ウィングレットの田舎貴族
友人の旅立ちを見送り、ウェルテは朝食をとるためにロクサーヌの酒宿を訪れた。
「おはよう、風邪はもういいのかい?」
ロクサーヌがカウンターの向うから尋ねた。
「おかげさまで…… 朝ごはんお願い」
ウェルテはクロークと帽子をとって近くのテーブル席へと腰をおろした。
カウンターにはエールの入ったコップを傾けているガスコンがいた。今日は仕事がないようで、いつも身に着けているチョッキのような袖なしの革の鎧ではなく、シャツの上にチュニックだけの軽装だった。
「やっぱりお前も葬式だったのか」
ウェルテの左腕に巻いてある喪章を見て、ガスコンが言った。ウェルテはうなずき、腕に巻いていた黒いリボンを解く。
「話は触れ役から聞いた。親しかったのか?」
ウェルテはうなずいた。
「この街へ来た時、とても世話になった……」
ロクサーヌが食事を持ってやってきた。硬いバタールと干し肉のシチューだった。バタールを細かく千切り、あめ色のスープに浸して口へと運ぶ。ウェルテは無言で食事を済ま
せお茶を飲み干し、ロクサーヌへ食器を返した。
「なぁガスコン、昨日、盗賊に襲われたと言っていたよな?」
「ああ、霞の森の抜け道でな」
ウェルテは唇を噛んだ。
「普通、盗賊って身包み剥いで持ってくと聞いているけど、実際はどんな連中なんだ?」
「俺も数回しかやり合ってないから判かんねーよ。ただ普通は、足が付きそうな品以外は根こそぎだろう。……その気の毒な仲間っていうのは、盗賊にやられたのか?」
「昨日、霞の森で。役場の上司はそう言ってた。それに青騎士隊もそう考えているって…… ただ、盗まれたのは金だけで、乗ってたロバも、剣も服も手付かずだった」
それを聞いたガスコンはしかめ面になった。
「そりゃ、よっぽど金に余裕のある盗賊だな」
カウンターにいたロクサーヌは思わず笑う。
「あんた、金があるのに盗賊なんてやる馬鹿な人いるの?」
ガスコンは舌打ちした。
「だろ? つまりそんな仕事する奴は盗賊じゃねーんだよ」
黙って聞いていたウェルテはうんうんとうなずいた。
「そっか…… 判った。とりあえず僕は霞の森まで行って来る。そいつが昨日回ったところへ行ってみようと思うんだ」
ウェルテはクロークを羽織りながら言った。
「おい、一人でか? 危ないぞ。このエールを飲んじまったら俺もついてくぜ」
「お守り役なんかいらないよ。それに、久々なんだろ? ロクサーヌと一緒に居てやれよ」
「ちょっと、何言うのさ。冗談もいい加減にしてよ」
ロクサーヌが赤くなって叫ぶ。
ウェルテはそんな声を背にドアに手をかけようとすると、外からドアが押し開けられ、異様なシルエットの人影が酒宿の入口に姿を見せた。今朝からずっと沈鬱な表情だったウェルテの顔が、思わず怪訝の色を湛えて歪む。ガスコンとロクサーヌもその来訪者の姿を認め、眉間に皺を寄せた。
「おや、誰かと思えば、我が友たちではあるまいか」
来訪者は、鼻にかかった声とゆっくりした語調でウェルテ達に挨拶した。
開け放たれた木のドアの外に立っているその男は、雨水と光沢で反射する絹でできた群青色のクロークをはためかせて、酒宿へ入ってきた。キュロットを履いた長い脚はピカピカに磨かれた漆黒の乗馬ブーツに納められている。男は酒宿の中を優雅な仕草で見回した。輝くばかりのブロンドの長髪は帽子の隙間から肩にかかり、白く端整なつくりの顔には品良く整えられたカイゼル髭を生やしている。だが、室内の三人が呆気にとられているのは、その奇抜な服装以上に奇怪な、この客人の頭のせいだった。フェルトでできた紫のツバ広帽子の上には、これでもかというくらい銀色の羽毛で飾り付けられ、反り返ったツバの周囲には白いレース生地が縫いこまれている。そして、頭頂部にはオレンジやリンゴ、ブドウを盛ったフルーツバスケットがのっかっていた。
「お、お前、そのなりはなんだ?」
我に返ったガスコンが唾を飛ばしながら叫ぶ。奇妙な客人は澄んだ青い双眸で退屈そうな眼差しを送りながら、高価なクロークから雨垂れを払った。
