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クラヤミ

 人はしばしば考える。

 神様とやらはどうして人間を作り出したのか。どうして人間に感情というものを与えてしまったのか。感情がない、例えば機械だったならこんなにも醜い自分の感情に気づくことはなかったはずだ。人の中にひっそりと眠る醜い感情。それが自分の目にはっきりと見えたときの苦悩ほど、人を悩ますものはない。

 神様はどうして感情なんてものを人間に与えたのだろう。






 俺には尊敬できる友人がいた。

『いた』なんて言い方をすると、過去の話だと思うかもしれないが、奴との友人関係は今も続いている。毎日のように出会っては馬鹿ばかりやって笑いあっている。

そいつと出会ったのはもうすぐ二年前になる。生まれ故郷を離れて遠い土地に大学生として新たな生活を送ろうとしていたときに出会ったのだ。俺が通う大学の近くには今時珍しい商店街が行く道にあって、アパートの大家に聞いたところ大学に通う学生はほとんどがここで買い物をしていくのだそうだ。一応少し離れた場所にスーパーもあるのだが、学生がこっちを選ぶのは値引きが聞くからだと思う。多分……

スーパーじゃ店員が機械的に品物をレジに通すだけだからそもそも値引きなんて物自体が存在しない。古くなったものを処分するための所謂在庫処分のための値引きがある程度だ。やはり、そこから考えると商店街の八百屋や肉屋のほうが値引きは効くし、ある程度顔見知りになれば向こうもこっちの好みを覚えてくれる。ついでに店主達とのコミュニケーションもとれて人間関係的にもお得尽くしだ。

 俺と奴との関係はこの商店街の八百屋での出来事から始まった。

 入学式を明日に控え、せめて今日くらいは奮発をしようと思い、商店街で買い物をしていた。流石に初っ端から値引きしてくれなんてずうずうしいことは言わなかったが、各店の品揃えや品質の良さは確認することができた。そうして何軒か店を回って大体主要となる食品は手に入れて、後は付け合せのための野菜を買うのみとなった。

 八百屋の前に立ち、俺は店頭に並べられた野菜を吟味した。ちなみにその日のメインディッシュは豚肉のソテーだったのでサラダの具になるようなキュウリやキャベツをもっぱら見比べていた。

「これとこれください」

 五分近い格闘の末、俺の眼鏡にかなった野菜達を八百屋の親父に突き出した。

「お兄さん、最近ここに来た人かい?」

 親父が話しかけてきた。

「そうです」

 俺がそう答えると、八百屋の親父は嬉しそうに微笑み「じゃあ、こいつはサービスな」と言って他の野菜を一種類ずつおまけしてくれた。確かこの後、冷蔵庫の野菜室に買った野菜が入りきらなくて苦労した覚えがある。

 買うものを買い、俺が八百屋を後にしようとした頃、奴がやってきた。今思えば他人の買い物を眺めるなんて悪趣味だと思うが、俺はなんとなく奴が間違いを犯すのではないかと内心不安に思っていた。

 奴は買うべき野菜を適当に選んではかごの中に入れていく。そして次なる獲物はナスのようだった。奴は適当なものを数本選ぶと、やはりかごの中に詰めていった。

「ちょっと待った」

 思わず俺は奴に声をかけていた。不審そうに奴は振り返る。八百屋の親父もまだいたのかと言わんばかりの顔だ。

「さっきのナスをもう一度見せてくれませんか」

「はぁ?何だよお前?」

 その時の奴はなにやら不機嫌だった。(後々わかることになるのだが、この愛想のない顔が奴にとっては普通の状態なのだとか)当然だろうな。奴とは明らかに初対面でしかも買い物をずっと怪しい目つきで見ていて、さらに買ったものにけちをつけようとしているのが丸わかりの態度。こんな奴を見て、不審に思わない奴のほうがおかしい。

「お願いします」

 喧嘩沙汰なんか起こしてはまずいので俺は丁重に頼むことにした。奴はしぶしぶさっきかごに入れたナスを見せる。俺はそのナスと、直感で選んだ店頭のナスを持ち比べてみた。

「やっぱり品質が悪いな。あんた、ナスを買うならそっちよりもこっちのほうがいい。なぜならそっちのナスはこっちのナスに比べて色艶が悪く重さも軽い。こういうナスは実も詰まってなくて味も気が抜けた感じのものなんだ」

