■17話■西宮にて
マルネリッタの一日はとても忙しくなってしまった。
軽く承知した殿下からの当面の仕事をこなすにあたって、覚えなければならないことがとても多かったためだ。
ダンスを覚えてしまえばいい。そう思っていたマルネリッタに最初の打撃を与えたのは、もちろん軽く考えていたダンス。
住んでいた街で踊っているものと同様にパターンを覚えればいいと思っていたのだが。ダンスの種類が五つほどあり、それぞれに動きのパターンがあるけれど固定ではなく、男女間で踊る方向や動きを変えていくのだそうで。
ダンスとは男女間の無言の対話であり、無言の情熱を伝え合う……云々。と熱く語るダンス教師のもとで、マルネリッタは毎日練習させられていた。
「ステップが違いますっ」
「顔を上げて! 視線を男性に合わせるように」
「ステップは優雅にっ、飛び跳ねてどうしますか!」
「手の位置が下がっています」
「男性の動きにあわせて右っ、左っ。もたもたしないっ!」
「指先っ、がっしり掴んではいけません。もっと女性らしくなめらかに!」
「男性の支えがなくても姿勢を保てなければ、綺麗に見えませんよ」
教師の厳しい叱責が飛び、時間いっぱいくたくたになるまで踊らされる。
「では本日はこれで」
「ありがとうございました」
立ち去る教師へ笑顔でお見送り。
膝はガクガクで座り込みたいというのに、それは礼儀だから省略できない。
「明日もお会いしましょう」
ダンス教師が優雅に出て行くのを待って、マルネリッタはどさっとその場に崩れ落ちた。
「マルネリッタ様、喉が渇いたでしょう。お飲み物をこちらに用意しております」
「ええ、ありがとう」
マルネリッタは重い身体を動かし、ソファへと移動するとカップをすぐさま喉の奥へ流し込んだ。汗ばんだ身体に水分が補給され、やっと一息つける。
この後は、パーティにおける受け答えについての講義だ。社交場においては、こんな場面でこう言われたら、こう返す、そんな決まり文句が山ほどあると言う。そこを外すのも洒落のきかせ方だが、それ相応の問答ができる上級者ならではの技。そんなことが突然できるマルネリッタではない。
貴族位といっても皆同じではなく家格に差がある。上位者を下のものと同じに扱うと厄介なので、家名を聞いただけで貴族位の家格を判断できなければならない。
つまり、やっぱり全て覚えなければならないのだ。
マルネリッタは覚えることの多さに倒れそうだった。
「覚えることが、多すぎるわ」
「それが決まりですから」
「……貴族って……意外に大変なのね」
マルネリッタが愚痴っていると、一人の女官がセリを呼んだ。
一旦部屋を出たセリは、困ったような顔をして戻ってきた。
「数日前、マルネリッタ様が蛇の換金を庭師に託されたのを覚えてらっしゃいますか?」
「ええ、覚えているわ」
「その庭師がお金を直接お渡ししたいと申しております。ですが、西宮の庭師でございますので、こちらへ通すことはできません。王宮の一室で庭師と面会する手筈を採ることもできますが、西宮の庭園へマルネリッタ様の代わりの女官を行かせるのがよいかと」
「私が西宮へ行けばすむのでしょう?」
「よろしいのですか?」
「構わないわ。オルディアク殿下は、駄目だというかしら?」
「すぐに確認の使いをやりますが、マルネリッタ様が王宮内を散策されることについては特に問題ないかと」
「では、西宮の庭園に私が行くわ。彼にはお礼も言いたいし」
「承知いたしました」
マルネリッタは服を整えると、女官セリと一緒に部屋を出た。
中宮に来てはじめての外出だ。
建物の周囲を少し歩いたことはあったけれど、他の王族の方々と遭遇することを思うと、どうにも。ということで、窓から眺めることはあっても、あまり外へ出ることはなかったのだ。
中宮の小道を歩きながら、マルネリッタは周囲を眺めた。緑の植物にあふれ、石敷きの小道が大小いくつかの建物へ繋がっている。賑やかな王都にあって静かな空間だ。しみじみ王宮の広さを感じる。
