■30話■殿下への不満
「マルネリッタ!」
殿下の声を背中に聞いたけれど、それはすぐに遠く聞こえなくなった。
マルネリッタはとにかく走った。王宮の廊下を走るなんて不作法者は誰もいない。そんなことを思いながらも足を止めない。
走って、走って、走って。
いつの間にか本宮の建物から外に出ていた。
ようやく足を止めたのは、本宮の外の人気のない場所だった。本宮の外壁にもたれてしゃがみ込む。
そばに女官を連れておくようにと言われていたのに、振り切ってしまったらしい。周囲には誰もいない。
ただ、遠くに小さく騎士の姿が見えるだけの場所。
マルネリッタはぼんやりとうずくまり、静かに風に吹かれた。
あれはお嬢様が無理やり殿下に迫っていただけで、殿下のせいではない。
殿下だってマルネリッタに他の女性とのキスシーンを見せようとしたのではない。あのお嬢様は見せつける気満々だったけど、殿下の隙をみて動いたのだ。
そんなことは、わかっている。目の前で全てを見ていたのだから。
だとしても。
殿下に、そんな隙があるのが嫌だった。
他の女性と二人きりで会っていて、キスまでされて。
殿下、何してるの!と腹が立つ。
こんな怒りをマルネリッタにぶつけられても、殿下は困るだろう。自分は彼の保護下にある娘で、殿下の妹のような存在で。彼の女性関係に口を挟める立場にはない。
こんなことで殿下に腹を立てるのはおかしい。
そう、わかっていても。
腹が立つ。
殿下に寄り添う彼女の姿が、とてもお似合いに見えたから。
すらりと伸びた長い腕、小さな頭、殿下とならんでも釣り合う縦長い身体。美しい大人の男女だった。
自分が殿下に腕を伸ばしても、せいぜい胸にしがみ付くくらいが精一杯。横に並んだって似合いの男女には程遠く、下手をすれば父子に見えるかもしれない。
髪を下ろしている今なら、きっと本当にそう見えてしまうに違いない。
悔しい。全てが悔しかった。
子供を産めないかもとか、早死にするとか言われていて、そもそも身分が違いすぎていて。全然釣り合う訳がないって知っていたけれど。そんなことは最初からわかっているんだと、思っているけれど。
手が届くような気がしていた。大それたことだって、殿下なら望めば許してくれるんじゃないかと、甘いことを考えていた。
期待していた。とても。
勝手に期待して、勝手に落胆するなんて。
こんなことで泣いてしまう自分がすごく嫌だった。
時間が経ち感情が収まってから、マルネリッタは中宮の部屋へ戻った。
「マルネリッタ様! 何処に行ってらしたのですか? 殿下が心配なさって王宮を探させておりましたのに」
「……ごめんなさい、セリ。殿下のいる部屋に行ったのだけど、気分が悪くなってしまって……。殿下に謝らないと」
「顔色が悪いです。殿下にはマルネリッタ様が無事お帰りになったことを連絡しておきますので、今は、お休みになってください」
「……ええ。本当に、心配させて、ごめんなさい。殿下にもそう伝えて」
「承知いたしました」
ひと眠りした後、マルネリッタが目を覚ましたのは夜も更けた頃だった。
軽い食事をすませると、オルディアク殿下が部屋を訪れた。
「申し訳ありませんでした、殿下」
「無事なら、いい。どうして逃げたりした?」
「……お邪魔だと思いましたので」
「邪魔なはずがないだろう? マルネリッタと会う予定だったのだから。何処へ行っていたんだ? 部屋にも戻らず、女官も連れずに一人で、どこにもいなくて……心配した」
「御心配をおかけして申し訳ありませんでした、殿下」
「あの女性が、困った態度だったのは認める。ふざける限度も知らない女性らしい。だが、何も走って逃げなくても」
「困った態度!? あの方はいつだって殿下を誘ってらしたじゃありませんか。何度も王宮へ呼んで楽しそうに歓談していた人で、だから今日も二人で会ってらしたのでしょう? 美しい女性に迫られて殿下だって、満更でもなかったんじゃありませんか?」
「そういう言い方は感心しない」
「殿下の女性問題を口にするべきではないと? 私はただの被保護者ですものね。殿下の側で殿下の好みじゃない女性を退ける仕事をしているだけですものっ!」
「……そういう意味ではないよ。最初は仕事だと言ったが、本気でマルネリッタが一緒に社交場に出ることを仕事だと思っているわけではない。嫌なら、いつでも、辞めてくれて構わないんだ」
「……わかって、います……。私が、仕事が欲しいなんて言ったから、ですよね。わかっています。言葉が過ぎました。本当に、申し訳ありませんでした」
殿下はふうっと大きく息を吐き、黙り込んだ。
室内の沈黙は重く、マルネリッタの胸の奥をゆっくりと締めあげていくようだった。
呆れられてしまったかもしれない。今度こそ本当に。
勝手に逃げて、王宮を走りまわって。殿下と約束したのに女官を連れずに一人でうろうろして、みっともない。木に登ったときのように、どうして私はいつもこうなんだろう。
殿下に世話を焼かせてばかり。
もう、ここにいることはできないのかもしれない。
そうなれば、祖父の遺言に従って身体を治すために医者を探す生活をはじめるだけのこと。王宮へ連れてこられるまでは、そうする予定だった。王宮での生活は一時的なもの、そのはずだったのに。
そう言い聞かせているつもりだったのに。それは、つもり、でしかなかった。
いつまでこうしていられるだろう、そんな不安を打ち消すための呪文となっていた。
ここを出るのは、一人になる時。
その時がいつかは来るとしても、それは今ではないのだと。そう思っていたのに。
マルネリッタは項垂れ、殿下の言葉を待った。




