友の死
暑くて目が覚めた。寝間着は汗でびしょ濡れだった。ウェルテは寝台から身を起こし、板張りの床に足をついた。窓にはめた鎧戸の隙間からかすかな光がもれていた。まだ夜にはなっていないようだ。立ち上がると、体は軽く、頭痛も感じない。鼻水だけは相変わらず落ちてくる。風邪はほぼ回復したようだった。寝間着を脱ぎ捨て、洗濯し虫がつかないように煙でいぶした白い木綿シャツとズボン、厚手の毛織物の上着を着て、その上から剣帯を腰に巻く。衣装箱に立てかけたレイピアと十字型のマンゴーシュを剣帯に差した。街中では、護身の為にレイピアやスモールソード、短剣など、最低限の武器の携帯は認められていた。
ウェルテはキャバリアー・ハットを手にすると、汗で濡れた寝間着を抱えて階下へと降りた。一階の厨房では大家のおばさんが夕食の準備にとりかかっていた。
「もう動いて大丈夫なのかい?」
「お蔭さまで。洗濯物置いときます」
そう言ってウェルテは洗濯用の樽に寝間着を放り込み、外へと出た。
雨はもう止んでいた。泥と水溜りだらけの細い路地を縫って、大通りへと向かった。石畳の街道は、東西南北から集まった荷馬車の列や行商人の往来で一杯だ。広場では小売専門の商人達によって仮設の市が開かれ、東西南北の文物と人々でごったがえしていた。
人波をかきわけ、ウェルテは今朝訪れた徴税役場の前へと再びやってきた。朝にも増して、役場の前には多くの農民や職工達が詰め掛けている。応対するカウンターは戦場さながらだ。
「お役人様、お役人様、今年の小麦はみんなイナゴにやられちまいました。替わりにオート麦と子豚一匹でなんとか手ぇ打ってくださらんでしょうか?」
「うわぁぁぁ、判ったから、と、とにかく子豚をカウンターにのせないで!」
一方、その隣では。
「俺の織ったこの上物タペストリーじゃあ足りねぇなんて、あんた。さては、金勘定はできても品物には目が利かねぇな?」
「なら、これを裏の両替商か質屋に持っていけば金に替えてくれますよ。どうします? これ、ギルドを通しては売ってはいけないキズモノでしょ? 連中がここの査定以上で買い取るとは思えませんがね」
役場の職員と納税者達の攻防が行われている横を通り抜け、ウェルテは広間へと入っていった。
広間では同僚達が、現金や物納された穀物や毛織物の仕分けや徴税目録の乗った貢租簿を整理に追われていた。ウェルテは自分の代わりに出掛けていったサリエリを探したが、広間には見当たらなかった。ウェルテは近くで銀貨の枚数を数えている同僚にたずねた。
「あの、サリエリは見ませんでしたか?」
「いいや、朝から見てないな」
ウェルテは首を傾げた。日没までもうそんなに時間がない。それに、サリエリは自前のロバを持っている筈なので、ウェルテよりもずっと速く移動できるはずだ。ウェルテは、サリエリが村娘と遊んでくると話していたことを思い出したが、それを差し引いても遅すぎた。
ウェルテは、部屋の奥で計算尺を手に指示をとばしている老人のもとへ行った。
「反物は今日中に商人の所で貨幣に換えてくるように。交換手数料は七分までだぞ。それ以上は絶対に払ってはいかん。次! なになに、ヒヨコが七羽生まれたのか? たしか、この農家は滞納分も含めて五割徴収だ。三匹と半分のヒヨコを受け取るように、次!」
「先生、は、半分って……」
白髪交じりの髪を辮髪にして黒いリボンで結び、眉間に鼻眼鏡をのせた、痩せた老人は、驚異的な事務処理能力で部下達の質問に答えてゆく。老人の名はルイス・アカバス博士。アグレッサの徴税代官として、領主の為に日々領民から租税を搾り取る職務の責任者だった。
「ん? ……確かにヒヨコを半分にはできんな。ええと、雌鶏の卵を週に三個づつ十週間納めるように、次!」
ただ、代官という職務にも関わらず、アカバスは慈悲深い感性と非常に合理的な頭脳の持ち主だった為、領内が不況の時には課税額の見積もりを甘くしたり、取立ての際にわざと鯖を読んで物品を徴収し市民や農民を助けたりしていた。それ故、役場で働く者や市民は尊敬の念をこめて彼を先生と呼んでいた。
「あの先生、実はサリエリの件で……」
羽根ペンをインク壷に突っ込んだところでアカバス博士の手が止まった。
「スタックハースト、一体サリエリがどうした?」
