三匹の死神
ウェルテ達はじりじりと水汲み場の真ん中へと後ずさる。双方、剣を構え、広く間合いをとりつつも、三人の刺客はゆっくりとウェルテ達を追い詰めつつあった。
男装の娘の腕に支えられていたラムジーが大きく咳こみ、真っ赤な血を吐きだした。娘はなんとかラムジーを引っ張りながら、レイピアの剣先を所在なく左右の敵へ向ける。
「お嬢様、お一人だけでもお逃げください。奴らの狙いはお嬢様です」
年かさの男が背中越しにそう言うと、娘は悔しそうに歯を噛みしめた。
一方、ウェルテは視線だけで相手を呪い殺さんとばかりに、眼前の敵を睨みつけた。
――死神め、死神め、死神め……
「死ねぇぇぇぇ!」
一瞬後、ウェルテは地面の砂を蹴った。止めるガスコンの叫びも遠く、右腕を伸ばして跳躍する。相手の心臓を狙った渾身のファンデブ(突き)は容易く、相手のレイピアに絡め取られる。元より一撃で決まると思っていなかったウェルテは下段から相手の腹を狙いマンゴーシュを繰り出す。だが、ダブル・レイピアの男はまるで強風を受け流す風見鶏のようにそれをかわし、空振りしたウェルテの左腕をレイピアで一閃。
「ウノ」
敵の聞き慣れないかけ声とともに、ウェルテの手からマンゴーシュが落ちる。
敵の二撃目はウェルテの腹を襲う。なんとかウェルテはカップヒルトでそれを弾き、敵の逸れた剣先はウェルテの右脇腹へ突き刺さる。
「ドス」
――や、やられた……
ウェルテは自分の腹の中の異物感に血の気が引いた。
すぐにも三撃目がウェルテの喉笛を狙って飛んできた。敵が高い位置に構えた左手のレイピアがウェルテの顔に目がけて伸びてくる。もう間に合いそうも無かった。
「トレス……」
「させるかぁぁぁぁ!」
敵の妙な掛け声を打ち消すガスコンの怒鳴り声とともに、カットラスの刀身が敵のレイピアを跳ね上げた。ダブル・レイピアの男とガスコンは数回、打ち込み合ってから、双方距離をとった。
敵の男は両手のレイピアを振り回しながら嬉しそうに歯を見せた。実際には堅い鉄の棒であるはずのレイピアが、残像のせいか、夕日を反射したその刀身がまるで鞭のように湾曲しているように見えた。
「悪くねぇ…… 悪くねぇな、あんた」
ガスコンは男の軽口を無視して、脇腹を押さえてへたり込むウェルテを起き上がらせた。左手首の傷は浅いが、わき腹の刺し傷は深そうだった。
「やられた…… もう駄目だ! 刺された! 腹を刺された……」
じわじわと血がにじむシャツを押さえながらウェルテがわめく。
「落ち着け! かすり傷だ。それしきで死んだ奴はいねぇ!」
ガスコンはウェルテに落としたマンゴーシュを握らせて、引っ張り起こす。血を吸った衣服は見る者に出血量をやたら多く錯覚させるうえ、やられたと思い込んだ時の動揺の方が、物理的な負傷よりはるかに危険な事をガスコンは知っていた。
ウェルテはガスコンに支えられてヨロヨロと敵から離れる。
「エスパディオス…… こいつら、クソ忌々しいレイピア使いどもだ」
ガスコンがつぶやいた。ウェルテももちろんエスパーディオの存在は知っていた。だが、その流派の者達と剣を交えた経験はおろか、その技を目の当たりにしたことすら無かった。
「いいか、お前は隙を見て逃げろ」
「ちょっと待ってくれ、それは……」
ウェルテの反論をガスコンは遮った。
「聞け。見捨てて逃げろと言うんじゃない。とにかく、大通りまで走って、騒ぎを起こして戻ってきてくれればいい。この際、警吏だろうが青騎士だろうが構いやしねぇ」
ウェルテもようやくガスコンの意図が飲み込めた。この手の仕事を引き受ける手合いは、何よりも顔を見られることを嫌うはずだ。
「くたばんないでくれよ」
「あたりまえだ!」
そう吐き捨てると、ガスコンは敵の間合いへ大きく踏み込んだ。
ウェルテが踵を返したそのとき、鈍い金属音とともに銀スウェプトヒルト・レイピアが宙を舞ってウェルテの目の前に落ちた。ウェルテは一瞬足を止めた。見れば、三番目の刺客、太った髭だるまの男が娘の左膝にレイピアを突き刺し、娘が低く悲鳴を上げて、支えていたラムジーもろとも地面に倒れ伏した。
足をつぶされても娘はなおも、ぐったりしているラムジーを自分の背後へ庇いながら後ろへ逃げようと試みる。
男はゲラゲラ馬鹿笑いしながら彼女の黒いキャバリアーハットをレイピアではたき落とした。艶のある黒くて長い髪があらわになった。
「なかなかの上玉だ。斬り刻んじまうのが惜しいな」
