腐ったオート麦
翌朝、まだ癒えぬ傷口によく包帯を巻いてからウェルテは役場へと出勤した。足を引きずったり体を突っ張らせて、怪我をしていることがばれないよう、ゆっくり体を動かしながら役場の入ると、同僚達はなにやら慌てて出かける用意をしていた。
「スタックハースト、もう熱下がったのか? お前、最近調子悪そうだから、ちゃんと治した方がいいぞ」
仲間の一人が出掛けざまにウェルテにそう声をかけた。
「も、もう大丈夫……。ところでみんな、そんな物持ってどこへ?」
仲間の徴税吏の何名かは、町の警吏が持つような樫の警杖を手にしている。また別のある者は手斧や大きな計量用の天秤の道具一式を抱えていた。
「取り締まりだって。クルトハーフェンから来た穀物商が大市への持ち込み税をちょろまかしすぎたらしい。お前も来られるなら一緒に来てくれ。病み上がりだから、ただ杖持って立ってればいいから」
ウェルテは承知し、普段滅多に使わない警杖を物置から引っ張ってくると仲間達に続いて通りへと出た。
目的の場所は南門近くの小さな倉庫が集まっている地域にあった。収穫祭が開催されているので、どの倉庫も扉が開け放たれ、道は多くの荷馬車や作業をしている人足であふれている。その間をぬって、樫の杖を担いだ徴税吏の一団は目当ての倉庫の前までやってきた。そこでは、先に着いていた徴税代官ルイス・アカバスと数名の徴税吏、そして問題の穀物商とがなにやら激しく口論しているようだった。
「言いがかりはやめていただけますかい? お代官。こっちは信用第一で商売やっとります。もし徴税役場に目を付けられたなんて評判が他の町にも伝わったら、こっちはおしまいなんですぞ」
髭もじゃの顔に大きく太った腹と大柄な上背のその商人と小柄なアカバスが並んでいると、子供と大人が喧嘩をしているようにさえ見えた。
「調べてみれば判ることだ。お前、収穫祭の為に持ち込んだ小麦の量、すでに一昨日までに売り切っているな? ええと……」
アカバスは部下に持たせていた持ち込み品申告書の羊皮紙を検めた。
「持ち込み時の小麦、原価でおよそ百六十ゴルド相当。初日にアグレッサのパン職人協同組合へおよそ九十五ゴルド相当の量、また三日前、ポート・フォリオから来た仲買人に原価およそ六十五ゴルド分が売買成立している。ざっと売値は……八十ゴルド七十シルバだ。どちらの件も即日引き渡しが済んでいるはずだ。間違いはないな?」
「ええ、間違いないですな。それが問題ですか?」
「もう持ち込んだ小麦は売り切って在庫切れだ。だが、お前は昨日、エスカルの商人との間でさらに五十ゴルド相当の量の売買契約を結んでいる。つまり在庫はまだあるということだ。持ち込み量をごまかしたであろう」
「冗談はよしてもらいましょう」
「調べてみればわかることだ」
そう言ってアカバスは合図した。周囲の徴税吏が杖の先で地面を何度か突いた。
この場合、警杖は領主による秩序と権威の象徴としての役割を果たすものであり、警吏や青騎士が持つように相手を殴り倒すために携えてきたわけではなかった。もっとも、取り締まる相手が抵抗すれば、当然殴りつける武器にもなるのだが、徴税役場の仕事でそうい事態にまでエスカレートする事はまずなかった。
「アグレッサ領主フランツ・ド・ゾロッソ公の名代により、収穫祭の持ち込み品について監査を行う。神の名のもと誠実に己の所行を告白すべし。さもなくば、覚悟してもらうぞ」
徴税吏たちは一斉に人足達を押しのけて、倉庫や荷車に積まれた運搬袋へと駆け寄った。短剣で袋を裂き、中の穀物を確認する。
「いくらなんでも乱暴すぎやしませんか? これじゃ商売あがったりだ!」
「心配するな。もしお前が正しければ償いはする」
凄む商人相手にアカバスは笑って言った。
「そっちは、どうだ?」
「ライ麦です」
「だめだ。これはオート麦だ」
「小麦だ。小麦を探せ」
警杖片手にぼんやり見ていたウェルテには、この後の行く末は判っていた。こんな繁忙期にわざわざ大勢で摘発に乗り出すのは、相手が余りに欲張りすぎて目に余ったからだ。もう十分にウラは取ってあるということだ。
その後しばらく、何も不審な点は見つからず、その穀物商は横柄な態度を崩さなかったのだが……
「おい! 見ろ! ライ麦の袋の中にもう一つ袋があるぞ!」
運搬袋を裂いていた徴税吏の一人が突然声を上げた。もう一度調べ終えたライ麦が詰まっている袋を裂いて、なかのライ麦の穂を桶へすべてあけてしまうと、その中にさらに袋が縫いつけてあった。商人の顔つきが変わった。その袋に短剣で裂け目を入れると脱穀前の小麦がボロボロとこぼれ落ちる。
「これは小麦です」
