収穫祭
帰りついたのは深夜だったというのに、ウェルテはその朝ぱっちりと目が覚めた。まだ肌寒く、窓の板戸の隙間から漏れる光はごくわずかだ。疲れていて体はだるいが意識ははっきりしている。
ぐっすりと寝ていたせいか、夢は見なかった。少なくとも、サリエリの出てくる夢を見ずに済み、ウェルテは少しほっとした。
衣装箱の上では、食い散らかした豆の真ん中で鳩が眠っていた。
「今日はお前をご主人様のところへかえしてやるぞ」
鳩にそう言うと、ウェルテは外出着に着替え、クロークと剣を持って部屋を出た。
今日はよい天気らしく、朝焼けが東の雲を染めている。もう町は目覚めていた。家々のおかみさんがたは水くみに出てきて、商家の奉公人達はせわしなく開店の支度に追われている。大通りへ出ると、ギルド所属の荷車や人足が
木箱や麻袋を大量に広場の方へと運んでいく。
この商業都市がもっとも一年で最も賑わう時。今日から一週間にわたってアグレッサ収穫祭がはじまろうとしていた。
多く人や物が、周辺諸国からだけでなく遠く異境の地からも集まってくるため、当然、あらゆるものから税を取り立てる超税吏達も忙しくなる時期だ。
一番近い十字路へとやって来たところで、ウェルテは立ち止まり、わざとブーツのバンドを締め直すふりをしながら背後の様子を盗み見た。面子は変わっているものの、青いクロークを羽織った大男が壁に寄りかかってこちらを見ていた。
――ラムジーに会う前に、あれを巻かないとな……
ウェルテは立ち上がるとゆっくりと歩き出した。
ウェルテが役場へやって来ると、まだ早朝だというのに多くに同僚が仕事の準備に追われていた。
「スタックハースト」
背中越しに名前を呼ばれ、振り返ると代官のアカバス博士が羊皮紙の束を抱えて歩いてくる。
「風邪がぶり返したと聞いたが、もういいのか?」
ウェルテは作り笑みを浮かべてうなずいた。
「なんとか、お陰様で……」
「ならよろしい。無理はせんでよい。くれぐれも町からは出るなよ」
そう言うとアカバスは足早に自席へ向かい、書類のチェックをはじめた。
ウェルテはまじまじとアカバスを見つめた。なぜか金のカフスやシルクのスカーフ、シャツの裾を留めている凝った銀細工のブレスレッドへと自然に目がいく。あれを買うにはどれほどの金が要るのだろうとウェルテは思った。もし脱税をネタに商人をゆすればどれだけの利益が出るのだろう。一瞬そんな想像をしてみたものの、徴税代官という役職の報酬を考えれば別に不自然な贅沢ではなかった。考えれば考えるほど、理屈に合わない疑念に囚われてくるので、ウェルテはアカバスから視線を背けて自分の受け持つ監査先の一覧表を調べ始めた。
昼前となり担当する商店や業者を回り終えて役場へ戻ってくると、窓口に立っていた同僚がウェルテを呼び止めた。
「ウェルテ、お前にお客だぞ」
同僚は、戸口に突っ立っている十歳にもなっていなさそうな、つぎはぎだらけの毛のチュニックを着た男の子を指さした。
「徴税吏のスタックハーストさん?」
男の子が聞くのでウェルテはそうだと言った。すると男の子は無言で折り畳んだ亜麻布の切れ端を突き出した。ウェルテはそれを受け取り、折り畳まれた亜麻布を広げる。
『五つ目の鐘、ランポーネ街の水汲み場にて ラムジー』
古びた亜麻布には黒インクの朴訥とした文字でそう記されていた。もう少しで正午の四つ目の鐘が鳴る時刻だった。
――来たか……
おそらく駄賃を欲しがっていそうな子供に声を掛け、これを持って行くよう命じたのだろう。ウェルテは子供に待つように言い、急いで雑記帳からパピルスを一枚破り取って、羽ペンを走らせた。
『承知。我が手中に伝所鳩あり。三ゴルドにて引渡し候。 徴税吏』
ウェルテはパピルスを折りたたむと、子供に1ブロン銅貨と共に手渡した。
「もし渡せたら、この返事を渡して」
子供は無言でうなずくと外へと駆け出して行った。
もう昼休憩となるので、ウェルテは仕事道具を自分の机に放り出すと、手紙を畳んで役場の玄関から外へと出てきた。ガスコンを呼びに行くためにロクサーヌの宿へ行こうと思ったのだが、役場の玄関わきではガスコンが畳んだクロークを肩に担いで立っていた。
「なんだ、わざわざ来たの」
役場の壁に寄りかかっていたガスコンは体を起してクロークを羽織る。
「取引が済むまでは、あまり一人で動かない方がいい」
「そうだね…… 今日も後ろに変な奴らがいるしね」
「判ってる。今は二人組だ…… それで、連中からの知らせは来たのか?」