「相変わらず礼儀を知らぬな、パンタグリュエル。スタックハーストも久しぶりではないか」
そう言ってクロークを脱いだ客人は両手で帽子をとり、近くのテーブルに置いた。ゴトンと音がしたところを見るに、相当重い帽子のようだ。エリマキトカゲのようなひだ襟を着け、金糸を縫いこんだ白いフリルだらけのジャケットを着た客人はテーブル席についた。
「お久しぶりね、ナイジェル卿。とりあえず、ようこそいらっしゃいました~」
ロクサーヌは芝居がかった仕草でスカートの両すそをつまんで会釈した。
「うんうん、ロクサーヌ。そなたはいつ見ても美しい。前にも言ったが、そなたさえ了解してくれたら、私はいつでもそなたを第二夫人候補か第三夫人候補に迎えるところなのだが……」
「あーら、光栄ですこと。でもあいにく、あたしには心に決めた人がいるので、他を当たってくださいませ」
ロクサーヌはそう言ってこれ見よがしにガスコンの肩に抱きついて見せた。この二人は会う度にいつも同じ言葉の応酬を繰り返してきたので、ガスコンは完全に無視を決め込んでいる。
「そうか、実に残念だ……」
ナイジェルと呼ばれた男は舞台俳優のように掌を額に当てて嘆いてみせた。
この奇妙な風体の男、ナイジェル・サーペンタインはプラムベリーの街に程近いウィングレットの荘園領主の息子で、かつてプラムベリー城内でウェルテやガスコンと共に剣豪ヴァンペルトから剣術の手ほどきを受けた仲間であった。ちなみに、この男の第一夫人候補は彼の父親であるウィングレット伯が決める事になっているが、それは未だ空席のままである。その為、彼が外で心惹かれる女性は、全て第二夫人か第三夫人候補となるのだが、その座が埋まったという話はまだない。
「ところでウェルテ・スタックハースト、さっきから黙って私を見ているが、そんなに私の姿に魅了されたのか?」
呆れて言葉も出ないウェルテにナイジェルが尋ねると、すかさずガスコンが怒鳴る。
「んな訳ねーだろ! その馬鹿げた格好に度肝抜かれてるんだよ! それに、その果物屋の看板みたいな帽子は何のつもりだ!」
非常識なその姿は街中でも目立つ事間違い無しだ。
「無礼者! これだから風流を解さぬ田舎者は困る。この帽子も上着も、エスカルの街で今もっとも流行りの仕立て屋に作らせた物なのだぞ」
エスカルの街はアグレッサの南、宗教都市グライトに近い被服産業の盛んな街で、流行の発信地としても名高い。ただ、その街の権威ある仕立て屋達の傑作が一般市民層によく理解されているかというと、それは非常に怪しい。
ウェルテは古いなじみ乱入に苦笑いを浮かべた。この朝初めて浮かべた笑みだった。
「変わんないなナイジェル…… 来たばっかで悪いけど、仕事だからこれで。時間があったらまた」
「おい、待てよウェルテ」
ガスコンの呼びかけにも応じず、ウェルテは帽子をかぶると酒宿を後にした。
「あーあ、行っちまった…… それはそうと、お前一体何しに来たんだ?」
「エスカルやグライトで開かれていた大市を巡っていたのだ。たまたまアグレッサにも用ができたので寄ったまでのこと。だが、ウェルテもお前もどうもせわしない。これだから平民は余裕が無くてつまらん」
ナイジェルはそう言って椅子に腰掛けた。
「ところで、今、城門の前で赤い上着を着た騎士達を見たが、どうやら私と同じようにグライトから教会の幹部が訪れているようだ」
グライトに駐屯するフォルス教会の教会騎士団達は、いつも磨きぬかれたプレートメイルの上から赤いサーコートとマントを羽織って、教会の上級聖職者達の護衛についている。赤い衣をまとった騎士達がいるという事は、そこに教会の実力者がいる事を意味していた。
「だから、いつも教会がらみの愚痴には気を付けろって言ってんだ!」
ガスコンは昨日ロクサーヌの愚痴を思い出し、思わず彼女を怒鳴りつけた。
「しょうがないだろう? 文句の一つも言いたいくらいこっちもカツカツなんだよ」
ロクサーヌは口を尖らせる。
「確かに聖職者には、盗賊やごうつく領主以上に注意しなければならんな。彼等こそ、神を使ったギルド顔負けの商人集団だ」
