逢魔が時
「この話…… 本当かしら?」
男装の娘はかすかに声をふるわせながらパピルスの切れ端を握りしめた。
「ずる賢いオストリッチが仕掛けた罠である可能性も捨て切れませんが、もし真実であれば、天命が我々に残した大きな機会です」
その横にある粗末な木の椅子に腰掛けていた年かさ男はそう助言した。
娘は茫然と前を見つめて無言で唇を噛んだ。これ以上危険を犯したくなかったが、失った伝書鳩を再び手にできるかもしれない機会は決して見過すわけにはいかなかった。
「ラムジー、危険が伴うけどあなたも来てくれる?」
控えていたラムジー村長は深くうなずいた。
「もちろんでごぜぇます」
「三ゴルドというのが気に入らないわね。もっと高く要求してくると思ったけれど」
「確かにはした金ですが…… それ以上に、あの者達に我々の意図を勘付かれてしまった事が我ながら悔やまれます……」
年かさの男は深くため息をついた。
「やめて、マルセル」
娘は表情をさらに硬し、年かさの男に言った。
「仕方ない、仕方ないの。こんな事、何もかも慣れてないのだから。ただ、あの方の為にも、もう失敗は許されないわ」
女はパピルスが皺になるくらい強く握りしめた。
しばらく沈黙が訪れた。建物の外からは収穫祭の賑わいが聞こえてくる。女からマルセルと呼ばれた年かさの男はおもむろに立ち上がり、低い天井に空けられた天窓の板戸を押し開いた。日がさしこんで室内が少し明るくなった。ここはアグレッサの市壁に面する町はずれの空き家であった。その屋根裏部屋から男は午後の空を見上げた。
「どちらにしろ、そろそろ準備をしませんと」
娘は右目にモノクルをはめて立ち上がった。
「行きましょう。賭けるしかないわ。ただ…… 十分に用心して」
「かしこまりました。すぐに準備いたします」
そう言ってマルセルと呼ばれた男は天窓を閉じた。
町の南西に位置するランポーネ街。水汲み場へと通じる五本の道にはそれぞれ一人づつ剣を帯びた護衛を潜ませ、娘とマルセルそしてラムジーは水汲み場へと静かな問屋街を進む。徴税吏達の要求は町中での取引をということだったが、なるべく人の少ない場所のほうが彼らには都合が良かった。収穫祭の最中とあって、この一帯に人通りはなく非常に静かだった。
「もし危険があれば、鳩はあきらめすぐに脱出を。特に青騎士や警吏にはご注意ください」
「ええ、大丈夫」
さっきまで青かった空はすでにうっすらと赤みを帯び始めていた。
黒いマントの中に剣を隠し、まだ灯の入れていないカンテラと掌大のベルを手にした五人の護衛は裏路地や横丁で息をひそめて道を見張っていた。何か不測の事態が起きればこのベルを鳴らして仲間へ危険を伝える手筈となっていた。
西門に通じる道を見張っていた男は緊張しつつも目と耳を研ぎ澄ませて周囲の変化に注意を払っていたが、彼は気付く事が出来なかった。音も無く、姿も見せず、感じられたのは空気の流れが僅かに乱れたような気配だけだった。
「いよう」
不意になれなれしく声をかけられたと思った瞬間には右肺、そして次に左肺がレイピアの剣先に貫ぬかれていた。黒い濃い髭をたくわえた男が薄笑いを浮かべて自分の胸に剣を突き立てているのがようやく判った。咄嗟の事に反撃もできず、彼はせめてこの異変を仲間にだけは伝えようと試みた。
「おっと……」
まるでバネ仕掛けの機械のような素早さで男の左手が腰のもう一本のレイピアを引き抜き、今まさに断末魔の声をあげようとしていた相手の口に刃を突き入れた。剣は口内から喉ごと延髄を貫き、瞬時に躯となった護衛の男は石壁に力なく寄りかかった。両手にレイピアを手にした黒ひげの男は相手の体から剣を引き抜くと、死体の手にあるベルやカンテラを落とさぬようにしながら、ゆっくりとやさしく亡骸を地面に横たえた。
同じ頃、東に通じる路地では、別の護衛が不意に図太い麻縄で喉笛を締めあげられていた。一瞬の事に思わず声を上げようとしたが、気道を完全に塞がれ、口からは微かな息が漏れるだけだ。
「よせよ、もがけば余計苦しむことになる」
背後の敵はまるで慈愛に満ちた口調でささやいたが、麻縄はなおいっそう強く護衛の首に深く食い込んだ。警戒のベルを鳴らそう思ったが、もはや右手はしびれて満足な感覚は残っていない。護衛は薄れゆく意識の中で、左手に下げていたカンテラを思い切り投げてみた。カンテラが僅かな弧を描き、かろうじて石壁にぶつかり耳障りな音をたてた時、強大な力で締められた麻縄がその哀れな護衛の頸骨を粉砕した。
「何、今の音……」
