脅迫文
何度か目を覚ました記憶があったが、いったいどれくらい眠っていたのか。ドアをたたく音でウェルテは目が覚めた。
「ウェルテさん、ウェルテさん。起きてらっしゃる? お客さんですよ」
下宿のおばさんの声だ。
「ガスコンですか?」
「いえ、ご婦人ですよ」
寝ぼけウェルテはゆっくりとベッドに起きあがった。まだふらつくものの、高熱が独特の嫌な体の重さはなかった。室内の様子を見るに、あれからガスコンは来ていないようだ。
「一体どちらさん?」
「あのサリエリさんのお姉さんですって。お会いになる?」
ウェルテははっとした。
「すぐ降ります! 下で待ってもらって」
ウェルテはとび起きると、血で染まった当て布や包帯をベッドの下に隠して寝間着を脱ぎ捨てた。シャツに血が滲まないように新しい包帯を腹に何重にも巻き付けると、ウェルテは最低限の身支度を整えて階下へおりた。
サリエリの姉さんは食堂で待っていた。先日役場にガドウッド村のマリーを連れて来た時と同様、まだ黒い喪服を着込み、顔色は優れず表情は虚ろだ。むしろ先日以上にやつれているように見えた。いろいろな事がありすぎたため、ウェルテはサリエリが死んでからまだたった八日しかたっていないことを改めて思い知らされた。
「ちょっと調子を悪くしていて…… こんな格好ですみません」
ウェルテは姉さんのテーブル向かいに座った。下宿のおばさんがお茶を出して下がってから、ウェルテは口を開いた。
「御両親は少しは元気にんりましたか?」
姉さんは手元のコップを見つめながら、微かにうなずいた。
「母はあれからも毎日泣いてばかり。父はなんとか耐えているけど、本当は母以上につらそう。子供の頃から、父が一番あの子をかわいがっていたから」
ウェルテはうなずくだけだった。
「お姉さんはもうお店のほうに?」
彼女は微かに首を振った。
「うちの人が、店のことはいいから両親にそばにいてやれって。ただ、子供たちもいるし……」
――優しいご亭主でよかった……
彼女の夫である肉屋の主人が好人物であることはウェルテもサリエリを通して聞いていた。
ウェルテは改めて、慰めるべき言葉すら見つからない自分の心境を伝えて許しを請うた。仮に仇の首級一つ手元にあったとしても、きっと遺された家族には大した慰めにはならないだろう。そう思うとウェルテはまたも発作のように憂鬱な気分に襲われて体が重くなってきた。
お茶で乾いた口内を潤してから、ウェルテは本題に踏み込んだ。
「ところで、今日は急にどうして?」
姉さんはようやく顔をあげ、少し躊躇いがちに視線を迷わせてから、羽織った黒いヴェールの下から数枚の羊皮紙をとりだした。
「あの…… こんなこと、ウェルテさんにお話していいのか、迷ったんだけど。誰に相談するべきか……」
ウェルテはとりあえずテーブルに置かれた羊皮紙の一枚を手にした。汚れて黒ずんだ二つ折りの羊皮紙を開いた途端、ウェルテの顔から血が引いた。なぜなら、その古びた安羊皮紙には、おそらく家畜のものと思われる褐色の血でこう殴り書きされていたのだった。
『嗅ぎまわるのはやめろ。死にたいのか』
『森へ近づくな。脅しと思うな』
ウェルテは青くなったまま姉さんを見た。
「これ…… 一体、どうして?」
ごめんなさい、他に相談できる人がいなくてと前置きし、サリエリの姉さんは話しはじめた。
「一昨日、泣いてばかりいないで、そろそろあの子の部屋も整理しないとと思って、あの子の部屋の書物や衣類なんかを整理していたら。書類箱の一番下にそれが小さく折り畳んであって……」
姉さんは顔を真っ青にして震えていた。
「優しいあの子がなんでこんな物を持っていたのか…… 運悪く森で物盗りか盗賊に出会ってしまったんだって思うようにしていたのに、こんな……」
姉さんはその大きな顔を自分の両手に埋めた。ウェルテにとっても、これは新しい衝撃だった。
――サリエリはやっぱり誰かに脅迫されていたのか……
ウェルテは奥歯を強く噛みしめながら、ついこの前まで生きていたサリエリと、サリエリが死んでからの出来事を比べてみた。
危険な立場にいる事など露ほどにも臭わせなかったサリエリ。サリエリを運んできた青騎士の荷馬車。素朴だが心優しきガドウッド村のマリー。忌々しい甲冑姿のガイヤール。頼れる上司のはずだったが、なぜか遠い存在になってしまっようなアカバス博士。自分のせいで迷惑ばかりかけてしまっているガスコン、そして訳の分からない男女の一団と薄汚い大商人オストリッチ……
