■1話■王都からの使者
『大好きだよ、ネリィ。ネリィが大きくなったら、ずっと一緒にいよう』
『絶対ねっ。約束よ!』
大好きな人からそっと頬にキスをうけ、とても嬉しかった。
大人の約束なんだと思った。
ずっと一緒に……そう約束したのに、約束を守れないと泣いた夜。
あれが初恋だったのだろうと懐かしく思う。
子供の頃のことはもう断片的にしか思い出せないけれど。
育ててくれた祖父が亡くなり、自分をネリィと呼ぶ人はもういない。
トランクに詰めた荷物を手に立ちあがった。
これからは、一人で生きて行かなければならない。そう思うと、不安が込み上げる。
しかし。もう十八になるのだから、他人に頼ってはいけない。
しっかりしなくては。
自室だった部屋を見回し、忘れ物はないか確認する。もう二度と戻ることはないだろう。戻ってきたとしても、この部屋はもう自分の部屋ではない。
古ぼけた屋敷の廊下を歩き、玄関へと向かう。
「マルネリッタお嬢様」
「ユレン、エリーズ、後はお願いね」
「はい、お嬢様」
「お元気で、マルネリッタお嬢様」
「二人とも元気で」
年老いた使用人の二人に見送られ、マルネリッタはトランク一つを持って住み慣れた屋敷を後にした。
ケルン領主館、それがこの屋敷の名前だった。ケルン領はとても小さな田舎の土地で、マルネリッタの祖父はここの領主として領地を治めていた。
ケルン領主の息子、マルネリッタの父は、若い頃に領地を飛び出し、あちこちを旅する商人となっていた。妻を娶り、マルネリッタが産まれ、商売もこれからという時に訪れていた街に病が流行り、両親も病にかかってしまった。病のために封鎖されかかっていた街から祖父へ助けを求め、マルネリッタは祖父に引き取られることになったのだ。両親は、その地で亡くなったらしい。
連絡だけで、遺体も遺品もなかった。
祖父は息子の死を認めたくなかったのだろうとマルネリッタは思っている。
ケルン領主の継承権は祖父の息子のまま、孫娘のマルネリッタに書き換えられることはなかった。
だからといって、祖父が彼女に愛情を向けなかったわけではない。
口数少なく、大口を開けて笑ったりするような表情豊かな人ではなかったが、自分亡き後の彼女の行く末を心配していた。
祖父は、マルネリッタが他の子供より成長が遅いことをとても心配していたのだ。
十六をすぎても背が低く頭でっかちの子供のような孫娘を近くの医者にみせた。
すると医者は、マルネリッタは途中で成長が止まってしまっており、このままだと子供は産めないだろうし早死にするだろうと言われた。
そこで祖父は決心したのだ。ケルン領主の地位を国へ返せば、身内には幾ばくかのまとまった金が入る。それを手に、一刻も早く身体を治してくれる医者を見つけろ、というのが祖父の遺言だった。
マルネリッタ自身は、同年代の女性よりかなり小さいというだけで、特に違うと思ってはいない。
身体のどこかが痛んだり、気分が悪いという事もなく、とても健康だ。それなのに子供が産めないとか早死にするなどと言われ、あの医者は藪に違いないと考えていた。
が、祖父はその医者の言葉を頑なに信じていたし、医療知識がない彼女には医者の見立てが間違いだと断言もできない。
そして、マルネリッタは祖父の遺言に従うことにした。
家も身内もいなくなってしまった今、漠然と暮らしていくより、目的がある方がいい。成長途中という言葉は、マルネリッタ自身も気になってはいた。この体型のせいで適齢だというのに男性とは縁がなかったので。
彼女はまず一番近い隣の街へと向かうことにした。
マルネリッタが隣街へと歩いていると、馬車と騎士達の一行に遭遇した。
腰に剣を携えた騎士数人が、馬を降りて彼女を取り囲んだ。彼等は立派な身なりで、悪者ではないように見える。
だがマルネリッタは、女の一人旅だ。しかも、現在小金持ちでもある。