 俺の説明に奴はますます眉間にしわを寄せ、逆に八百屋の親父は感心したような目つきで俺を見ていた。

「お兄さん、なかなかやるねぇ。その通りだよ。今、そっちの兄さんが選んだのはこっちのものよりも少しばかし品質がよくないんだ。茄子の品質の良さは今、あんたが言ったとおり艶と重さで見分けることができる。お兄さん、ただ者じゃねぇな?」

「そんなことないさ。少し野菜に関して知識があるだけだよ」

「なるほど。俺の選ぼうとしていたものが品質の悪いものだということはわかった。だが、人の買い物を堂々と覗き見した挙句人の買うものにけちをつけるのはあまりいい趣味とは言えないぜ」

 奴はそう言うと、やはり不機嫌そうに品物を受け取り去っていった。

 これが奴との最初の出会い。これが普通の人との出会いならば悪印象、最悪の出会い方間違いなしだ。

奴と次に出会ったのは翌日の入学式のときだった。講堂の受付に並んでいたときに後ろから肩を叩かれたのだ。初めは俺よりも大柄だし、その無愛想な顔つきもあって少しひるんだものだが、そいつが昨日八百屋で出会った奴だと気づくのに何秒もかからなかった。

「あんたか、脅かすなよ」

「お前が勝手に驚いただけだ」

「そりゃそうだが、誰だってそんな熊みたいな図体していて、しかもそんな撫すくれた顔をしている奴に肩を叩かれたらびっくりするだろ!」

「ご挨拶だな」

 奴は怒ったような口ぶりだったが、それ以上は何も言わずしばらく無言の時間が続く。そのしばらくの間に長蛇の列は前へ前へと進み、結局その後俺達は一言も会話をすることはなかった。

 長くてだるい入学式も無事に終え、その日のスケジュールは全てこなしたので俺はまっすぐ帰ることにした。外では委員会やらサークルの宣伝などをやっていたが、俺には関係のないことだ。別に今から急いでこれから入るサークルを決める必要はないし、もう少しこの開放感を実感したかった。

(ん?)

 帰路に着く俺の目の前に知った顔が映る。大勢の人に囲まれていて、中には女性もいた。

(早速モテモテですなぁ…)

 俺はその光景を微笑ましげに見つめながら早足で横を通り過ぎた。そして、大学の門を出て、商店街に差し掛かったところで……

「待てよ、コラァ!」

 追ってきた。出会ってまだ一日だが、奴のとてつもなく低い熊の遠吠えみたいな声

はすぐに耳につく。

「よう、モテ男」

「誰がモテ男だ!」

「お前」

 俺は嫌味ったらしく指を差した。

「人様に指を向けんじゃねぇよ!」

 奴は俺の指を払うと、一つ小さなため息をついた。

「あの光景を見てどうして助けようとしなかった?」

「どうしてって、見ていて微笑ましかったから」

 俺は皮肉をこめて満面の笑みでそう言ってやった。

「あれのどこが微笑ましいんだよ?」

「女の子に囲まれてたところが」

「冗談!あいつらは委員会の奴らと、空手部の奴らだぜ?入学式の受付で並んでいたときからどうやら目をつけていたらしくてな。たまったものじゃないぜ!」

「頼られるのはいいことだぜ?」

「ああいうのは頼られているんじゃねぇ。単に俺を利用しようとしているだけだ」

「いいじゃないか。利用されていたとしてもそれはそれ、これはこれだ」

「何がそれで何がこれなんだ?」

「さぁ?」

「お前には何も来なかったのか?」

「ああ、何にも。初めてなのにいきなり囲まれてたまるかよ」

「俺は囲まれたんだが……」

「………」

「………」

 お互いに顔を見合わせ、沈黙する。何だかその光景がやけに嬉しくて、やけにおかしくて俺は大きな声で笑い出した。相手も同じ気持ちだったのか大声で笑った。これが、俺達の関係の始まりだった。

 入学式のときにも奴が近くに座っていたことから俺達はどうやら同じ学科だったようだ。最初こそ顔を合わせたときにしか一緒に座ったりしなかったのだが、一日一日と気がつけばいつも俺のそばには奴がいた。俺達は二人で行動するのが当たり前になっていた。

 半年もしてみれば、俺達はもうお互いの性格や癖、長所短所、アパートに隠してあるエッチ本やその類の場所まで知り尽くす仲だった。その日も、俺達は二人並んで自転車で帰路についていた。

