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最も勇敢なる者

「ロクサーヌ、もう駄目だ…… もう起きられぬ……」

 厨房の野菜箱の上に寝そべったナイジェルがうわ言のようにうめいた。夕食用のスープを忙しく器によそっていたロクサーヌは呆れて首を振った。

「そんな大したこと頼んでないじゃない……」

 ウェルテ達と別れたナイジェルがロクサーヌの宿屋を訪れたのは昼下がりの事だった。収穫祭が始まり、ロクサーヌは多忙の真っ直中にあった。

「麗しのロクサーヌよ。そなたと語らいに参ったぞ」

「あらー、ナイジェル卿。よく来てくれたわー。丁度手が足りなかったのよー」

ロクサーヌはそう言って大喜びでナイジェルを招くと、挨拶もそこそこ三階の客間へと連れていった。

「さぁさぁ、お帽子もマントも汚れるから取っちゃっていいわ。私はシーツを洗うから、ナイジェル卿はベッドの藁を全部袋に詰めて厨房のかまどの前へ持ってきてちょうだい」

ロクサーヌはリネンのシーツを手早くベッドからはぎ取りながらナイジェルに指示する。

 仕事を手伝うつもりなどこれっぽちもなかったのだが、有無を言わせぬロクサーヌの様子に、ナイジェルはやむなく従うこととなった。

 ベッドに敷いていた古い藁を燃料にするためにかまどへ押し込み、その火でロクサーヌがシーツを消毒するための湯を沸かしている間にベッドへ新しい藁を押し詰める。汚れたシーツを沸騰する湯でグツグツ消毒している間に新しいシーツでベッドメイキングするのだ。

 ロクサーヌが叔母から引き継いだこの小さな酒宿の最大の特色は、町で一番清潔で快適な客室を提供するというものだった。一見、何の変哲もないこの酒宿だが、ナンキン虫やダニ、ノミに邪魔されない快適な一夜を提供する数少ない宿泊所として、多くの旅人の間で好評を得ていた。それは、叔母直伝の客室消毒術に負うところが大きく、シーツは毎日洗濯と消毒、ベッドの藁は最大でも二週間で交換するという手間をかけていた。

 いつもの年なら収穫祭の繁忙期は農村からくる村娘達を臨時で雇って宿の仕事を手伝ってもらうのだが、今年は娘達が皆、脚気や肺病にかかって出稼ぎに来られないとの知らせがあり、ロクサーヌも困っていたところだった。

 だが、ロクサーヌの期待も虚しく、この無為徒食の田舎貴族は階上の客間に新しい藁を運び上げたところで音を上げた。

「思った以上に役に立たないのね…… 夕食のスープは肉、抜きよ」

息も切れ切れになってへたばるナイジェルにそう言って、ロクサーヌは忙しく夕食の支度にとりかかる。もう間もなく、ディナーやエールを求めて宿泊客や酔客がやってくる時間だ。

――そういえば、ガスコンはどこいったのかしら?


 裏庭に面する勝手口が荒っぽく叩かれたのは、ロクサーヌがニシンをソテーにするために大鍋で炒めはじめたときだった。

「ん? ガスコンかしら?」

突っ伏していたナイジェルも顔を上げる。ロクサーヌがドアを開けると、ガスコンが見知らぬ年輩の男と一緒に小柄な老人を抱えて飛び込んできた。

「ガスコン、こんな時間までどこ……」

「説明は後だ。悪いが急いで湯を沸かしてくれ。あときれいな布か脱脂綿だ。それになにか酒はあるか? エールじゃないきついやつならなんでもいい」

胸に矢が刺さったままぐったりしている老人を見てロクサーヌも表情を一変させてうなずいた。

「ナイジェル卿、そこをあけて。急いで洗濯済みのシーツを持ってきてちょうだい」

動けなかったはずのナイジェルもただならぬ気配を前に、すぐに野菜箱から跳び起きた。

「ガスコン! あなたもケガをしているじゃない!」

黒く血に染まったガスコンのズボンを見てロクサーヌは驚きの声を上げる。それにガスコンはすかさず唇へ人差し指を当てた。

「ロクサーヌ、大声は駄目だ。大勢に知られるとヤバいんだ。俺のケガは大したことない。とにかく、このじいさんを」

ロクサーヌはあわてて口をつぐんでうなずくと、かまどに鍋をのせてお湯を沸かしはじめた。

 ガスコンらの後ろから入ってきたウェルテは食堂の厨房の奥から食堂の方を伺った。薄暗くランプとロウソクの灯る食堂からは宿の客たちが食事や歓談する声が騒がしく聞こえてくる。祭りの夜ともあれば当然のことだ。