田舎の知った中では悪さする者はそうそういないが、通りかかりに金を取ろうとする悪い輩に運悪く遭遇したのかもしれない。
マルネリッタは慎重に彼等に対することにした。
「マルネリッタ・シオンズだな?」
「はい」
「我々は怪しい者ではない。王宮からの使いだ」
怪しい人は自分から怪しいとは言わないので、怪しくないと言われても疑うに決まっている。
マルネリッタは胡散臭そうに彼らの足元に目を落した。
その視線の先には、ピカピカに磨かれた靴。
そこからマルネリッタは彼等をエセ騎士だろうと判断した。
エセ騎士とは剣の腕より見た目に拘る、騎士職についている身分の高い男性のこと。
強くはなく、騎士としての役には立たないというのがもっぱらの評判だ。だからといって、女性のマルネリッタにどうこうできるほど弱くはないが。
そんなエセ騎士達だとすれば、王宮からの使い、という言葉も嘘ではないかもしれない。
エセ騎士は田舎にはいないし、盗賊もわざわざ弱そうなエセ騎士に扮装するとは思えない。
王宮からとすれば、祖父の領地に関することかもしれない。何か不備があったのだろうか。
マルネリッタが考えていると。
「やんごとないお方がお前をお呼びだ。お前を王宮へ連れていく」
「やんごとないお方って誰ですか?」
「……やんごとないお方はやんごとないお方だ」
騎士達はそんな事もわからないのかという彼女を馬鹿にするような目を向けた。どうやら、彼らには意味が通じる言葉らしい。
マルネリッタは彼らの態度にカチンときたが、貴族位を持つ人々にはよくある態度だ。
エセ騎士達は身分だけは高いのだろうから、一々腹を立てても仕方がない。
「私は何のために王宮へ呼ばれているのでしょうか?」
「やんごとないお方のご意向である。大人しく従え」
そう言うと、騎士は馬車に乗るようマルネリッタにうながした。
乗りたくはなかったけれど、大人しくトランクを手に馬車に乗り込む。
マルネリッタを囲む数人の騎士は、剣術に長けていないとしてもみな体格のよい男達だ。
小さなマルネリッタが重いトランクを抱えて逃げ切ることはできないだろう。抵抗するだけ無駄、しばらく様子を見ようと判断した。
乗り込んだ馬車は、一見、普通の馬車にみえたが、中は意外に高級な造りでマルネリッタは驚いた。
走り出すと、さらに違いが鮮明となる。
馬車がとても速く走っているというのに、車内で座っていられるのだ。通常なら、飛び跳ねてじっとしていられないだろう速度だというのに。
ますます王宮からという言葉に信憑性が増した。庶民の女一人を乗せるためにこんないい馬車を使うなど通常なら考えられない。
マルネリッタを乗せた馬車を騎士達は馬で囲んで並走していた。
彼女にしてみれば捕まっているように思うのだが、外からは騎士に守られている貴人の馬車のように見えるだろう。
柔らかな座席でくつろぎながら車窓を眺め、マルネリッタは王都まで優雅な旅をすることになった。
馬車も乗り心地のよい高性能馬車、宿泊場所は貴族待遇の宿ばかり。当然、給される食事も休憩用の菓子も全てが美味しく豪勢だった。
彼らは彼女を身分が低い者と考えており扱いはぞんざいだったが、その分、彼女を放っておいてくれたためマルネリッタにとっては非常に楽に過ごせた。
そうした旅がはじまって数日後、馬車は王都へ到着した。
大きな外壁に囲まれた大都市に、マルネリッタは目を見開く。
これが、王都。
彼女が王都に来るのははじめてだった。途中の街も住んでいた土地に比べるとずいぶん賑やかだと思ったけれど、王都は華やぎも賑わいも人の多さも桁違いだ。
王都の大通りは、馬車が何台も通れるほど幅広い。そこを、マルネリッタをのせた馬車が進んでいく。
その正面には王宮がそびえていた。
こんなところに、何故、呼ばれたのだろう。
マルネリッタは近付く荘厳な王宮を黙って見上げた。