■13話■庭園の片隅で
マルネリッタが木に登った翌朝、オルディアクは西宮のマルネリッタの部屋を訪ねた。
午前中に女性の部屋を訪ねるのは非常識なのだが、一刻も早い方がいいと考えたためだ。
予定が狂ってしまう事もあり、官吏はいい顔をしなかった。しかし、オルディアクは無理を押して西宮へ向かったのだったが。
彼女はすでに部屋にいなかった。
部屋にいた女官を問い詰めると、マルネリッタは昨晩から部屋に閉じこもったままで、今朝は早くに部屋を出た。彼女が誰も付いてこないようにと言ったので本当に誰も付いては行かず、彼女がどこにいるか誰も知らないという。
彼女を西宮内とはいえ一人で歩かせているというのだ。
オルディアクは怒りのあまり頭が沸騰しそうだった。
ここまで酷いとは呆れるばかりだ。ここは王宮だというのに。
直ちにマルネリッタを捜索するよう命令を下すと、自ら西宮の捜索に加わった。
彼女の暮らす現状を一つも知ろうとしなかった。王宮にいれば安全だと思っていたのは、ただの慢心だったのだ。
彼女は暮らせないとあれほど訴えていたというのに、把握しようともせずに彼女の言葉を聞き流した。
女官達ばかりではなく自らの失態にも怒りを覚える。
西宮から出られないはずだとはいえ、下手な場所に無断で入り込めば、処罰を受けないとも限らない。
苛々しながら歩いている所へ、騎士から連絡が入った。マルネリッタらしき小さな女性が庭園に入るのを見た、と。
すぐさま庭園へと足を向ける。
そこは昨日マルネリッタが木に登った庭園とは違う庭だ。木陰を作るための木が多い庭で、やや鬱蒼とした雰囲気だった。
小柄なマルネリッタの姿を見つけにくい。マルネリッタはここへ隠れるために来たのだろうかと思うと気が鬱ぐ。
騎士に案内され庭園の小道を奥へと進むと、そこに彼女がいた。
彼女は木の根元で目を閉じて横向きに寝転んでいる。
一瞬、その姿にひやりとした。
騎士達や官吏達を遠ざけ、一人近づき彼女を呼んだ。
「マルネリッタ?」
だが、呼びかけても反応はなく、風が彼女の髪をふわふわと揺らしている。
オルディアクは彼女の寝転ぶすぐ横に膝をついた。
そして恐る恐る彼女の顔を覗きこむと、僅かに開いた口からすうすうと小さな寝息が洩れ聞こえる。
微かに上下する胸元、ゆるい風に揺れる髪、時折、ふわりとスカートがたなびく。
彼女は、生きている。
その事に安堵した。
木陰のために彼女の顔色は白く見え、もう動かないかもしれないと思ったのだ。
遅かったのかと。
ほっと力の抜けた状態で、オルディアクはその場に腰を下ろした。
そういえば、小さい頃の彼女はよく自分を驚かせては喜んでいたなと見当違いの事を思い出す。
「変わらないな、ネリィ」
あどけない寝顔は以前と変わらない。
十年経ったとは思えないほど。
相変わらず頭でっかちで狭い肩、小さな丸い拳。少しは大きくなっているのだろうが、全体的に小さいことに変わりはない。
小さな手が甘えるように自分に伸ばされ、彼女の小さな身体を抱き上げるのがとても好きだった。
すぐそばに可愛い笑顔を見ることができたからだ。
自分だけが、彼女を笑顔にすることができると思えた、あの頃。
抱き上げることは誰にでもできるが、彼女が手を伸ばすのは自分にだけ。彼女をあんな風に喜ばせることができるのは、自分だけなのだと。それが誇らしかった。
王子として生まれても四番目ともなると存在は微妙だ。
賢過ぎず、愚か過ぎず、突出することなく存在すること。目的も見えず、あいまいな、だが漫然と続くだろう未来が見えていて。
そんな風にやる気のない日々を送っていた自分には、彼女はとても生命力に溢れた存在だった。
周囲の者には、身分を気にせず接してくる子供が珍しかったのだろうと言われていた。
珍しかった。もちろん、それもある。
王家に産まれるのは男子ばかりで、女の子があんなに可愛いものとは知らなかった。
時々会わされた貴族の娘達は皆取り澄ましており、回りくどい話し方で何を言いたいのかさっぱり理解できない存在だった。
それに比べてマルネリッタは髪もぐしゃぐしゃにしてスカートを跳ね上げて駆ける、笑う、拗ねる、大声を張り上げて歌う。総じて賑やかだった。
そして遊び疲れると、抱き上げてとせがみ自分の腕の中でうとうとしてしはじめる。その睡魔と闘い、必死で目を開けようとするのがおかしくて、いつも笑いをかみ殺さなければならなかった。
『眠いんだろう。眠れば?』
『ちっとも眠くなんかないわ。私はまだお喋りをするんだから』
そういう端から細い首が大丈夫かと心配になるほど頭が大きく揺れて。
時々、はっと目を開けては。
『まだ寝てないからっ』
と言いつつ、やっぱり眠ってしまう。その小さな手がしっかりと胸元のシャツを掴んでいた。結構強く掴んでいて、無理に離そうとすると寝顔が不機嫌に歪むのを何度みたか。
彼女の懐かしい姿を思い出す。
穏やかに眠る彼女が目を開けた時、もう一度あの頃のように笑ってくれたら。
そんなことを考えて、苦笑する。
目を開ければ、その顔に浮かぶ表情は昔とは違う。あの笑顔は、彼女を喜ばせる者にだけ与えられるもの。今の自分ではない。
遠巻きに彼女を庇護しようとしたのがそもそもの間違いだったのだ。
マルネリッタの信頼は、今の自分にはない。
物を与えるだけで、他人まかせでいたのでは、彼女との信頼は築けない。
子供の頃のマルネリッタと別人だと思うべきだ。
彼女の態度に不満を抱いてしまうのは、自分の思い描く小さな彼女が大きくなったらこういう女性であって欲しいと勝手に描いた姿と異なるからだ。それは自分に都合のいい空想の産物でしかない。
彼女は昔のことをあまり覚えていないのではないか。
それほど彼女は当時幼かったのだ。約束も自分のことも覚えていないほどに幼く、彼女にとっての十年は自分の十年よりも長い。
成長した彼女が子供の頃と違うのは当然のこと。
そして、今、彼女の中で自分は話したくない、近寄りたくない人物となり下がっている。できれば避けたい人物でしかない。
まずは、そこからだ。
子供の頃に会ったという事で、知っている人として認識はされているだろう。
だがそれは赤の他人ではないと言う程度で。
いきなり笑顔で会いたかったと受け入れられはしない。その出発地点を読み間違えたのだ。
王宮の人とは違うとまっすぐ自分を見つめる彼女が、今の彼女だ。笑顔ではないけれど、子供の頃の彼女と同じ瞳がそこにある。
あの頃のような笑顔を向けてもらえるかどうかは、今後の対応次第だろう。
あの瞳が、まだまっすぐに自分を映してくれるのならば。
オルディアクは小さな身体をそっと抱え上げた。さすがに昔よりは大きくなったと腕の重みに実感する。
官吏がどうするつもりなのかと訝っているが、それには何も答えず。行く先も告げず、静かに歩き出した。