問屋街の真ん中で黒衣の娘は振り返った。娘からマルセルと呼ばれていた年かさの男が一度だけベルを鳴らしてみた。それに応答した高い微かなベルの音が二つだけ、物音とは別の方角から聞こえた。不安のためか、ラムジーの顔がくしゃくしゃに歪む。
「お嬢様、ご用心を……」
硬い表情でマルセルは腰のブロードソードの柄へ手を添える。言われるまでもないとばかりに、娘も自分のスウェプトヒルト・レイピアを引き抜いた。
「静かだな……」
ガスコンは眉に皺を寄せて周囲を見回した。
――静かすぎる…… アテがはずれちまったな
人気のないところで会うのは危険だと思っていたからこそ、敢えて町中と場所を限定したのだが、どういうわけかここランポーネ街の一角はぽっかりと人気がなくなっていた。
ランポーネ街は、家具や木材製品を扱う問屋が集まる地区で、低層の木造や土造りの店舗や小さな工場がひしめいているのだが、今は収穫祭の真只中だったため仲買人から職人に至るまですっかり出払ってしまったようだ。
固く閉じられた戸が並ぶ町並みを見回しながら、ウェルテは煉瓦で囲われた井戸の横に腰をおろした。その腕の中には青い布に包まれた鳩がせわしなくその首を振っている。
広場の賑わいはここまで伝わってくるが、その音がかえってこの一帯の静けさを強調しているようにウェルテは思った。
町の中心にある聖堂の方角から時を告げる鐘の音が聞こえてきた。先ほどから茜色に染まりつつある空を五つ目の鐘の響きが満たす。鐘の音は五回づつ、それが三度続いた。建物に木霊していた音がゆっくりと消えてゆく。
「時間だね」
「ああ、そろそろ来てもいい頃だ……」
再び、広場の喧噪だけがここへと伝わってくる。
鉄と鉄を激しく打ち合わせる響きと共に、物騒な断末魔が聞こえてきたのはそんな時だった。ウェルテとガスコンも顔を見合わせ、腰を浮かせた途端、西に通じる道から件の男装の女と昨夜会った年かさの男がラムジーの肩を支えながら駆け込んできた。
「え? 何?」
戸惑うウェルテ達を見るや、その取引相手達は手にしていた抜き身の剣を手に身構える。
「や、やはり、謀ったな!」
娘が叫びながらレイピアを向けた。表情は怒りと憎しみにで険しいものだったが、剣を構える右手はどういうわけかぶるぶると震えている。
「な、何? 一体どうしたんだ?」
ウェルテとラムジーは呆気にとられて立ちすくんでいたが、二人に支えられているラムジーの胸に深々と突き刺さった短い矢を見て、思わず言葉を失った。
すると別の路地裏から腹を押さえた男がよろよろと走り出てきた。その男は何か言いたそうに口を開けたが、急に膝立ちになって真っ赤な血を吐き出すと、頭から地面に突っ伏してた。突然の惨劇にウェルテも思わず口元を押さえる。男装の娘は悲痛な顔で目を背けた。
「これで四人目」
低くかすれた声だった。まるで家事や日課をこなしたときにでそうな口振りでその路地裏のゆっくりと影から人型が浮き出てきた。まるで幽鬼のようにあらわれたその男は、黒いフェルトのスローチハットに薄汚れたダークレッドのマントをまとい、その両手には鮮血したたる二振りのレイピアを握っている。ガスコンのような日焼けによるものではない、生来のオリーブ色の肌に黒く濃い髭をたくわえ、白目の中に浮かぶ黒い大きな瞳孔がギョロリと一同を見回した。ガスコンほどたくましい体格の男ではなかったが、向こう傷のあるガスコンの何倍も危険で獰猛な本性を内に秘めた人相であるようにウェルテには思われた。
ウェルテとガスコンは事情が判らないまま、自然に剣の柄へと手がいく。
「どうやら取引はおじゃんだ。逃げるぞ」
そうささやいたガスコンはウェルテの二の腕をつかむや、反対側の路地へと向けて地面を蹴った。
細い街路や横町を抜けて姿をくらますつもりだったのだが、十歩も行かぬうちにガスコンが急に体をひねって止まった。
「危ねぇ!」
ウェルテはガスコンに腕を掴まれたままその背中に激突したが、ガスコンはそれに構う事なく、ウェルテを巻き込んで地に身を投げた。
ウェルテは自分の帽子をかすめる最初の矢には気付かなかったが、足元に突き刺さった二の矢を見て地面から跳び起きた。
「気をつけ……」
ガスコンの警告が終わるまもなく、三の矢がすぐにウェルテの肩をかすめ、四の矢がガスコンのクロークを貫いた。
――早い!
ガスコンがウェルテを近くの防火用水を貯めた樽の陰に放り込むと同時に、矢が樽を貫き、その穴からゴボゴボ水が流れ始めた。
「外れたか……」
声がしたのはラムジー達が逃れてきた道からだった。あらわれたのは短弓を手にした、痩せすぎの背の高い男だった。ツバの広いチロリアン・ハットを目深にかぶったその男は、帽子のツバの奥の目を細めてガスコンを睨みつける。
――一人なわけねーか……クソ!