ナイジェルはそう言って上着の内ポケットから細長い煙管を取り出し、ロクサーヌに炭火を分けてくれるよう頼んだ。〈新世界〉と呼ばれる海を越えた大陸で栽培される特別な薬草を乾燥させ、みじん切りにして管に詰め、そこに火を付ける。すると、やたらと臭う煙が管から周囲に撒き散らされる。それを一生懸命に吸い込み、一時的に軽い陶酔状態を味わう娯楽が生まれていた。まだまだこの大陸では一般的ではかったが、この遊びは一部の貴族や商人達の間で少しずつ流行り始めていた。
「まーた、お香を吸ってる。新世界って妙な物が多いのねぇ。一度どんなところか行ってみたいわ」
ロクサーヌは興味深そうにナイジェルの火遊びを眺めていた。一方、ガスコンは鼻をつまんで激しく咳き込む。ガスコンとウェルテは以前から、ナイジェルの撒き散らすこの「お香」の刺激臭が大嫌いだった。
「いい加減にしろ。表でやれ! 喉が……ゲホゲホッ、満足にエールも飲めねぇ!」
ナイジェルは煙を一吹きすると、ため息をついた。
「嘆かわしい…… パンタグリュエル、お前は本当に風流の判らぬ男だ…… それに、こんな時間に酒を飲んでいるところを見るに、職にあぶれているな?」
ナイジェルはそう言ってガスコンに煙を吹きかけた。
「よせって! ゴホッゴホッ…… 戦が無いんだからしょうがねぇだろ!」
「傭兵なんて損な仕事を選ぶからだ。だが、心配せずとも戦ならもう間もなく始まりそうだ。グライトでは教会が異端討伐軍を組織する為、兵隊を集めていた。それを聞きつけて、あちらこちらから荒くれどもが集まって来ていたぞ。お前も行ってみてはどうだ?」
ガスコンは禁句を聞いたような表情で手を振った。
「そいつはご免だな。教会の絡む戦は、相手がはなから人間扱いされてねぇから戦い方も滅茶苦茶なんだよ。戦の誉れなんかありゃしねぇ。でも、百歩譲って戦闘自体はお互い様だからまだいい。それ以上に、終わった後の殺戮、暴行、略奪の乱痴気騒ぎには歯止めが利かねぇ。日頃取り澄ましている貴族や騎士、果てには教会の坊主までもがモンスターみたいになっちまう」
それを聞いてナイジェルは笑った。
「そもそも、殺し合いには誉れどころか、道理も無法もあるまい。『道理に沿った殺し』など、それこそ異端討伐軍付き祭司の言いそうなこと」
若い貴族は暖炉の前で、煙管から灰を落とすと、それを元あったポケットへとしまう。
「さて、そろそろ失礼しよう。今日はまたも辛い失恋もしてしまったことだし、このわびしさは、アグレッサの町娘達に癒してもらうとしよう」
そう言ってナイジェルは気前良く1ゴルド金貨をテーブルに置いて立ち上がった。
「二、三日はアグレッサにいるつもりだ。時が許せばまた会おう」
ナイジェルはクロークを着て、派手な帽子を頭にのせた。
「あーら、今日はお早いのね? ところで、お泊りはどちら? なんなら上の部屋空けときますよ」
ロクサーヌが、テーブルの上の金貨に目を奪われながら尋ねた。
「申し出には感謝しよう、愛しのロクサーヌ。たしかにアグレッサでここほど清潔な宿はないからな。だが、今回はアドリアーノ・オストリッチの家に滞在する事になっている。なんでもあの商人、近々面白い物が手に入るから見に来て欲しいとエスカルまで手紙を寄越してきたのだ」
オストリッチという名を聞いてガスコンは顔を引きつらせた。
「さらば、友らよ……」
ドアが閉まると、ロクサーヌは金貨を握り締めて軽やかに体を一回転させた。
「やったー、ねぇガスコン、肉屋で牛肉でも買って、今夜あたりシチューにしない?」
そんなロクサーヌの声も遠く、ナイジェルが去った後、ガスコンは炭酸の抜けきったエールのコップを置き、難しい顔をして腕を組んだ。
「アドリアーノ・オストリッチ……」
よりにもよって自分が汚れ仕事を請け負ったばかりのオストリッチ商会、その当主に会いに来たという古いなじみ…… ガスコンは口をあけたまま歯軋りした。昔から治らない、無意識に出る悪い癖だった。十代の頃から戦場で培ってきた、自分の動物的勘が厄介事の前触れを伝えている証だった。