ウェルテは、自分が風邪を引いたこと、サリエリが仕事を代わってくれたこと、その彼がまだ戻ってきていないことを手短に話す。アカバスは羊皮紙の束に視線を戻し、急いで羽ペンを動かしはじめた。
「サリエリめ、またサボりか…… こんどガツンと言ってやらねばならん。事情は判った。とにかく、お前は風邪を治すように。今日はもう帰ってよろしい。次!」
ウェルテはアカバスに礼を言って下宿へ帰ろうとした時、広間の同僚達がざわめき、部屋の入口を凝視した。
深みのある青いクロークと、青い羽飾りをのせた黒い三角帽を身に着けた男達が広間に入ってきた。どの街でも、三角帽は上級の役人や領主の家来達の正装として用いられている事が多かったが、ここアグレッサでは、青い羽飾りのついた三角帽には特別な意味があった。入ってきた男達はこの街の警察権を持っていることを示す為に、樫でできた長い警杖を握っている。その服装から通称〈青騎士隊〉と呼ばれ恐れられる、領主お抱えの軍事組織だった。
「ルイス・アカバス博士ですね?」
先頭の筋肉質の男が野太い声で聞いた。
「いかにも…… 青騎士隊が一体何の御用かな?」
アカバスは眼鏡を直しながら相手を睨みつけた。
「確認して頂きたいことがあります。外まで、ご足労願えますか?」
男は威圧的にアカバスを見下ろした。
「先程、霞の森の入口で男が刺されて死んでいるのを見つけました。持ち物や容貌から、もしや徴税役場で働く者かもしれないと……」
ようやくアカバスは、羽根ペンをスタンドに挿して立ち上がり、自分の三角帽を頭にのせた。隣で話を聞いていたウェルテも嫌な予感に襲われ、青騎士達の後について役場から飛び出した。
役場の前には、青騎士隊の男達に囲まれた一台の荷馬車が止まっていた。アカバスが荷台の側によって、遺体にかぶせられていたクロークを持ち上げた。アカバスはため息をつき、肩を落とした。
「先生……」
ウェルテが背後から声にならない声を発すると、アカバスは振り向きゆっくりうなずいた。ウェルテが馬車の荷台を覗き込むと、そこでは真っ白な顔をしたサリエリが眠るように横たわっていた。
その夜、ウェルテは、アカバス博士やサリエリと特に親しかった役場の同僚数人と共に、サリエリの自宅へ弔問へと赴いた。すでに雇われた触れ役達が街中を走り回りながら、サリエリの死と葬儀の時間、場所を告知していた。
アグレッサ城に近い、街の東側にサリエリの実家はあった。サリエリの一家は、五階建ての集合家屋の、二階と三階で暮らしていた。すでに玄関には黒い垂れ幕が掛けられ、その家に不幸があっとことを知らせている。アカバスを先頭にウェルテ達は垂れ幕をくぐって家へと入っていった。二階広間の中央には楡の木で作った棺が置かれ、祭服を着た教会の僧侶が二人、死者の旅立ちの準備を進めていた。
アカバスは、部屋の隅に控えているサリエリの両親や兄弟達に挨拶の言葉を述べ、父親の手を両手で握り締めた。ウェルテは棺の横に立ち、サリエリの顔を見つめた。今朝会った時より青ざめているが、普段と変わらぬ丸顔の優しそうな顔で眠っていた。ウェルテは今朝の、サリエリの親切心を思い出し、顔を歪めた。
「ぶどう酒は欲しくないのか? サリエリ……」
そう言ってウェルテは手袋を取った手でサリエリの額をなでた。手にひんやりと冷たい感触が伝わってくる。ウェルテに同僚の死を実感させるのは、その亡骸の冷たさだけだった。
「なんでお前がこんな目に……」
――僕の為に、こんな事になって…… すまないな……
はるばるプラムベリーからやってきた異邦人であるウェルテに、同僚としていろいろ手伝ってくれたのがサリエリだった。未だサリエリの死に現実感が沸いてこず、ウェルテは涙を流すような心境にはならなかった。同僚からだけでなく、農民や商店主からも慕われていたサリエリに敵がいたとはとうてい考えられない。
棺の方へアカバスがやってきてウェルテに、遺族への挨拶をするよう促した。ウェルテは棺を離れ、サリエリの両親のもとへ行き言葉をかけた。
「こんなことになって、言葉もありません…… それも今日に限って……」
ウェルテはそう言ってサリエリが自分の仕事も引き受けてくれたいきさつを、サリエリの家族達へ話して聞かせた。
「誰がこんな恐ろしい真似をしたのか全く判りません。なんで、サリエリに限って……」