「この間、お前の友達が持ってきてくれたあれ、面白かったよな」

「ああ、心理学のTEGエゴグラム・プロフィールってやつな。結局お前の結果ってなんだったんだ?」

「俺はN型だった」

「何?俺も同じだったんだけど、タイプは?」

「確か、Aが低くてNPとACが高かったな」

「んじゃあ、あれだな。お人好しなタイプか。まぁ、確かにその通りだな。何かにつけてお前はてんで甘すぎる」

「心優しいと言ってくれ。俺はお前みたいに鬼じゃないんだよ。そういうお前は俺とどう違ったんだよ?」

「俺のはACが極端に高かった。献身タイプだな」

「うわ、めちゃくちゃ当たってるじゃねぇか。お前、デフォルトが人に流されるタイプだからな」

「嫌なデフォルトだな、それ」

「つまりお前は将来、彼女ができたり嫁さんをもらったりしても尻に敷かれるタイプだって事だよな」

「尻に敷かれるねぇ。まぁ、それでもいいけどな」

「いいのかよ!?俺は絶対ごめんだね。女に主導権を握られたら勝てる戦いも一生勝てないで終わるぜ」

「それは一理あるが、実際そう思っていてもできない恐妻家庭が増えているんだよ」

「そうなんだよなぁ。有言不実行だな」

「それを言うなら有言実行だろ?」

「ばぁか。できてねぇから不実行なんじゃねぇか」

「反論できねぇ……」

「ところでお前は付き合っている奴っているのか?」

「唐突に話が変わったな……」

「いや、女の話が出たからさ。大体半年も経ったのに今までこの話題にならなかったのが不思議なくらいだろ?」

「確かにな」

「案外意図的に避けていたりしてな。献身的なお前のことだから」

「なんだそりゃ?そこで献身的は関係ないだろう?」

「ふむ、それもそうだ。それで、お主に彼女はいるのか?」

「…いねぇよ、そんなもん」

「そりゃまた寂しいことで」

「お前にはいるのかよ?」

「いたらこんなに深刻な顔するものか」

 俺は自分でこの手の話題を振っておきながらいつしかブルーになっていた。もてない男同士でこんな話をしても余計切なくなるだけだとわかっていたからだ。

「まぁ、そのうち俺達にも時期はずれの春が来るだろう」

「だったら今日にでも来てもらいたいところだぜ。ここの冬はちと寒いからな」

「同感だ。早く帰ってコタみかといこう」

「お前、サークルが臨時の休みになったからって陥落モードかよ」

「別にいいだろ。たまにしかない臨時の休みなんだ」

「……そうだな。お前は少々休みすぎくらいのほうがちょうどいい」

「何だよ、それ」

「何でもねぇよ」

 いつものように他愛のない話をしながら俺達は別々の帰路についた。


                 

                  



 それから数ヶ月が経った。冬も本格的に厳しくなり、世の中は再び受験シーズンが到来していたが、俺達には関係のないことだった。今日もまったりとした日々を大学で送り、俺は帰路についていた。冬ということで鍋物を作ろうと思った俺は商店街によっていくことにした。

「こんちは」

「よう、いらっしゃい」

 八百屋の親父は冬だというのになぜかいつも白いTシャツを着ていた。まぁ、がっしりした腕だし、熊みたいに毛深いから本人からすればそれほど寒くないんだろう。  

性格は年中暑苦しいしな。

「なんだ、ちょうど入れ違いだったな」

俺は「何が?」と聞き返す。

「今、いつも一緒にいるあんたの友達がここで野菜を買っていたところなのさ」

「マジかよ。また品質の悪い野菜を買いそうになっていないかチェックできたのに」

「ハハハ、相変わらず厳しいな。ところで、あんたにはまだ連れ合いはいないのかい?」

「つれあい?」

「これだよ、これ」

 親父は右の小指を立てて見せた。

「いないな、それは」

 俺は野菜を選びながら苦笑した。

「あんた、野菜の目利きはいいが女の目利きはからきしなんだねぇ」

 八百屋の親父は少し呆れたように言った。

「あんたのお友達はもう彼女がいるって言うのにさ」

「え?」

 俺は八百屋の親父の言葉に耳を疑った。

「あいつに、彼女がいる?」

「ああ、そうだぜ。知らなかったのか?」

 知らないも何もそんな話は初耳だった。今まで何度かそういう話はしてきたが奴の答えはすべて「いない」の一言だったからだ。気がついたら俺は八百屋を出て入れ違いになったという奴の姿を探した。時間的にはそんなに経っていないから急げばまだ追いつけるはず。俺は集まってきつつある買い物客達を押しのけながら奴を探した。そして、商店街の出口で一組の男女を見かける。

