■12話■騒動の夜
蛇捕獲の後、女官達はマルネリッタの部屋の外でかしましく騒いでいた。
とうとう王弟殿下も呆れかえっていた。
木に登るなんてみっともない。すぐに王宮を出るよう連絡がくるはず。
最初からおかしいと思っていた。あんな人が一体どうやって殿下を騙していたのか。
そんな話声が聞こえてくる。女官達にはすでに声をひそめるという配慮もない。
あの人の服を見たことある? みすぼらしくて……。
ゴアの食べ方も知らないのよ? 見たこともないようだったわ。どんな田舎娘なのかしらね。
女官テアナとシンファは寄ってくる仲間を相手に喋るのに大忙しのようで、部屋の外では入れ換わり立ち替わりで同じような話を繰り返していた。
マルネリッタは田舎の小領地とはいえ領主の孫娘であったし、地元では悪くはない家の娘だ。自身はそこまで身分が低いとも思っていなかったけれど、王宮にあってはとても低い身分とされるらしい。
女官達のお喋りは腹立たしいけれど、怒るだけの気力もなくなっていた。
ここは王宮。
普通の世界ではないのだ。
マルネリッタは、今日はもう何もせずに部屋にいようと寝室に閉じこもっていた。
小さな寝室にはマルネリッタ一人なのでとても静かで、部屋の外の声が絶え間なく聞こえている。
夕刻になりお腹がすいてきても、今、あの女官達に声をかける気にもなれなかったし、彼女達に囲まれて夕食をとる気になどなるはずもない。
それもこれも殿下が王宮に滞在させるからいけないのだ。約束は忘れて欲しいと告げた時、すぐに解放してくれればよかったのに。王宮では暮らせないとあれほど言ったのに。
マルネリッタは寝台で殿下に対する愚痴を延々と頭の中で呟いていた。
寝静まった深夜、マルネリッタはこっそりと部屋を抜け出した。
警護の騎士達が巡回しているけれど、常駐しているわけではない。彼女が滞在している建物の周辺ならウロウロする事くらいは容易い。
マルネリッタは回廊の影をこっそり歩く。
夜の王宮は、昼とは違った顔を見せていた。月明かりが深い陰を作る白と黒の世界はとても神秘的で、王宮の華麗さを倍増させている。
こんな場所にはもう二度と来ることはないだろうから、王宮に滞在したことは貴重な経験だと思うのがいい。
今回の件で、殿下にもよくわかっただろう。マルネリッタ・シオンズは王宮で暮らせないのだということが。
冷たいツンツン女官達は最初からどう思われようと構いはしない。けれど。
殿下を落胆させてしまったことは、とても残念で悔しい。もっと違った方法で、わかって欲しかった。
彼は雲の上の人。雲の上過ぎて、身分差がどういうものか彼には理解できなかったのだろう。
こんなことになったのは殿下のせいだと思う。でも。
きっと、よかれと思って、律儀に十年前の子供との約束を守ろうとしてくれたのだ。木に登った時も、危ないと本当に自分の身を心配してくれたのだろうに。
言葉を聞いてくれず、全然わからない人だけど、最後まで女官達のような嘲笑を浮かべることはなくて。おかしな人、だった。
もうすぐ王宮から去ることになる。これでよかったんだと思うけれど。
約束を守ってくれようとした人に、こういう返し方しかできなかったことが、悔しくてとても悲しい。
マルネリッタは回廊の隅で、静かに回廊に浮かび上がる灯りをいつまでも眺めていた。
お腹がすいたなと思いながら。
その同じ夜。
オルディアクは王都にある自邸の窓から外を何の目的もなくただ眺めていた。
昼間、慌てて西宮の庭園に駆けつけた。彼女の姿が木の高い位置に見え、蛇が落ちているのを目にした時には何の遊びをしているのかと思った。
子供の頃のマルネリッタはよく木に登って遊んでいたからだ。ハラハラしながら下で待っていると、上から笑って脅かすように木の実や虫、蛇などを投げて寄こした。
蛇が嫌いな自分を脅かすためだろうと当時は思っていたのだが。
