次の『仕事』
昼下がりのアグレッサ。防水の為に外側に蝋を塗った茶色のクロークに、羽飾りなどとうになくなってしまった、変色した革のツバ広スローチハットといういでたちで、ガスコンは教会前広場の市へ向かっていた。
ナイジェルの来訪によって思わぬ臨時収入を得たロクサーヌが、肉をたくさん買い込んで皆でお腹一杯食べようと提案したのだが、今朝葬儀に出席したばかりで気の沈んでいるウェルテの事を考え、それは延期することになった。代わりに今夜は二人で、いつもより上等な酒を楽しもうという事になり、ガスコンがその買い物のお遣いに出される事となった。
酒宿には当然、エールもぶどう酒も用意してあるのだが、どんなにしっかり密封しても、醸造から時間の経った酒は泥水みたいになり、風味も酷いものだった。アグレッサで作られた物ならば新鮮な酒もそれなりに安く手に入るのだが、気候や土地のせいか、アグレッサで作られた酒や食べ物は概ねに不味いことで知られている。ぶどう酒の名産地である北方の街カベルネや、良質の大麦がとれるグレープスの穀倉地帯からは、状態のいい新鮮なぶどう酒やエールが快速荷馬車で届けられていたが、当然それらの上質な酒は高価だった。
教会の大きな鐘楼が見下ろす広場には多くの露店が開設され、様々な品物を並べた店の間を、多くの商人達や買い物客が行き来していた。毛織物や高価な綿織物に群がる商人や仲買人の人山を避け、ガスコンは広場の端を迂回するようにして、目当ての店へとやってきた。広場に面する店舗前には荷馬車が止まり、馬車から降ろされた大樽がいくつも並んでいる。
ガスコンはロクサーヌから渡された小ぶりの樽を店番の男へ渡す。
「カベルネのぶどう酒とグレープスのエール。上等な新しいやつを頼む」
「わかりやした、今届いたばかりの酒ですよ」
男は手早く樽の天板に穴を空けると、計量容器に深い赤紫色のぶどう酒を注ぐ。色は透き通り、ルビーのようだ。ガスコンの鼻腔に濃厚な土と果実の匂いが届いた。いつも目にする、黒く濁ったカビ臭いぶどう酒とは大違いだ。もっぱらぶどう酒よりもエールを好んで飲んでいるガスコンだが、そのぶどう酒を前に思わずツバを飲み込んだ。同じ要領で店番はもう一つの小樽にエールを注ぐ。黄金色のエールが炭酸によってジュワっと泡を作る。ガスコンは今日の夕食が待ち遠しくなってきた。
「えーと、あわせて二十三シルバになりやす」
「あ? ああ、わかった」
あまりの高さに一瞬驚いたが、ガスコンは慌ててロクサーヌから渡された革袋から銀貨を取り出し、店番に渡す。店番は金を受け取ると小樽に栓をした。
「重いからお気をつけて、毎度どーも」
ガスコンは注意深く小樽を抱えて酒宿へと帰路についた。もし、うっかりして酒をこぼそうものなら、ロクサーヌからどんな目に遭わされるか判ったものではない。そう気を付けているそばから、ガスコンは居酒屋からふらっと出てきた男とぶつかりそうになった。
「おっととと…… これは、失礼を…… おや? これは、あの時のお兄さん」
男は千鳥足でふらつきながら、ガスコンを見て笑った。荷馬車の護衛をやった時に同じ馬車にいた、ブロードソードを腰に下げた酔っ払い男だった。もうかなりできあがっているらしく、かなり酒臭い。
「あん時のおっさんじゃねーか。昼間から酒か。羨ましいぜ」
呆れた様子でガスコンが言うと、男は笑って首を振る。
「もう金が無い。駄目駄目だな、アハハ…… ……おや?この匂いは」
男は急に鼻をクンクンと鳴らし始めた。