 俺は荒い息を吐きながらその後姿を確認する。まだ一年にも満たない付き合いだが、ほぼ毎日奴といるんだ。後ろ姿はすぐ目についた。確かに、彼女らしき女といた。二人はそれぞれ片方の手には各店のマークが入った袋を、もう片方の手はその絆の深さを示すかのようにしっかりと握られていた。

 俺はたまらなくなってその場から逃げた。逃げながら、思い出した。今日の日付を。

 二月十四日。

 そう、つまりあの買い物袋にはこれから奴の彼女が奴にプレゼントするための材料が入っているんだ。二人の絆の種が。

 俺はアパートに帰るなりベッドに寝転んだ。

とにかく全てを忘れたかった。忘れることで自分を正当化しようとした。

 俺は間違っちゃいない!

 間違っちゃいない!!

 間違っちゃいない!!!

                   






 その日以来、俺は意図的にあいつを避けるようになった。別に奴が嘘をついていたことに関して怒っていたからではない。そりゃ、確かに奴はいつからかは知らないが俺に嘘をつき続けていたことになるのだが、そんなことよりもあいつに彼女がいたということの事実のほうが大きかった。今までその手の話をしてきた時だっていつもあいつは俺に賛同をしてくれていた。こいつは自分と同じ感性の持ち主なんだと感じた。こいつだけは俺の言い分をわかってくれる味方だと思っていた。

 どうしてあいつは嘘をつくなんてことをしたんだろう。あいつは俺とその手の会話をするときもそうやって嘘をつき続けてきたのだろうか。

 わからない。どうしてあいつがあんなことをしたのか。

 俺のことを不審に思ったのか、拒絶し始めて二十日も経つと奴からのメールや電話が多くなった。しかし、俺は全て拒絶した。今更あいつにどんな顔をして会えば言いというのだ。 

 俺達はもう同じ線路は走っていない。あいつは次のステップに向かうために路線を切り替えた。そして俺は未だに同じ線路を走っている。永遠ともいえる無限ループの線路を。


                  




 四月九日。今日は学年別と学科別のガイダンスがある日だ。しかし、俺の体はどうしてもベッドの上から動くことはできなかった。あれから一ヶ月半、俺はほぼ毎日ずっとこうして日々の大半をベッドの上で過ごしていた。もちろん、食事をしなければ餓死して死んでしまうのだから必要最低限の買い物のために外には出ていた。しかし、商店街ではなく大学とは反対方向のスーパーに。

何もする気が起きなかった。

外の世界が急に怖くなった。いや、外が怖くなったんじゃない。あいつと会うのが怖かったんだ。この一ヵ月半の間に奴からきたメールは百数十件。着信回数は……いちいち数えるのが面倒なくらいきていた。

(最低かな、俺)

 俺はそう思いながら今日もカーテンで閉ざされた闇に身を投じるのだった。


 どのくらい時間が経ったのだろうか。

 俺は部屋のドアを叩く音で目が覚めた。布団の中から手を伸ばし、携帯を開く。時間はまだ昼の一時を少し過ぎたばかりだった。こんな時間に盛大に部屋のドアを叩くのは一体どこの馬鹿野郎だ。俺は文句の一つでも言ってやろうと、ノックの音に負けないくらい盛大に勢いよくドアを開けた。

「うるせーぞ!!」

 俺はドアを開けるなり外に向かって叫んだ。しかし、俺の目の前には誰もいなかった。

「ち、ガキの悪戯かよ…」

 最近のガキは無駄にませている。一人じゃ何もできないくせに群れると途端に態度を翻す。俺はそういう奴が一番嫌いだった。まるで過去から続く自分を見ているようでやたらと腹が立った。

「いてて、ガキの悪戯とはご挨拶だな」

 開かれたドアの近くで声が聞こえた。

「一ヵ月半も人を拒絶した奴が大口を叩いたものだぜ」

 この時、俺はそのままドアを閉めるべきだったんだ。ここで相手をしてしまってはいけなかった。だが、この再開があったからこそ今も俺たちの友情は続いているのかもしれない。