あの虫や蛇は、あの後どうなったのだろう。昼間の彼女の行動と同じように、あの子供の彼女も無邪気な遊びではなかったのではないのか。彼女に誘われた遊びは、大抵が獲物を捕ったり果物や何かを摘んだり採ったりだったことを思い出す。
当時、彼女は子供だったし、自分は十七の大人だと思っていた。本当に自分はわかっていただろうか。彼女にとってそれが生活の一部で、単なる遊びではないということが。
薄々気づいてはいても、心の底ではわかっていなかったのだろう。彼女のことも、彼女の暮らしも。
昼間は心配でつい怒鳴ってしまったが。騎士に危ないから剣を振り回すなと言っているのと大差ないのではないか。だとすれば、あまりに滑稽な振舞いだ。
あの庭師にはわかっていたのだろう。
王宮の人とは違うんですよと言ったマルネリッタの言葉が、まだ耳に残っている。
その時、周囲からマルネリッタに向けられていた冷ややかな視線。彼女をまるで罪人であるかのように責めていた。それは王弟である自分が彼女に怒りをぶつけた為で。あの場で彼女の擁護にまわる者は、誰一人としていなかった。
辛うじて庭師の男が、責める方には入らず、冷静に彼女に対した事で事態を理解できたが。もし、彼がいなければどうなったのか。
確かに王宮の庭木に登る女性客は少なく、彼女が自分や女官達を驚かせた事は間違いない。
だが、果たして彼女は木に登ることが騒ぎになると思っていたかどうか。
彼女の住んでいた街なら、こんな騒ぎにはなっていなかったはずだ。何をすれば騒ぎになるのか、彼女にも見極められてはいないのだろう。そして、それを教えるべき女官が機能していないなら、なおのこと。
あのまま事情を知らなければマルネリッタを軽率な事をする女性だと思い、彼女の声に耳を貸さず、彼女は取るに足らない存在と決めつけられただろう。
いや、すでに彼女はそういう扱いを受けているのだ。自分が知らなかっただけで。
彼女を責める視線が向けられたのは、あの時、突然発生したものではないのだ。おそらく。
王弟から彼女への叱責で、その態度が隠されなくなっただけのこと。彼女の事情など、どうでもよいのだ。王弟を怒らせた、その事実があれば。
マルネリッタが王宮で暮らせない理由、彼女が身分が低く王宮で暮らせる身分ではないと言っていたのは、こういうことなのだ。
マルネリッタが、身分が違うと口にすることを最初から気に入らないと感じていた。だから、その言葉を聞き流してしまっていたのだ。それが重要だとは考えもせずに頭から否定して。
身分など、自分の庇護があればなんとでもなる。彼女がそうした垣根を自ら作る必要はない。ここでは王族に近い者として遇されるのだから、彼女が身分を気にしすぎているだけだと、思っていた。
女官セリが言った居心地の悪さ、官吏が彼女を身分が低いために王宮から出したがっていたこと、そこかしこに真実はあったのに。気付こうとはしなかった。
マルネリッタがあれほど訴えていたことに耳を傾けなかった自分自身が、彼女を侮っていたということに気付きもせずに。
西宮の庭園でマルネリッタが立ち去る時、まっすぐに向けられた瞳は何も語らなかった。だが、自分の前には見えない壁が築かれていた。
庭師に向けた表情とは異なり、女官達と同じ表情を向けられたのだ。その事実にゾッとする。
彼女を庇護していたはずだった。何からも守るつもりだった。そのために王宮で暮らさせたのだ。
しかしそれは、彼女の住み慣れた世界から引き離し、冷たい蔑みの中に彼女を一人で放っていることに他ならない。彼女が、暮らせないという場所に。
どうするべきなのか。何をしなければならないのか。
オルディアクは窓のさんにもたれ、月が山陰に消えるのを眺めた。闇に包まれた視界には、小さな星々の瞬きが広がる。
息を一つ吐き、星空を見上げた。
明日……。
呟きは闇に消えた。