髭だるまはげへへと笑いながら、血に染まってテカテカ光るレイピアの剣先で娘の頬をなでる。娘の白い右頬にべっとりと深紅の血糊が貼りついた。
ウェルテはぽかんと口を開けたままその様を見ていた。今ならば逃げる隙もありそうだったが、足は動かない。
ウェルテは今、「絶対悪」とか「邪悪」という存在が眼前にあることを強く確信していた。男装の娘とその一味の是非はともかく、この醜く太った髭面の襲撃者は明らかに忌み、憎むべき存在だった。今のウェルテには、脂肪の詰まったこの邪悪な男の太鼓腹をレイピアで穴だらけにしてやることの方が、生きてこの場を逃げ延びることよりはるかに尊いことにすら思えた。かくしてウェルテは腹を決めた。この思慮浅はかな若い徴税吏はクロークを翻して駆け出すと、自分のマンゴーシュを右脇にはさんで懐へ手を突っ込んだ。
「女、使え!」
ウェルテは布に包んだ銀のスティレット・マンゴーシュを娘へ放り投げると、下段の構えを作ってから一気に敵を突く。
「うおっ、とっと」
鈍い金属音が響く。相手は体勢を崩しつつもウェルテの一撃を黒錆の浮いた大きなヒルト付きマンゴーシュでたやすく絡め取る。
「確かに、よそ見はいけねぇな……」
その巨体に似合わないつま先立ちで男は軽やかにステップを踏んでフェイントをかけるや、足下に倒れている娘へ鋭い突きを繰り出す。火花が散って、レイピアの凶刃が逸れる。娘はなんとか、ウェルテが投げたスティレット・マンゴーシュを拾い、逆手で持ったその短剣で相手の剣を弾き返した。
ウェルテは休む間もなく敵めがけてレイピアを振る。右足を小刻みに二回踏み込み、相手のバイタルゾーンを連続で狙う。だが、相手は巨体に似合わぬ身のこなしでそれをかわしてしまった。ウェルテには太ったこの敵がまるで風になびく祭りの旗差し物のような、実体のないヒラヒラした存在に思われた。
だが、次の瞬間、驚いたことにその「旗差し物」はウェルテのレイピアをわきの下に食らえ込むと同時に自分のレイピアを素早く突き出す。一段、二段、三段! 辛くも三度まで敵の刃を受け止めたウェルテのマンゴーシュは四度目に空振りした。敵のレイピアはウェルテの右すねを突いた。骨に固い何かがこすれる不快感とともに、右足に力が入らなくなり、ウェルテはその場へもんどりを打って転がった。
「けっ、つまらねぇ野郎だ……」
太っちょの襲撃者は倒れているウェルテへそう悪態をつくと娘の方へゆっくり近寄った。
「嬢ちゃん、惜しかったな」
男の瞬発的な打ち込みが娘の右腕を切り裂く。その手からあの刀身の細い銀のマンゴーシュが落ちた。娘は苦痛に顔を歪めてうずくまる。
「マテオ、ささっとしとめろ!」
ガスコンと対峙していたかすれ声の男が苛立ちを込めた口調で怒鳴る。
「ああ、わかってる。……さて、残念だがそろそろ時間だ、嬢ちゃん」
地面に突っ伏したまま、ウェルテはぼんやりとそんなやりとりを聞いていた。
――今から逃げ出せば、果たして間に合うかな?
今更そんな遅すぎる想念が浮かぶ。
右の膝関節がひどく痛んだが、驚いたことに力を入れてみればちゃんとまだ動くようだ。幸いなことに、敵の細いレイピアは骨や筋に致命傷を負わせてはいないようだった。ウェルテは頭を上げた。レイピアは少し離れたところに転がっているが、左手にはまだマンゴーシュが握られている。手を伸ばせば届きそうな地面には、小銭入れとおぼしき茶色い皮袋が転がっていた。ぼうっとした頭でウェルテは皮袋へ手を伸ばしてみた。袋はずっしりと重い。おそらくは娘達が今回の取引のために用意した硬貨のようだ。
――一部はシルバ銀貨建でか……
ウェルテは皮袋を引き寄せて腰のベルトに挟むと、革の手袋に包まれた自分の掌を見つめた。
ウェルテは一念発起してなんとか立ち上がるとマンゴーシュを右手へ持ち変えた。
「来い、ブタ野郎! そんな、なまくらレイピアでやられてたまるか! こっちはまだ生きてるぞ!」
ウェルテは、娘に止めを刺そうとしていた髭だるまへ挑発しながら近寄った。
「バカ、何やってやってんだ! 逃げろ!」
ガスコンの悲鳴も余所に、ウェルテはマンゴーシュを突きだした。
ウェルテが横から飛びかかってきたので、仲間からマテオと呼ばれていた太っちょの男は、娘を突き殺すことを中断してウェルテへ対した。
「じゃあ手前ぇからだ」
一瞬の間もなく、敵のレイピアがウェルテの手からマンゴーシュを跳ね飛ばす。そのまま血に染まったレイピアの剣先がウェルテの胸元目掛けて飛んでくる。
――やっぱり早い!