「お前、どうしてここに…」

「どうしてとはますますご挨拶だな。一応、見舞いだよ……」

 そういう奴の顔は少し赤い。

 すごみのある体のくせしてなかなか乙女チックな顔をしていらっしゃる。

「お前の柄じゃないだろ?見舞いなんて」

「まったくだよ。こんなこと俺にさせるんじゃねぇよ」

「相変わらずだな」

「お前もな……今日はお前に話しておきたいことがあるんだ。邪魔していいか?」

 俺は無言で頷いた。何についての話かは大体わかってはいたが、奴の口から聞かないことにはやはり俺も諦めがつくにつかなかった。

 俺は適当に市販の茶を入れて、テーブルの上に置いた。

「部屋の綺麗さも相変わらずだな」

「物が少ないだけだろ。この部屋はかれこれ半年は掃除というものがされていないからな」

 不思議だった。あれだけ奴を拒んでいたのに、今、俺は平然とした顔で奴と話している。本当は恥ずかしくて、つらくて、情けなくて話す言葉なんか何もなかったはずなのに、俺の声は奴と以前のように他愛のない話をして盛り上がっていた。しかし、茶を飲み終わってもなかなか話す気配のない奴に痺れを切らした俺はとうとう自分から催促をした。奴にとっては別にじらず様な話ではないはずだ。

 奴は気まずそうに頷くと、空っぽになったカップを口に運んだ。

「俺には彼女がいる」

「ああ、知っている」

 俺はつぶやくように答えた。

「やっぱり、八百屋の親父が言ったのか……」

「八百屋の親父は関係ない。続きを話せ」

 奴は頷くと、また空のカップを口に運んだ。

「俺が付き合い始めたのは最近じゃない。そうだな、来週辺りでちょうど一年になるかな。ほら、入学式の帰りにお前に話しただろ?委員会やサークルの連中に絡まれたって。あの後、結局俺はそのサークル、空手部に見学に行ってそのまま入部しちゃったんだ。そして……」

「お前を勧誘していた女の先輩に告られたと?」

「まぁ、そういうことだ」

「そんな頃からの話だったとはねぇ」

 俺のどこかで冷たい木枯らしが吹きつけていた。俺はそれを奴に向けて冷たく放った。

「お前にショックを与えてしまったことは謝る。お前とは恋や女の話を何回もしてきて、俺はお前に嘘をついていたことになる」

「それは彼女がいたことを偽っていたことか?それとも俺とお前の好み云々の話のほうか?」

「両方だ」

「そうか。まぁ、俺としてはお前に効きたいのは一つだけだ。お前は、俺と異性の話をしていたときも常に自分に嘘をついてきたのか?わざと俺に話を合わせたのか?」

「いいや、俺の言葉は全て真実だ」

「そうか。なら、俺から言うことは何もないさ」

「……怒っているのか?」

「いいや、怒ってなんかいない」

「そうか…」

 奴の張り詰めていた顔がやっと元に戻りかけた。

「おいおい、お前がそんな申し訳ない顔をしてどうするんだよ。今回の件で一番悪いのは俺だぜ。一ヶ月以上もお前のことを無視してしまってさ」

「しかし、その発端を作ったのは……」

「あぁ、やめやめ!」

 俺は両手を思いきり左右に振った。

「いつまでも自分のほうが悪いって言っていたらきりがないだろうが。この話はこれでお終いだ。どうしてすぐに明日からもよろしくって言えないかねぇ」

 俺は呆れるしかなかった。人に献身的なのもここまでくるとさすがに度がすぎているぜ。このままこんなことを言い合うのは辛いし、何より馬鹿げている。俺はもう、このことについて気にしてなんかいないんだ。

「ほれ、和解の握手だ」

 俺は照れ隠しのために若干、顔をそらしながらそっと右手を差し出した。奴は戸惑いながらも、俺の手をがっちりと握って笑った。

「古い和解法だな、おい」

「ほっとけ」

久々に心から笑った気がした。奴と話す言葉の、単語の一つ一つが新鮮で嬉しかった。なんだか終わってみるとあっという間だったな。あ〜あ、俺が過ごしてきた一ヵ月半は何だったんだろうな。もしかしたら、この一ヵ月半の間に新たなロマンスが生まれたかもしれないのにな。


 




 半年が過ぎた。そろそろ商店街の木々を彩る葉の色も本格的に深まり、こっちに来てから二度目の秋を迎えようとしている。俺たちはいつものように横一列に自転車を走らせながら帰路についていた。

