿下に振られるだろうと思っていた。
殿下がどんな言葉で図々しい娘を振るのかと興味津々に二人を見ていたというのに。全く思いもよらない展開になっている。
これは一体どういう事かと情報を求めて人々は動き、言葉を交わし合っていた。しかし、彼女が一カ月前から王宮に滞在している娘で、貴族の娘ではないらしいこと、殿下との歓談に参加していたということくらいしか掴めない。
何処の素姓の娘かと有力な情報を掴める者はいなかった。
リリティナは状況を大まかには理解していたが、詳しく知っているわけではない。そして、それを誰かに話そうとは思わなかった。
噂好きの人々が後で驚けばいいとばかりに、マルネリッタの勝利を見届けると早々にその場を後にしていた。
マルネリッタは庶民であり、貴族の後ろ盾を持たない娘だとの話が囁かれはじめる。
そんな娘が結婚相手では王弟殿下に相応しくないのではないか。殿下は何を考えておられるのか。
と、様々な意見が飛び交う中、視線は自然と王と王妃の方へと流れる。
その視線の先では。
人目もはばからずキスを交わす二人の様子を見て、王も王妃もほっと胸をなでおろしていた。
十年前に、末弟が八歳の子供が将来求婚しにやってくるから妻に迎えたいと言い出した時にはどうしようかと悩んだことも、今ではいい思い出だ。
ようやく末弟の結婚が決まったらしい。
「よかったですね、陛下」
「本当に、な」
兄王の溜め息交じりの言葉に王妃が微笑む。
その声は周囲には聞こえなかったけれど、広間にいた者達には王弟殿下の婚約成立を確信させるには十分だった。