「ん…… これは、上物の匂いだ…… お兄さん、いい酒持ってるね……」
ガスコンは思わずしかめ面になり、まるで外敵から赤ん坊を庇う母親のように酒樽を抱きしめた。男はきししと笑って手を振った。
「し、心配…… いらない。小生は、この安エールで、十分…… 素晴らしきや、無炭酸のエール」
男はしゃっくりで途切れ途切れになりながら笑い、空っぽの杯を掲げた。ガスコンはため息をついた。
「おっさんも飲みすぎて、怪我しねぇようにな。じゃあ俺はこれで」
「ああ、お兄さんも達者で…… ああ、そういやお兄さん、新しい仕事の話は…… 知ってるかね?」
ガスコンは振り返り、怪訝な顔で首を振った。
「さっき…… 北にある酒場で、この前の仕事を寄越した男に…… 声を掛けられた。新しい仕事……だそうだ。引き受けて成功したら、二ゴルドと…… 三十シルバ払うとかなんとか」
「二ゴルドだぁ…… そりゃ、何の仕事だよ」
ガスコンは驚いた。余りにも高すぎる報酬だ。密輸の護衛以上にヤバイ仕事だという事は明らかだ。男はよろけて、ガスコンにぶつかりそうになりながら、耳元ではっきりした声でつぶやいた。
「殺しの依頼だ」
――やっぱり、思った通りだぜ
ガスコンは舌打ちした。
「で、おっさんは引き受けたのかよ?」
男は笑って首と杯を振った。
「いやいや、まさか、まさか…… 小生はやらない。そいう危ない仕事は……やらない。ただ、お兄さんは腕が立つ。目当ての首はそれなりの剣豪だそうだ。興味がある……なら、この前、品物を運び込んだ……あの倉庫へ行ってみたらいい」
男はそう言って手を振ると、千鳥足で市の雑踏の中へと潜っていった。
ガスコンは男の背中を見送りながら、ため息をついた。ガスコンには、自分でも身分不相応だと思ってしまうくらいの矜持を持っていた。戦いの場以外で無駄な殺生はしない。たとえ、戦いに参加するにしても、自分がその都度納得できる雇い主の下でしか戦わない。
確かに二ゴルドの報酬は魅力的だったが、欲張りな商人に金で釣られて殺し屋になるつもりは元より無かった。だが、荷車ギルドが臆面もなく殺しの依頼までしてきた事には、ガスコンも驚いた。
ガスコンは樽を抱えて一路、大通りを南へと歩き出した。昨日、襲撃者から守りきった密輸品を運び入れた蔵は南門近くの街外れにある。
――ギルドのやつら、何企んでやがる……
それに、昨日自分達が守った品物がどうなったかも気になった。
街道をしばらく歩くと、低層の粗末な住宅が集まる街外れへとたどり着く。ガスコンは舗装された街道から脇道へ曲がり、昨日の朝、荷馬車に乗って訪れた倉庫の集まる一角へ足を踏み入れた。このあたりは人の往来もまばらだ。ガスコンは人に出くわさないように忍び足で、辻の横に設けられた水汲み場の陰に身を隠し、ギルドの隠し蔵のほうを覗く。
平たい三角屋根の木造倉庫、その正面の木戸は開け放たれて、中まで良く見えた。入口付近では五、六人の男達がたむろしていた。どれも、街の北側でよく見かけそうなヤクザ者みたいな男達ばかりだ。そのなかで、一人だけ見知った男がいた。この前、自分に荷馬車護衛の仕事をもちかけてきた荷車ギルドの仲介人だ。
――おっさんの言う通りだな……
ガスコンは薄暗い倉庫内へと目を凝らす。床一面イグサが敷かれているだけで倉庫は空だった。自分が運び込んだ木箱はもうここには無いようだった。
疑問は膨らむばかりだったが、これ以上ここにいても得るものも無いので、ガスコンは樽を抱えながら静かにその場を立ち去る事にした。