贅沢だなとマルネリッタは思った。
中宮から本宮を経て、西宮へと辿り着く。
数日前までいたその西宮は、マルネリッタの目に冷たく映った。綺麗だけれど、明るい陽射しを浴びているけれど、そこに漂う空気は冷たい。
マルネリッタが暗く沈みそうになる気分をふりはらい向かった庭園では、若い庭師の男性が待っていた。
彼はマルネリッタと目が合うとにこっと微笑みかけてきた。相変わらずモテそうな人だなと思う。
「換金できたのですって? どうもありがとう」
「いいえ、お嬢様。これも仕事ですから。さあ、どうぞ」
男性の手の下にマルネリッタは両手を揃えて差し出した。その手の上にジャラッと数枚の硬貨が落される。
その重みにマルネリッタの頬が自然と緩む。
やはり、お金は大事だ。マルネリッタは手から硬貨を一つ摘んで差し出した。
「いいお金になったのね。嬉しいわ。これはお礼。受け取ってください」
「ありがとうございます。お嬢様は、大丈夫なのですか?」
「何が?」
「いえ、大丈夫そうでよかったです」
「心配してくださったのね。ありがとう」
爽やかな好青年だ。きっと木に登って叱られた女の子のことを心配してくれたのだろう。向けられた笑顔にクラッとしてしまう。
こういう人に憧れるのだけれど、残念ながらこういう男性にマルネリッタが女性として見られることはない。子供に見えるから愛想よく対応してもらえるのだ。残念なことに。
マルネリッタは笑顔で彼にお礼を伝え、庭園を後にした。
そして戻ろうと回廊を歩いていると、見覚えのある女官達が視線の先に現れた。
「あぁら、出て行ったはずの人がこんなところで何をしてるのかしら」
「蛇の代金を受け取りにきたらしいわ。小金に拘るなんて、ほんと賤しいわね」
「あんな人を西宮に入れるなんて、殿下もお優しいこと」
二人の女官テアナと女官シンファがマルネリッタ達の行く先を塞ぐように立ち止まっている。二人とも笑みを浮かべて、マルネリッタを眺めている。
マルネリッタの横で、女官セリは顔色を変えていた。
それを感じ取っていたのでマルネリッタは何も言わず、女官達とは目も合わせないようにして足を進めた。
彼女達の行動を不愉快には思うけど、本物の王宮女官は隣にいるセリで。セリが困っているのが嫌で、マルネリッタは早くこの場を立ち去ろうとした。
その前を邪魔するように女官達が立ちふさがった。
彼女達の手前でマルネリッタが足を止める。
ニヤニヤと笑う女官達をマルネリッタが見上げる前に、騎士が動いた。
「な……何を……」
「えっ?」
マルネリッタが目を丸くしている目の前で、騎士二人が無言で女官をひきずり連れ去っていく。
「離しなさいよっ。何をするのっ?」
「なぜ? 私は何もっ……」
女官達がうろたえた声で何かを言っているが、騎士達は何も答えない。声はマルネリッタの背中の方へ遠ざかっていく。
「お見苦しいものをお目にかけ、誠に申し訳ありませんでした」
女官セリの声には悔しさが滲んでいた。王宮女官の一人として、彼女達の振る舞いが許せなかったのだろう。
「戻りましょう」
憤りを抑えるセリにかける言葉も浮かばず、マルネリッタはそう口にした。
「はい」
女官セリはマルネリッタに対して申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいだった。態度が悪いと聞いてはいたが、あそこまで酷い振舞いに及んでいるとは。
「セリ。さっきの事は、殿下に報告されてしまうのかしら?」
「……はい」
「そう」
騎士が女官達を連れて行ったのだから、何もなかったことにはならない。
それはマルネリッタにもわかっていたが、溜め息が漏れた。
一番悪いのはオルディアク殿下だ。マルネリッタが王宮に滞在するには身分が低いと知っていて、王宮へ留めたのだから。
マルネリッタはそう決めつけ、重い空気を振り払おうとする。けれど、上手くはいかない。
一緒にいようと約束したことが、そもそもの間違いだったのか。
マルネリッタは暗い表情のまま中宮へと戻った。