■3話■忘れていた記憶
『マルネリッタは約束を覚えていないのか?』
マルネリッタの真っ白になった頭の中で繰り返される。
殿下のやや抑えた声が、責めているように聞こえるのは気のせいだろうか。
しかし、殿下の言う約束には、全く心当たりがない。
祖父が王族と関わりがあるなんて聞いた事はないし、きっと何かの間違いだろう。
そう思った、その時。
過去の記憶が高速でマルネリッタの脳裏をよぎる。
その中に、一つの記憶が浮かび上がった。
ずっと前に。
ケルン領近くの貴族位を持つ領主館の息子が、偉そうに身分が高いことを自慢している姿。
その息子が友人だという息子と同じくらいの青年達が何人もおり、その中に茶色い髪を持つ男性がいた。
その場面を、子供の頃に見た。
あれは……。
マルネリッタは記憶を遡っていく。
あれは、マルネリッタが八歳の時。
近くの貴族位を持つ領主館に、祖父ともども招待された時のこと。
その領主館には息子が数人の友人を連れて滞在しており、友人の中の一人が明るい茶色の髪をしていた。
当時、領主館の息子が十八歳だったから、友人達も同じ年頃だったのだろう。
茶髪の男性はマルネリッタをネリィと呼んで何かと構ってくれた。
優しくて構ってくれる彼が大好きで、彼の腕に抱き上げられたくてよくせがんだことを覚えている。
しかし、十年前の記憶は朧げで、彼の顔も姿もほとんど覚えてはいない。
その彼との別れが悲しくて、彼と別れる時に帰らないでずっといてと愚図ったら、大人になったら一緒にいようと言って頬にキスをしてくれて。
それが、すごく嬉しかった。
彼が去った後、『あの人は高貴な方なので、もしもどこかで会うことがあっても絶対に話しかけたり近付いてはいけない』と教えられた。
それまではずっと一緒にいても誰も何も言わなかったのに、どうしてもう話しかけてはいけないなんて言うのかわからなくて何度も尋ねたけれど。
祖父は項垂れ、それを繰り返すだけ。
マルネリッタは理由がわからないまま頷くしかなかった。
約束したのに、約束を守れないなんて。
それを伝えることもできないなんて。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
悔しくて泣きながら眠った夜がいくつも過ぎ。
その悔しかった思いもいつの間にか時間とともに記憶の奥底に沈んでいた。
もしや、殿下は彼と知り合いなのだろうか。
マルネリッタが茶髪は王家の血を引く人のみと知ったのは最近になってからのこと。
すでに記憶の底に埋もれていた彼を王族と結び付けることはなかった。
殿下の言う約束とは、彼と交わした約束のこと?
彼は、何という名前だったか、確か……。
どのくらいぼうっとしていたのかわからないけれど、気が付けばマルネリッタへ強い視線が無言で訴えかけていた。
返事をしないマルネリッタに殿下は苛立ちを募らせているらしい。
「で、殿下は……その……」
慌てて言葉を発したものの、マルネリッタは相手が王族である事に躊躇した。
ダックを知ってますか?
そう訊いてもいいものかどうか、と。
約束を覚えていないのかという殿下に答えるのが先。さて、どうしよう。
動揺しているマルネリッタに殿下が先を促した。
「何? 先を続けて」
「はい。殿下は、西地方のケルン領にいらした事のあるダックという名の方をご存知でしょうか?」
「……知っている」
マルネリッタはやっぱりと顔を上げると、バチッと殿下と目が合ってしまった。
思わず息を飲むほどの強い視線に、マルネリッタは気押され思わず背中を引いてしまった。
それほど陽の光にキラキラと輝く殿下の茶色の瞳は威力が強い。
殿下はマルネリッタを見据えたまま、低い声で先を促した。
「それで?」
「は、はい。……私は、その、ダック様と、小さい頃に約束を交わしたことがあります。でも、それは殿下の言われる約束とは違うと思うのですが」
「……僕の言う約束は、マルネリッタがダックと交わした約束の事だ」
「そ、そうですか。なら……はい、覚えております」
「それで?」
「それで、とは……何でしょう?」
「約束を覚えているのなら、することがあるだろう?」
そうだった。
十年前にはできなかった事、でも、今なら伝える事ができる。
マルネリッタは口を開いた。
「ダック様は、大きくなればずっと一緒にいようと約束してくださいました。私は早くに両親を亡くし祖父と暮らしており、ダック様は淋しがる子供に夢を持たせてくださったのでしょう。殿下がダック様にお会いすることがあれば、お伝えください。本当にありがとうございましたと」
マルネリッタは一息に言いきった。
威圧的な視線に押され多少早口になっていたが、殿下に伝えることもできたとほっと小さく息を吐く。
「約束は? 何故ありがとうなんだ? マルネリッタはそんなに簡単に約束を破棄するのか?」
ほっとするマルネリッタの前で、殿下は不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。
空気は一層不穏さを増している。
怒らせたのだろうか。どうすればいいのだろう。
マルネリッタは、戸惑った。
約束を破棄って……。
マルネリッタは殿下の追及に言葉が返せない。口をパクパクと開けては閉じるのを繰り返す。
約束を破棄してはいけないということ?
一緒にいようという約束を守れということ?
それは、約束を交わした彼が気の毒すぎると思う。
今頃、彼はもう三十手前のはずで、恋人がいるか結婚しているだろう。
そんな相手に、一緒にいようって言ったよねと主張して押しかける気はない。
そんな知らない男性と一緒にいようっていうのは、自分も……嫌だし。
初恋の人だから会ってはみたい、けれど。
殿下には、どう答えればいいのだろう?
返す言葉を探して悩んでいるマルネリッタに、殿下は大股で歩み寄った。
殿下は平均的な男性の身長なので、三歩も足を進めれば彼女の目の前に高い壁が出来上がる。
マルネリッタはその場を動けない。
「マルネリッタ」
マルネリッタを怒っているのではないらしい殿下。だが、重い雰囲気には変わりなく、不機嫌であるのは間違いない。
「なぜ、約束を守らない?」
「……十年も、前のこと、ですし……」
殿下の声は厳しく響く。
マルネリッタはそう答えるのが精一杯だった。
「マルネリッタ」
「はい」
「僕が、ダック、だ。僕の名はオルディアク・ランスオード。当時はまだランスオードの家名をもってはいなかったが。マルネリッタにはそれでも長くて呼び辛かったのだろう。ダックと呼んで、オルディアクの名は覚えていなかったのか」
マルネリッタは目を見開いた。
その拍子に身体の緊張の糸が一瞬にして解け、ガクッと膝が崩れる。
崩壊していくように自分の身体が落ちる。
遠ざかる殿下のポカンと呆けた顔が自分を見つめていた。
ダックが……王弟オルディアク殿下?
高貴な人だから、話しかけたり近付いてはいけない……。
なるほど。王弟なら、確かに。
この人が、初恋の人……。
子供の頃の自分は、とても面食いだったらしい。
マルネリッタは沈む身体でそんな事を思った。