アカバスはニヤっと笑った。
「全部の袋を調べて、秤にかけろ」
一同は、それまで放っておいたライ麦やオート麦の袋を次々短剣で引き裂いてゆく。
「こっちも真ん中に別の袋が縫いつけてある」
「これもだ」
そんな声があちこちからあがる。
「あ、あの、お代官様…… 私めに考え違いがあったようでございます…… その、ええと、あちらでちょっと……」
すっかり青くなって腰も低くなった商人はアカバスを倉庫の片隅へと連れて行く。
袋は全部調べるんだぞと部下に指示し、アカバスはその商人と何やら小声で話始めた。警備で離れたところに突っ立っているウェルテからは、堂々たる態度で時折首を横に振るアカバスとなにやら両手の指で指折り数えながら一生懸命にまくしたてている商人の姿が見えるだけだ。なにやら必死に説得するような商人にアカバスがようやくうなずき、二人は倉庫の外まで出てきた。
「一同、そこまで。この男はまともな足し算、引き算もできん男だそうだ。そんな男を八つ裂きにしてもつまらんことだ。計量係三名以外は引き揚げて元の仕事に戻れ」
アカバスは袋を調べ回っている部下達へ大声でそう命じると商人の胸へ人差し指をするどく突きつけた。
「いいか、今日の日の入りまでだぞ。品質は問わんし、オート麦でいい。くれぐれも粉にはするなよ。もし少しでもごまかしたり逃げようとすれば…… わかっとるな?」
「は、はい、滅相もないことです……」
完全に恐縮しきった商人は何回も恭しく頭を下げた。
「手打ちか…… 珍しいな」
「え?」
隣に立っていた同僚の徴税吏がボソリとつぶやいたので、ウェルテは驚いて振り向いた。
「どういうこと?」
同僚は肩をすくめた。
「理由は知らんが、とりあえずあの欲張り商人は運が良かったってことだ。先生はなんか考えがあってアイツと取引きしたんだろ」
「そんな…… あいつはどう見たってクロでしょ? どうして見逃すんだ?」
「俺に判るかよ。そんなに気になるんなら、直接先生に聞いてみたらどうだ?」
同僚は億劫そうに言うと片付けを手伝うために倉庫の方へ行ってしまった。
商人はしきりにアカバスへ感謝の言葉を述べているようだが、アカバスはなにやら羊皮紙に書き物をしており、もう商人への関心を持っていない風に見えた。
ウェルテは警杖を握りしめたまま、納得のいかない不快感を腹にため込んでその場に立ち尽くしていた。
その日、影帽子が地面に長く延びる時間になってきた頃、大きな麻袋を荷台に山盛りにした荷車が三両、徴税役場の前に止まった。
まだ傷に障るのでその日一日中は役場の中で帳簿仕事の手伝いばかりしていたウェルテは、外にいた徴税吏達が騒ぎだしたので、同僚達の後からよろよろと役場の玄関へと出てゆくと、アカバスの指示のもと人足達が荷台から麻袋を一つずつ降ろし始めていた。
「よいか、一人一袋だ。自分で食うもよし。金に換えるもよし。農村に親類縁者がおる者は冬のために送ってやるのもいいだろう」
アカバスは部下の徴税吏達にそう言って、荷車についてきた人足達に袋を配らせる。
「驚いたな…… こうなるとあの欲張り商人様様だな」
同僚の一人はうれしそうに言って麻袋を受け取りに荷車へ向かう。
ウェルテは玄関の柱に寄りかかりながら呆然とその様子見ていた。徴税吏達は一人ずつ、大きく膨らんだ一抱えの麻袋をもらい、皆なんともいえない笑顔を浮かべている。つまるところ、これがアカバスとさっきの欲張り商人の『合意』だったのだ。
一人が麻袋の中を確かめて薄茶色の堅い麦粒を手に取った。
「オート麦か。どうせなら製粉してからくれりゃいいのにな。これじゃ粉屋が儲かるだけだぜ」
「小麦や大麦の方がいい小遣いになったんだが…… かみさんにパンでも焼いてもらうとするか」
周囲の者もそうだそうだと声を上げて笑う。
ウェルテは驚いてその様子を見つめていた。つまるところ袖の下がモノを言ったのだ。一般的に『腐っている』といわれるこの現象が白昼大手を振ってまかり通った事が驚きだった。少なくとも、ウェルテが働いていた間、アグレッサの徴税役場は表向きは清潔に見える所だった。無論、きわめて強権的で欲深い領主がいつも目を光らせているのも理由の一つなのだろうが、ウェルテにとっては、尊敬の対象でもあった代官のアカバスが平然と収賄をやってのけたことがなによりの衝撃だった。これまで別に何かの清貧とか高潔などという理想に燃えて生きてきたわけではないが、自分が何がしかの絶望を感じているのは確かだった。
「おい、スッタクハースト。早くもらってこいよ」