「ロクサーヌ、亭主が帰ってきたのかぁ?」

きっと常連客の一人だろう。グダグタに酔った声が食堂の方から聞こえてきた。

「ガスコン、ここじゃお客に見られるかもしれない……」

わき腹の傷の痛みに顔をしかめながら、ウェルテがつぶやいた。

「ロクサーヌ、裏の納戸を借りるぞ」

そう言ってガスコン等が老人を両脇から抱えて裏庭へと戻りかけてガスコンが肩越しにロクサーヌを振り返った。

「ロクサーヌ、すまない……」

「よしてよ。さぁ、お湯が沸いたら持っていくから早く」

そう言ってロクサーヌは、手の空いているウェルテとその後ろで黙って一部始終を見ていたもう一人の小柄な男にランプとロウソクを手渡した。その、小柄な男こと男装の娘はロクサーヌ達とガスコンのやりとりをびっくりしたような顔で黙って見つめていた。

「あら? あなた、もしかして女の子? ウェルテもしかしてこの……」

ロクサーヌの驚きの言葉に、隣の洗濯物置き場にいたナイジェルが目ざとく厨房をのぞき込む。二人の好奇の視線を前に、娘は気まずそうに顔を逸らした。

「ごめん、ロクサーヌ。あとでちゃんと説明するから」

そう言って、ウェルテと男装の娘はランプとロウソクを抱えて裏庭の納戸へと退いた。

 大人が四人も寝転がれば一杯になってしまうくらいの狭い納戸の道具箱の上へガスコンはラムジーをそっと横たえた。邪魔になる小麦粉の袋や野菜なんかを一端、裏庭に出してから、ウェルテは火打ち石を打ってランプとロウソクに火を付けた。辺りがオレンジ色の光に染まり、獣脂の焼ける臭いが狭い納戸に立ちこめた。

 ラムジーの出血は酷く、チュニックの前半分からズボンまでが流れ出た血で真っ赤に染まっていた。町中をなんとか青騎士や警吏、そしてあの殺し屋達の追跡を避けてここまで逃げてくる間は、浅いがまだ荒く呼吸をしていたラムジーだったが、それもみるみる弱くなりつつあるようだった。

「皆の者、待たせた……」

 相変わらずの気取った口調ながら、いつになく真剣な表情でナイジェルが折り畳んだシーツを三束抱えてきた。ガスコンが一つ手に取り、それを幾筋にも切り裂いて、その一つを丸めてラムジー矢が突き刺さったままの傷口に押し付ける。ベージュのリネンが血を吸ってみるみる真っ赤に染まった。新しい布を強く押し当てても、じわじわと吹き出す血は一向に止まらない。

「こんな矢、はやく抜いてやろうよ」

 じれったくなったウェルテが、突き刺さったままの矢に手をかけるが、ガスコンとマルセルと呼ばれていた年かさの男が慌ててそれを制した。

「よせ、無理に抜いたらあっと言う間に死んじまうこともある。慎重になれ」

深手を負って矢や刃物が体に突き刺さったまま後方へ運ばれてきた負傷兵を数多く見てきたガスコンは、安易に体刺さっている異物を引っこ抜いたために死んでしまった例をいくつも知っていたのだ。ウェルテは慌てて手を引っ込めた。