ウェルテは思い返すだけでも頭がグルグルと回り始めたような気がして具合が悪くなってきた。ただ、今取り乱しても仕方が無いので、ウェルテは一度すべての思考を打ち捨ててから、サリエリと目の前の姉さんのことだけを考えてみた。
「お姉さん。この手紙の事、僕以外に誰かに話しましたか?」
姉さんは首を大きく何度も振った。
「こんな恐ろしいこと、両親にはとても話せないわ…… 本当は役場の先生に話そうと思ったんだけど、やっぱり一番仲が良かったウェルテさんに相談してからの方がいいと思って……」
ウェルテは無意識に体を前のめりにしてささやいた。
「先生にも、あのアカバス先生にもこの事は話していないんですね?」
「ウェルテさん以外にはまだ誰にも…… あたし、なんだかとても怖くて……」
ウェルテはよろよろと立ち上がって、テーブル向こうの姉さん腕をやさしくなでた。
「大丈夫です。この事は僕からアカバス先生に伝えておきます」
ウェルテはテーブルの上の羊皮紙を見つめながら言った。
「ところで、最近、おうちの周りでなにか変わったことはないですよね? いや、その…… すいません。心当たりは全くないのですが、これ見たら少し怖くなって」
ウェルテはお姉さんの不安を煽るようなことを聞いてしまったため、慌てて言い添えた。すると俯いていたお姉さんは急に顔を上げた。
「あんな事があったから当たり前かもしれないけど、最近、よく青騎士隊の人たちがよくたむろしているわ。いつもってわけじゃないんだけど」
「あ、青騎士隊……」
ウェルテの口から思わずもれた。嫌な疑惑が再びウェルテの心中に膨らんでくる。
逝ってしまったサリエリのためにも、ウェルテは言葉を選びながら言った。
「こんな気味の悪いものを見つけたからってわけじゃないですが、ほんのちょっとの間でもお父さんお母さんをお姉さんたちの家へ連れてきたらどうですか? ほら、家でふさぎ込んでいるより、賑やかな孫たちに囲まれている方が、少しは元気になるのかなって……」
ウェルテは遠慮がちに言ってみると、姉さんは顔を上げて少し笑みを浮かべた。
「それもいい考えかもしれないわ。ありがとう、ウェルテさん」
ウェルテもぎごちなく、微笑み返した。
「アカバス先生に相談したいんで、この羊皮紙はしばらく預からせてもらっていいですか?」
「ええどうぞ、最初からそのつもりだったのよ。あ、ごめんなさい、長居して。両親が心配だからそろそろ帰るわ」
姉さんは慌てて立ち上がった。
戸口まで送りに出たところで、ウェルテは今が夕方近く出あることにようやく気がついた。どうやらガスコンが来てから丸一日以上寝ていたようだ。戸口で姉さんは急に神妙な顔をして振り返った。
「あんな物を持ってきてごめんさなさい。ただ、もしウェルテさんが何かに気づいたとしても、危険な事だけは絶対にしないでね。あの子の事で何か判っることがあったとしても、あなたが危ない目に遭うことをあの子は絶対に望んでいないわ。それだけは覚えていてね」
ウェルテは、ええわかっていますとうなずいた。
姉さんの後ろ姿を見送りながら、ウェルテはこの愛すべき一家に、これ以上の不幸が訪れないことを祈った。
玄関口から周囲を見回しても、青騎士の影はない。ウェルテは少し安堵してから、食堂へ戻った。テーブルの上には問題の羊皮紙の束がある。おばさんにお茶の礼を言って自室に下がると、ウェルテはまだ開いていないその他の羊皮紙に目を通した。どれも似たような物騒な脅し文句が書かれているだけだったが、そのうちの一枚を目にしてウェルテは慄然としてうめいた。
「アカバス……」
『老いぼれ代官の為に死ぬか? 自分と家族の事を考えろ』
この血文字を見て、半ば敵討ちからは手を引くつもりであったウェルテは再び復習の鬼に自分が呼びもどされつつあるような気がした。自分の物入れからマリーから預かったサリエリの羊皮紙を手元へ持ってくる。この二つの羊皮紙が無関係であるはずは無かった。
――やはりサリエリの死にはアカバス博士が関わっている。そして仇は……
傷はまだ癒えないが、昨日までの死の間近に感じさせるだるさはない。明日はなんとしても役場へ行こうとウェルテは思った。