一人そこに立ち尽くしていると、麻袋を抱えた同僚のひとりがほくほく顔でウェルテに声をかける。ウェルテは一瞬躊躇した。この麦を受け取ることは道義的に正しいことなのか? 無論、道義的に正しくないことは明らかだった。だが、今ここで麻袋をあからさまに拒絶することも、賢明なことに思えなかった。
「それ、どうするの?」
ウェルテはそれとない風を装ってその同僚に尋ねてみた。その同僚は袋を少し揺らしして嬉しそうに言った。
「嫁さんの実家が農家だから、そこへ送ってやるかな。今年は凶作だからきっと喜ぶさ」
「そう…… よかったね。うん、よかった」
ウェルテは作り笑いを浮かべてうんうんとうなずくと、よろよろと荷馬車へとやってきた。屈強な人足の一人がすぐに麻袋を持ち上げてウェルテの前へと持ってくる。
「重いですぜ、旦那」
「うん、大丈夫」
ウェルテは傷をかばいながら両腕でずっしりとした麻袋を受け取るが、やはり重すぎた。上体に力を入れたため、わき腹や腕の傷にビリビリと痛みが走り、すぐに麻袋を地面に落としてしまった。
「おい、スタックハースト大丈夫か? どうもまだ良くなってなさそうだな」
そばにいたアカバスが驚いて声をかける。
「すいません…… なんか体に力が入らなくて……」
ウェルテは慌ててそう言い訳しながら麻袋を拾い上げようとする。
「よせよせ。おい誰か、スタックハーストの分を中へ運んでやれ」
そばにいた手の空いている徴税吏にそう言い、アカバスはウェルテは立たせた。
アカバスは人足に降ろした麻袋の数を確認させ、今いる者に麦が行き渡ると、仕事で不在の徴税吏の分までオート麦を降ろさせた。それでも荷馬車三両分の山盛りの麻袋は三分の一も減っていなかった。アカバスは御者に小声で一言告げると、馬車と人足達は再び町のどこかへと走り去っていった。
ウェルテはじっとその後ろを見送りながら、あのオート麦の山が最終的にどこへ向かっているのか気になった。
「お前も実家でパンでも焼いてもらうといい」
ウェルテの様子に気を止める気配もなく、アカバスはそう言った。
「いや、僕の実家はプラムベリーなので……」
「ああ、そうか。確かそうだったな…… じゃあ金に換えて栄養のある物でも食うことだ」
「そんなのより、サリエリの家にでも持って行こうかと思いまして……」
その刹那、アカバスは凍りいたような表情でウェルテを見つめた。ウェルテも無言のままアカバスの鋭い目を見つめかえす。それはほんの一瞬の事だった。すぐにアカバスの表情は柔らかいものになり、呆れたような苦笑いに変わった。
「はは、お前のその友達想いも結構なことだが、それには及ばんぞ。もうアイツの実家にはすでに一袋、届けさせるよう手配しとる」
アカバスはそう言って忙しそうに自分の執務机の方へと歩いていった。
ウェルテはさりげなく脇腹の傷口を押さえながら無言で自分の座席へと戻った。結局、あの捌ききれないくらいの大量のオート麦はどこへ行き、誰の懐を潤すこととなるのか? その事ばかりが脳裏に浮かんだ。つい数日前まで先生と呼び慕っていたルイス・アカバスがとても遠くにいるように感じられた。
夕刻、同僚達が仕事を終え帰り支度を始めたのでウェルテも机の上を片づけ、付けペンとインク瓶を物入れへしまう。問題はでかくて重い忌々しい麻袋だ。今の体じゃとても抱えて下宿まで運ぶ気にはなれなかった。
「どうしようかな……」
とりあえず今日は置いて帰ろうと思ったことろで、役場の下男がウェルテを呼びにきた。
「スタックハーストさん、外にお客さんですよ?」
「こんな時間に誰?」
「さぁ…… 左頬にこんな大きな傷のある、体の大きなとてもおっかなそうな人です」
思い当たり過ぎたウェルテはすぐに承知したと下男に伝えて役場の玄関へと飛び出した。
「おいウェルテ。ここだ」
思った通り、声の主であるおっっかない男ことガスコンは開け放たれた玄関の鎧戸の陰からウェルテを呼んだ。
「やぁガスコン、こっちも話があってこれから会いに行くつもりだったん……」
ウェルテは途中で言いよどんだ。ガスコンの口元はいつ以上に濃く無精ひげが伸び、ズボンもブーツも黒い泥でひどく汚れていた。だがウェルテはそのブーツとズボンに目をとめた。それはロクサーヌに継ぎ当てしてもらったズボンではなく、厚手で仕立ての良いウールのズボンであり、革のブーツも以前のボロ靴ではなく泥汚れの隙間からはなめらかな茶色い光沢が見てとれる。ウェルテはガスコンの顔を見つめながらなんと言うべきか言葉が詰まった。
「わかってよ、確かにお前に話さなきゃならないことがいくつかあるんだ」
ウェルテの困惑した表情から何かを慮ったガスコンは大きく二度うなずき、疲れ切った顔に笑みを浮かべた。