「それより、お前も怪我してるだろ。すぐに手当てしろ」

ウェルテはうんとうなずき、床にしゃがみこんだ。急に自分のケガの事を思い出させられ、急に気分が悪くなってきた。

「お待たせ! まずお湯。ちょっと古いけどブンランデーの残りが少しあったから。それとぶどう酒を持ってくるわ」

ロクサーヌは湯気の立つタライを抱えてきた。

「ああ、助かった。ところでおっさん、医術の心得はあるのか?」

「いいや」

「そうか…… おれも無い」

ガスコンは年かさの男にそう言って湯を手ですくってラムジーの傷口を洗いはじめた。

「とにかく、血を止めて床屋に診せねぇと…… おれ達じゃ、応急手当しかできないぞ」

ガスコンは突き刺さった矢をマンゴーシュで短く切り落とし、新しいシーツの切れ端を包帯代わりにして傷口に押し当てた。

 そばに座りこんだウェルテは真っ赤に血が滲んだシャツをめくって自分の右脇腹の創面を見下ろした。傷の周囲の血は黒く固まり始めていたが、人差し指の第二関節ほどの長さの創面からはゆっくりと鮮やかな血が染み出してる。

――ああ、もうおしまいだ……

レイピアで負った致命的な刺し傷は、後から祟ってくる事も多い。ウェルテはショックと絶望感で思わず気を失いそうになった。目の前に白い点がちらつき始めたところで、ガスコンに強く肩を揺さぶられた。

「おい、しっかりしろ。待たせたな…… ナイジェル、ランプをこっちへ」

ランプを近づけると、ガスコンはラムジーにしたように、傷口から血を絞り出すようにして押してから湯で洗い、ロクサーヌが持ってきたブランデーの瓶をひっくり返して傷口をじゃぶじゃぶ洗い出した。部屋にブランデー特有の甘い芳香が立ちこめる。

「痛い、痛い! しみて痛いよ!」

「ちょっとの間辛抱しろ」

暴れて喚くウェルテを押さえながら、ガスコンが創面を覗きこむ。

「思ったより出血は少ない。あと傷が深くなければ、なんとかなるだろ」

そばでランプを手にしていたナイジェルもうなずいた。

「そういえば、外傷にはラベンダーの葉を用いると良いと聞く。ロクサーヌなら持っているのではないかな?」

「そうか、薬草か。ちょっと聞いてきてくれ」

ウェルテは傷口を布で押さえながら二人のその言葉にうなずいた。

「ロクサーヌなら持ってるよ。客の風呂に入れる入浴剤に使ってる……」

ウェルテがそう告げると、ナイジェルは裏庭へと出て行った。

 それまでずっと黙って様子を見守っていた男装の娘がラムジーの様子を気遣いながら年かさの男に尋ねた。

「マルセル、彼は乗り越えられそう?」

「正直なところ、非常に厳しいでしょう」

マルセルと呼ばれた男は、小声で告げた。娘は辛そうな顔で力の無くなったラムジーの無骨な手を握る。

「村長、村の人の為にも貴方はここで倒れる訳にはいかないはずよ…… だから、お願い……」

一体、ラムジーとこの正体不明の女達の間にどういう協力関係があるのか、全く想像がつかないと思いながらウェルテはぼんやりとラムジーと娘を見つめていた。

「こんな時、アンヘルムがいてくれたらいいのに」

 娘はついそうこぼした。マルセルも無言でうなずく。

「なんとか連絡が付けられればいいのだけど」

レイピアで切られた左腕の浅い傷をぶどう酒で洗っていたウェルテは思わず手を止めた。ウェルテの為にシーツで包帯を作っていたガスコンもウェルテと同じ事を思ったらしく顔を上げる。ウェルテがガスコンに目配せすると、ガスコンはかすかにうなずいた。

 ウェルテは一度深呼吸してから老人に付き添っている二人に言った。

「アンヘルムって、床屋のアンヘルムのこと?」

その言葉に二人がはっと反応してウェルテへ顔を向ける。

はやるその表情には一抹に期待が伺えたので、ウェルテは少し辛くなった。

「三日前に、死んだよ…… あの日、森で青騎士に捕まってこっぴどく拷問されたって聞いたよ」

二人の顔に失望と悲しみの影がさした。

「青騎士の酷い拷問にも屈しないで、最後まで何一つ喋らなかったって……」

ウェルテは慰めにならないことは解りつつも、言い訳するようにそう言い添えた。

 マルセルは軽くうなずき、再び老人の救護に戻る。娘の方はショックが大きかったのか、うつむいたまま口を固くむすび、その現実に耐えているかのように体を硬くしていた。

 しばしの沈黙を破るように、ナイジェルが納戸へ戻ってきた。

「待たせた。ラベンダーの葉をもらってきた。食事の配膳が終わり次第ロクサーヌも来てくれるであろう」

ナイジェルは紙袋から湿った深緑色のグシャグシャの団子状の物を一摘み手に取り、ウェルテの腹部の傷に塗り付けた。ラベンダー独特のスーとする良い香りがする。それは薬草をすりつぶしたものだった。ラベンダーには殺菌と止血の効果あると言われていた。