ガスコンは歯ぎしりした。その隣で、腕をおかしな方向へ捻られたウェルテが苦痛のうめき声を上げた。体を強く握りしめられた鳩も苦しそうにバサバサと暴れて、ウェルテの手から地面へと落っこちた。
「おい、ミケーレ、もう小娘を料理しちまったなんて言うなよ」
下卑た笑い声とともに今度は東の路地から野太い声とともに髭もじゃの太っちょがのっそりと姿を見せた。クシャクシャになったソンブレロを頭にのせ、手には何重にもよった太い麻縄を握っている。
「なんだよ。まだたくさんいやがる」
まるでハリネズミの棘のような硬い髭の奥にある口が、下品に歪む。
――やっぱり囲まれたか
ガスコンはカットラスの柄を強く握りしめた。
「あのクソ野郎……」
一方のウェルテは、ガスコンに掴まれていた左腕を揉みながらチロリアン・ハットの男を睨み返した。
「手早く済ますぞ」
レイピアの男がかすれ声で言う。
「な、何なんだ、こいつらは!」
ウェルテはそう怒鳴って、家具問屋の壁に寄りかかって震えている取引相手へと目をやる。レイピアを構えながらも、男装の娘の黒い瞳が一瞬ウェルテをしかと見つめた。どういう経緯でこんなことになったのかウェルテには想像すらできなかったが、ただ自分達がラムジーや男装の娘達と図らずも一蓮托生になってしまった事は確かなようだった。
「どっちにしたって、逃げるしかねぇ!」
そう言ってガスコンは近く転がっていた手桶を樽の陰から宙へと放り投げる。チロリアン・ハットの男が放った矢は手桶をすぐに貫く。
「今だ!」
ガスコンは猛然と短弓を手にした男へ突進する。一本の弓に、一度に二本の矢はつがえられない。だが、相手は素早く矢筒から次の矢を引き抜き、ガスコンを狙う。ガスコンがカットラスを抜くが、まだ刃のとどく間合いには遠い。しかし、ガスコンはニヤリと笑った。敵が弦を引きしぼろうと肩を上げたところで、脇から助太刀が入った。ガスコンより遥かに近くにいた、男装の娘に付き従っている年かさの男がその隙にショートソードで飛びかかる。敵もさる者、すぐに短弓を捨てて素早く身を翻すと、数歩後退してから左腰からレイピアを抜く。
それを見るやガスコンはか急に直角へ方向転換して、二本のレイピアを持つ男へと目標を変えて剣を振るった。刃が夕日に反射したと思った瞬間にはガスコンのカットラスの刀身は、まるで二本のレイピアに摘まれたように側面へと容易く払われた。あんな細いレイピアの刀身でどう力を受け流したのか、ウェルテが不思議になるくらい容易く……
ガスコンも泡を食ってすぐに背後へ飛び退く。
「へぇ…… とりあえず飛び道具を潰す、か…… お前、戦い慣れてるな?」
かすれ声の黒髭の男は嬉しそう笑うと、肩に力を入れずに無造作に右手のレイピアを突き出す。ガスコンの額を嫌な汗が伝った。男がゆっくり一歩踏み出した。同時にガスコンは跳躍した。だが、敵の突きが速かった。ガスコンが右腕に鋭い痛みを感じたかと思った刹那、すぐに左膝へ剣先が突き刺さる。三度目の突きを辛うじて弾くとガスコンは仰向けに尻もちをついた。
「ガスコン、しっかり!」
ウェルテはレイピアを抜きながらガスコンに駆け寄る。
「畜生、油断したぜ……」
「ええっ……」
ウェルテは愕然としてガスコンを見る。どんな小物相手にも手を抜かないはずのガスコンがこんな時に油断などする筈もない。そんな百戦錬磨のガスコンが強がりを吐いたことにウェルテは恐怖を感じた。
――相手はそんなに強いのか?
ウェルテに支えられながらガスコンはなんとか起き上がってカットラスを構えなおす。
「ちょっとヤバイぞ……」
ウェルテの心配を裏付けるように息を荒くしながらガスコンがつぶやく。
ウェルテは不安に顔を歪ませて眼前の敵を見つめた。紫色になりつつある空を背景に、男は白い歯を見せて薄笑いを浮かべる。
「あまりジタバタするな。これも仕事だ。苦しめるつもりはねぇ……」
背後で太っちょの男が応じる。
「ああ、夕飯前の済ましちまいたいな」
「いかにも……」
娘達と対峙していたチロリアン・ハットもダガーを抜きながらうなずいた。
――こいつらは死神だ。
ウェルテは背筋に冷や汗が吹き出るのを感じながら、眼前の敵を見つめた。
湿った冷たい風がランポーネ街を吹き抜けた。アグレッサの町は、急速に暗くなる時間を迎えていた。