「二度目の秋か…」

「ああ、早いなぁ」

「早いなぁって言うことはそれだけかよ」

 呆れて言う俺に対して、奴は数秒間考える素振りを見せるが、何も思い浮かばなかったのか怪訝な顔つきで俺を見てきた。

「あのなぁ、俺みたいな独り者にとっては人生最大のチャンスである大学生活を既に二年も無駄にしようとしているって事なんだぞ!」

「ああ、そういうことか」

 奴は呆れと同情が入った笑みを見せたが、すぐに厳しい表情になった。

「だが、お前はそれを打開しようとする策をとっているのか?」

 奴にしては珍しく押しの強い質問だった。そのため、俺は少し言葉に詰まってしまう。

「確かに長い付き合いだからお前の考えている理想図は知ったつもりでいる。実際、

俺にも似たようなとこがあるからな。だけど、いつまでもそれを待っているだけってのは少々忍びなくないか?」

「う……」

「俺が言うのもなんだけど、お前はもう少し行動範囲を増やしたほうがいい。そうすればお前の求める理想も見つかるかもしれないし、何よりいろいろと勉強になるだろう?」

「勉強、ね…」

 釈然としなかった。同じ理想を持っていたこいつにだけそれが舞い降りて、俺にはいまだ舞い降りようとする兆しすら見せないことに。こいつだって、本当はただ単に運がいいだけで本当なら今の会話でも俺に賛同をしているところだろうが。

 無性に腹が立った。

 こいつにだけは言われたくなかったことを言われたことに。

 図星を突かれたことに。

 自分のふがいなさに。

 そして奴の持つ独特の人の良さに。

 奴の周りにはいろんな人間がいる。男もいれば女もいる。年上もいれば今年入ったばかりの年下だっている。そいつらに、こいつはいつも引っ張りだこだった。いや、厳密に言えばそんなに大袈裟なものでもなかったんだけど、でも少なくとも俺にはそう見えた。

 そんな奴が友人であることは大きな誇りだった。どんな年代になっても尊敬できる友人なんてものは持っておいていいと思う。俺にとってはそれがこいつだった。だが、同時にその心の奥底には奴を羨むあまり生まれた憎悪もあった。俺もどちらかと言えば人に頼られるのは好きだし、社交的かと聞かれたら迷わず「はい」と答える。つまり、俺とこいつの持つ理想条件は同じなわけだ。にもかかわらず、人は皆、俺ではなく奴を選んだ。そりゃ、奴の友人や後輩先輩を対象としているのだから俺に心がむくはずがないというのはわかっているが、やはりそういうのを目の当たりにしていると悔しくなってくる。悔しさで胸が熱くなって、それを隠すために一生懸命笑顔を作って平然と話に参加をする。そのうちに、どこまで自分を偽っているのかわからなくなってくる。わからなくなってくるからまた誤魔化す。そのうち誤魔化すことでしか自分を作れなくなってそんな自分に腹を立てる。ここに来てからの俺は常にそんな感じだった。結局は周りに翻弄されているだけ、もしくは右に習うことで前に進んでいると錯覚しているだけ。

 俺はそこらのファンタジー小説の主人公みたいに最初に何か大きなマイナスがあって、それを乗り越えていくわけじゃない。恋愛小説の主人公みたいに、自分の行く道を決めて大きな何かを見定めるわけじゃない。どこにでもいるただの『人』なんだ。

ただの人だから毎日を自然に決められたレールの上に乗って走っているだけでいいんだ。いいはずなんだ。それしか道はないんだよ!

 レールを無視すればそこは奈落のそこに通じる谷かもしれないし、そこらのマンションに突っ込むだけかもしれない。でも、そうだとわかっていてもやっぱり人は興味本意でレールを無視するのかもしれない。奴のように。

 奴は告白されるということで、あらかじめ引かれたレールをひんまげて新たな道を作った。新たなる終着地へと向かって今も順調に走っている。そして俺は、今もマニュアルどおりに敷かれたレールを迷うことなく前に進んでいる。この先で起こるマニュアルどおりのイベント、アクシデント、やがて訪れる死に向けて。それらは前もって知っているため特に何もしなくても通過できてしまう。そんな単調な人生を歩んでいるのが今の俺だ。

 





俺は俺を作り出した両親を恨む。

俺の両親を作り出した祖父母を恨む。

人間というものに感情を与えた神様を憎む。そして、いつまでたっても自分の中に定めている枠から抜け出すことのできない自分を恨む。

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― 新着の感想 ―
[一言] 男同士の友情ってなんかカッコいいなぁと思いました! 信じていた親友のちょっとした嘘(隠し事)に傷付いた主人公の気持ちや、親友との仲直りの場面が微笑ましかったです!
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