 ガスコンはウェルテの傷に包帯をあてがうと。残り半分をマルセルに渡し、ようやく、自分の太股の傷の手当に取りかかった。

 ナイジェルは壁に寄りかかりながら、興味津々といった面もちで見慣れぬ三人を眺めている。

「そちらのご婦人も、ケガをされているのでは?」

ナイジェルは娘の左膝を指して言った。血をすった黒いズボンの膝は血を吸ってテカテカ光っている。

「とにかく、傷を洗って血だけでも止めちまわないとな」

ガスコンがぶどう酒入った瓶とシーツの切れ端を娘の前へ置いた。

 相手が女、それもこれまで対立してきた相手とあって、何となく手出ししづらかったので、ガスコンはマルセルに娘の手当するよう促した。

「お嬢様、失礼いたします。少し痛むかもしれませぬが、ご容赦を……」

マルセルがそう言って娘のズボンを膝までたくし上げた。

「ラベンダーはまだ残っているよ」

褐色の血に汚れた白い細い足が露わになったので、ウェルテは視線を逸らして薬草の紙袋をマルセルへ渡し、目を閉じたまま動かないラムジーの様子を見守った。

 マルセルが娘の膝の傷口を拭い、ぶどう酒をかけると痛みのためか娘は小さく唸った。

「申し訳ありません、今しばらくご辛抱を……」

「いいの。気にしないで」

娘はそう気丈に言って歯を食いしばって天井を睨みつつ苦痛に耐えた。マルセルが娘の膝に包帯を巻き終えると、娘は一息、息を吐いて体から力を抜いて壁に寄りかかった。

 再び娘の方へ顔を向けたウェルテは今になって娘の左手首に巻かれたぼろぼろの包帯に気が付いた。それは二日前、ウェルテがレイピアで貫いた傷だ。褐色の乾いた血の染みが浮んだ包帯は、泥と汚れで真っ黒に汚れている。

「腕の包帯、取り替えた方がいいよ。汚れたまま放っておくと化膿するぞ」

リネンの切れ端と薬草の残りを娘の方へ押しやり、ウェルテは再びラムジーの方へと向いた。非は向こうにあるとはいえ、自分で負わせたケガである手前、なんとも罰が悪い思いだった。