すると彼の父親がうなずきながら棺の方を見た。
「お金を扱う仕事だから、多少の危険は仕方ないと倅はいつも言っていました。ただ実際にこの場になってみると…… なんとも、やりきれない……」
すると隣で俯いていた母親も目の涙を拭いながら言った。
「これも神様の思し召しだと思って、今はただ、あの子の魂の平安を願う……ばかり……」
そこまで言いかけて、とうとう母親はその場で泣き崩れてしまった。ウェルテはあわてて崩れ落ちる母親を、父親と一緒に腕をとって支え、近親者達が彼女を介抱するために部屋の外へと連れて行った。
挨拶を終え、ウェルテ達はサリエリの実家を後にした。帰り道、火の灯ったオイル・カンテラをぶら下げて真っ暗な街路を先導していたウェルテに、後ろからアカバスが声をかけた。
「スタックハースト、お前、確か今日はどこまわる予定だった?」
「霞の森にあるエルベ荘園の粉引き場とバルテルミ村の村長の家です」
本来、ウェルテが今日取立てに廻るべき場所で、サリエリに代理を頼んだ場所だった。
「そうか……」
アカバスはそう一言だけ返事をして黙ってしまった。
「あの、先生。サリエリはどこをまわる日だったんですか? それに、青騎士達はサリエリを見つけた様子について、なんと説明してくれたんですか?」
「方向はお前と同じく霞の森の方だ。騎士どもが言うには、バルテルミ村へ行く道ではなく、アイアン街道に近い、森の手前の路地に入ったところで胸を一突きされて倒れていたそうだ」
アイアン街道とは、西のデルブレー山脈の麓にあるノックス砦へと続く、霞の森を横切る通商路で、山脈の向うにある工業都市から主に金属製品を運んでくる道である。
「遺体を見た床屋や坊主に尋ねたら、やや幅広の刃物で一突きにされていたという。着衣に乱れはなかったが、集金したはずの金は持っていなかった。皮袋ごと持ち去られたようだ」
「ロバはどうなりました? サリエリはロバに乗って行ったはずです」
アカバスはうなずいた。
「忠実なそのロバは、主人のそばで草を食んでいた。騎士どもがもう両親に引き渡している」
ウェルテは、他にサリエリの持ち物で盗られた物がないか尋ねると、アカバスは首を振る。
「着衣に乱れは少なく、筆記具や剣もそのままだったそうだ。剣で賊と斬り結んだ形跡もない」
ウェルテは怪訝な顔でアカバスの顔を覗き込む。
「盗賊なら身ぐるみ剥がしてゆくはずです。金だけ盗って、剣も服もロバにも手をつけないなんて、そんな盗賊いるでしょうか?」
アカバスはウェルテに顔を向けずに言った。
「青騎士の蹄の音でも耳にして、急いで立ち去ったのだろう…… とにかく、我々の仕事には危険が多い。集金後は特にだ。スタックハーストも十分に注意しろ。しばらく霞の森には行かなくていい」
アカバスはそう言って、広場で徴税役場の一団を解散した。アカバスや同僚達は各々自分のカンテラに灯を入れ、真っ暗な街路へと散っていった。
翌朝、アグレッサの天井は灰色の雲におおわれていた。時々、小雨が落ちるなか、街の北側、市門を出た野原にある墓地でサリエリの葬儀は行われた。楡の木でできた棺の前には赤いローブ状の祭服を着た教会の僧侶が教典を手に祈りの言葉を吟じる。
「彼は、職務に忠実でした。そして、職務を通じて触れ合う全ての人々に対して、誠実に、そして愛をもって接しました。何故彼のような者がこんなにも早く、天に召されるのか? 残された者達の……」
多くの会葬者が僧侶と棺を取り囲むようにして、黒い喪服もしくは喪章を身につけて立っていた。市民や徴税役場の関係者、そしてはるばる市外の荘園や農村からやってきた農民の姿も見える。会葬者の片隅で、ウェルテはサリエリに最後の別れを告げるために帽子をとって僧侶の声に耳を傾けた。
――一体、お前に何があったんだ……
「それには、我々には到底推し量る事が出来ない、天の御意志があるのです。彼の魂は我々より一足早く、救済への階段をのぼりはじめました。彼の旅が平安である事を祈りましょう」
祈りが終わる、棺がゆっくりと墓穴の中へと下ろされていった。彼の親族がそこへ土をかけてゆく。
――さよなら、サリエリ。もう、僕には何もしてやれないが、もし仇とめぐり合う幸運に恵まれる事があったら、その時は必ず剣を抜くよ……
ウェルテは棺に誓って腰のレイピアの柄を掴んだ。