ウェルテの予期したとおりだった。ウェルテは体を庇うように左手をかざして敵の剣を受けた。革の手袋と掌の肉が裂けるのも構わずウェルテはレイピアの刀身を握って自分の右方向へねじ曲げる。太っちょは少し驚いたのか、目を丸くした。だが、すぐに左手に光るマンゴーシュの刃がウェルテに迫ってくる。
「これでもくらえ!」
今度はウェルテの方が早かった。ベルトに挟んでいた皮袋の紐をつかみ、遠心力をかけて右側面から叩きつける。勢いよく振り切られた皮袋は加速し、シルバ銀貨十数枚分の重さが太っちょの団子鼻を粉砕した。ウェルテはすぐに真上から二発目を振りおろす。額に直撃した皮袋は裂けて、敵の眼前で銀貨が飛び散る。太っちょの襲撃者は血塗れの顔で背後へ倒れる。
「ざまぁ見ろ!」
ウェルテが歯をむき出しにして歓喜叫び声を上げる。
「マテオ!」
仲間の敗北を目の当たりして浮き足だったのは、仲間の二人だった。ガスコンはこの一瞬に賭けることにした。一歩下がって、剣を眼前に十時で構えると、中腰のまま相手の胸元へ飛び込んだ。風切り音を立てて、二本のレイピアが襲う。一撃目はカットラス、二撃目はソードブレイカーではじく。敵はレイピアを引き、次の突きを準備するが、ガスコンはそうはさせなかった。剣での攻撃を放棄し、相手の顔へ強烈な頭突きを見舞う、相手が怯んだその刹那、胸元まで持ち上げた右膝を前方へ勢いよく伸ばす。今回の取引で買い直そうと思っていたおんぼろの革ブーツのつま先が相手の腹へめり込んだ。ダブル・レイピアの男は白目を剥き、大の字になって背後へ跳ね飛ばされた。
「逃げろ、逃げろ!」
ガスコンは吹っ飛んだ敵の様子を確認もせず、背中を向けて走り出した。
膝とわき腹の痛みに耐えながら、ウェルテも自分のレイピアとマンゴーシュを掴んで走り出す。足下にはおよそ三ゴルド分の銀貨が散らばっているが、さすがにこれは諦めるしかない。太っちょの刺客は顔を血で真っ赤に染めながら地べたでのたうち回っている。なんとか止めを刺したいウェルテだったが、残念ながらそんな余裕は無さそうだった。
娘は自分の剣を拾い上げてから、深傷を負っているラムジーを助け起こした。娘はふとウェルテの足下へ目を留めてからウェルテを一瞥した。老人の肩を抱きながら、必死さを押し隠してウェルテを見るその目は、相手になんらかの淡い期待をなげかける眼差しだった。その期待が何であるかは、ウェルテにはすぐに判った。見ればそこにはあの問題の伝書鳩が、人間同士の問題など我関せずといった様子でよちよち歩いている。羽を縛っていなければ、きっと気ままにどこかへ飛んでいってしまっただろう。ウェルテは一瞬の迷いとともに、その鳩を抱え上げた。
「止まるな、走れ!」
ガスコンがウェルテの腕をとり、半ば引きずるように疾走する。ラムジーを抱えながら娘は背後を振り返った。
「マルセル! 早く!」
娘に呼ばれた年かさの男は依然、チロリアン・ハットを被った刺客と対峙していた。
「残念だが、ここまでだ」
マルセルと呼ばれた男はそう言うなり、地面に落ちている弓の弦にブロードソードの刃を突き立てる。弦の張力を失い、ケヤキの弓が激しく跳ねた。チロリアン・ハットの男は歯噛みした。年かさの男はほかの二人をも牽制しながらゆっくりと距離を開け、相手が追う素振りを見せないと判るや、脱兎のごとく主を追って駆けだした。
チロリアン・ハットの男は追う素振りを見せたが、それを止めたのはかすれ声のダブル・レイピア使いだった。
「もう遅い、奴らはもう大通りまでたどり着く。」
かすれ声はそう言って地面に唾を吐いた。
「畜生、あのチビ野郎め! ミケーレ、逃げられちまうぞ!」
顔を血で真っ赤に染めながら、太っちょの髭だるまがやっとのことで地面から体を起こす。
「仕事中に遊ぶなと何度言わせる……」
ミケーレと呼ばれたダブル・レイピアの男はそう静かに吐き捨てると、血に染まったレイピアをクロークでぬぐい、鞘へ収めた。
「どうも今夜は日が悪い。一旦退くぞ……」
かすれた声がそう命じ、三匹の死神はランポーネ街の夕闇へと消えて行った。