 娘は自分のケガを思いだして一瞬の怒りの表情を浮かべたものの、マルセルに促され古い包帯をほどき始めた。

 ナイジェルは腕を組みながら、ずっと静かにその男装の娘の顔を見つめていた。手当も終わり、やっと落ちついたのか娘はナイジェルの無遠慮な視線に気づき顔を背ける。

「ごめん、待たせて。こっちのお客はやっと一段落したわ。お腹すいているでしょ?」

 ロクサーヌが厨房からカゴと鍋を手に納戸へやってきた。カゴには黒パン、鍋からはカブのスープが湯気をたてている。

 ロクサーヌはナイジェルに黒パンを配らせると、自分はブリキのコップにスープをよそって皆に手渡しはじめた。

「ごめんなさい。残り物だから今はこんなのしかできないけど、お腹の足しにはなるでしょ。ささ、あなた達も」

スープを手渡され困惑した顔のマルセルと娘にロクサーヌは笑って言った。


 ガスコンはスープを配り終えたロクサーヌを納戸から裏庭へと連れだし、その手を握った。

「厄介ごとばかり持ち込んで、ほんとにすまねぇ……」

「気にしないで、ガスコン。これくらい当たり前のことよ。それより、あのおじいさん大丈夫なの? 床屋さんを連れて来られないの?」

ロクサーヌの言葉にガスコンは首を振った。

「さすがに今は無理だ。だがいいか、お前は普通にしていてくれればいい。明日の朝までにはなんとかする」

――あのじいさん、果たして明日まで持つだろうか……

「はいはい。あんたもケガしてるんだから無茶だけはしないでね。足りない物があったらすぐ言って。今お茶を入れてくるわ」

そういうと、酒宿の女主人はガスコンの右頬に軽くキスして厨房へ戻っていった。ロクサーヌが厨房に見えなくなってから。ガスコンは自分の不甲斐なさに肩を落とした。


 納戸に残ったウェルテ達はラムジーの容態に注意しつつも、黙々とパンとスープを各々の口へ押し込んだ。三人とも空腹だった。パンとスープをむさぼり食うそんな三人をナイジェルは薄笑いを浮かべながら眺めていた。ウェルテの足下で羽を縛られていた鳩が、豆を催促するようにグルグルと鳴いた。納戸につくなりすっかりその存在を忘れていたウェルテは、慌てて黒パンを一摘みちぎって細切れにすると鳩の前へと撒いた。伝書鳩も空腹だったのだろう、一目散にパンくずをつつきはじめる。

「それは本当に我々の鳩なのか?」

食事を終えたマルセルが訪ねるので、ウェルテは力なくうなずいた。

「そうだよ。こいつをあんた達に返しておしまいにするはずだったのに…… まさかこんな事になるなんて……」

「その鳩は……」

娘がそう言いかけたので、ウェルテはその言葉を遮って言った。

「いいよ、タダで返してやるよ。この鳩もその妙なダガーもな!」

娘のスティレット・ダガーを指さしウェルテは声を荒げる。

 そんな時、今まで浅く息をしていたラムジーが激しくせきをして体を震わせはじめた。一同は慌ててラムジーに駆け寄る。ウェルテがランプを手にラムジーの顔を照らす。

「ラムジー、しっかりしろ。判るか? ラムジー」

老人は急に大きく目を見開くと一同を見回してからいきなりウェルテの腕を掴んだ。それは、およそ瀕死のケガを負った者らしからぬ力強いものだった。

「スッタクハースト様、お願ぇで御座います。どうか…… どうか、この方達を助げてあげてくだせぇまし」

「わかった、ラムジー。とにかく落ち着くんだ。今は安静にしていないと」

「村長、わたし達はことは心配しないで。だから今はじっとして……」

錯乱したように言う老人を前に、ウェルテや男装の娘もなんとか落ち着かせようと試みるが、老人はウェルテの腕を掴んだまま尚も言った。

「スタックハースト様、この方達は、あっし等村の者達の最後の希望なんです。だから、どうか……」

そこまで一気に言い切ると、ウェルテの腕を掴む力が急に弱まり、老人は目を閉じた。

「おい、ラムジー、ラムジー! 目を開けろ。返事をしろ! ラムジー!」

ウェルテは老人の体を揺すりながら大声で呼びかける。異変を見てとりマルセルがすぐにラムジーの腕を持って脈をみる。裏庭から戻ってきたガスコンが、取り乱すウェルテや娘を押し退けて老人の頸動脈に手をやり、胸に耳を当てた。先ほどまでウェルテの腕に赤く跡がつくくらい強く握っていた老人のゴツゴツした手はもう全く力を失いウェルテの腕からこぼれ落ちた。

「どうだ……」

心臓に耳を当てていたガスコンが尋ねると、マルセルも静かに首を振った。

「おい、ラムジー。しっかりしろ! ちゃんと説明してくれ、ラムジー!」

ウェルテは何度もラムジーを揺するが、老人が再び目を開くことは無かった。

 男装の娘は老人の硬い手をやさしく握りしめた。

「村長、貴方はアグレッサで最も勇敢だった…… 私は貴方ほど勇気があって、みんなの事を想っていた人を知らないわ。だから、どうか私たちを見守っていて……」

娘はラムジーの亡骸に寄り添いそう静かに言った。

 納戸に沈黙が訪れた。ウェルテは呆然と老人の亡骸を見つめた。言葉を発する者は無かった。真夜中の訪れを告げる聖堂の鐘の音だけが納戸へ聞こえてきた。

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