そう問うガスコンにウェルテは手紙を渡した。ガスコンはそれに目を通してから、目深にかぶった帽子のツバの陰から周囲を素早く見回した。
「取引までに尾行をなんとかしねぇと…… で、ブツはどうした?」
「まだ下宿。まだ余裕があるから、昼御飯でも食べようか」
二人は往来の人の流れに乗って収穫祭の開かれている聖堂前の広場へと向かった。いざ追手を巻く段になった時には、人ごみの中にいた方が何かと都合も良い。それに大聖堂の鐘楼には、町の有力商人達が出資して据えた、この町唯一の大時計が掛けられていた。
交通の要衝に位置するアグレッサの収穫祭とあって、ひしめきあう露天と人の数はいつもとは比べ物にならないほどだった。目当ての場所へ行くにも難渋するくらいの人波をかきわけながら、ウェルテ達は、今年収穫した小麦で作ったパンとポート・フォリオ経由で運ばれてきたイワシの燻製と羊の干し肉、グレープス産のオレンジなんかを買い、大聖堂前の階段に腰を下ろした。パンを割って具材をはさみ、簡単なサンドウィッチにしてランチにしていると、異形の影帽子が座っている二人に覆いかぶさった。
見上げると、白い羽毛飾りに覆われた白鳥の翼のごとき大きなツバの帽子、鼻筋から博物誌で見たような九官鳥のごときくちばしが生え、紫やエメラルドに輝く宝石やガラス玉が頬や目元に散りばめた真っ白なマスクで顔を覆った男が金糸に覆われたマントを肩に背負って立っていた。
「そこの者ら、もしサンドウィッチのその一かけら、渡す事を拒むば汝らの身に、それはそれは恐ろしき災いを降らせん」
芝居に出てくる魔術師のような身振りで空になった杯を振り回しながら、鼻にかかった声でその怪人が言った。サンドウィッチを咀嚼していた二人は顔をしかめる。
「ずいぶん物騒なトリック・オア・トリートだね」
「貧乏人にたかるとはいい度胸してんな、ナイジェルさんよぉ……」
それを聞いた怪人は脱力したように肩をすくめた。
「こうも容易くバレてしまうとは、全くつまらん限りだ。それに、少しは余興に付き合うだけの心のゆとりというものを持ってはどうだ?」
妙な怪人ことナイジェル・サーペンタインはそう言ってエスカルから届いたばかりのマスケラをはずし、その端整な顔を露わにした。
「そんなアホなカッコする奴は知れてるってもんだ……」
ガスコンが吐き捨てるように言った。
「悪いけど忙しいからお昼はめぐんであげないよ。でも、オレンジなら余分に買ったから、ほら」
ウェルテがオレンジを一つ放ると、ナイジェルはそれを受け取って隣に座る。
「結構、結構。なに、少々飲み過ぎて空腹を感じたまでの事…… それにしても、アグレッサの祭とは、人ばかり多いだけでどうにも華やかさが足りない…… エスカルの収穫祭ともなれば、まるで町中が別世界になったように着飾って祝うものなのだが」
確かにナイジェルの言うように、広場には派手なマスケラを付けて練り歩いている者もいなくはなかったが、数は非常に少ない。商業都市と文化都市の違いのためか、その多くは祭を楽しむというよりもむしろ物の売り買いに熱中しているようにウェルテには思えた。とはいえ、年に一度の祭とあって、見世物小屋や芝居小屋、奇術師や楽団の周りに庶民が集まるのはアグレッサでも同じだ。雑踏の奥からは音楽や芝居の口上が聞こえてくる。
「これは何処のオレンジだ?」
皮をむいたオレンジをかじっていたナイジェルが聞いた。
「グレープス産のやつだよ。無論、高級品ではないけどね」
「そうか…… 去年のものはこの三倍は甘かったような気がする」
「ただでくれてやったんだから文句言うなよ……」
ガスコンが呆れて言うが、ナイジェルはオレンジをかじりながら首を振った。
「不満を言いたいのではではない。今年のどこへ行っても、今年の作物はハズレなのだ。グレープスといえば果実が名産。そのグレープス産でもこの程度の物しか回ってこないとは、今年の不作は思っている以上に深刻なのかもしれん」
「なるほどな…… 食い物の不味いアグレッサにいるせいかもしれないが、野菜なんかは味が落ちたような気がするな」
ガスコンも同意するようにそううなずいた。
あまり他の町や地域へ出かける事が少ないウェルテにはあまりピンとこなかったのだが、作物の取引価格だけは確実に右肩上がりの状態なので、もしそれが不味くなったうえに値上がりとは最悪の状況だなとウェルテは思った。
ウェルテは三角形に切り分けた最後のオレンジをかじりながら、ふとその実の香りを鼻から深く吸い込んでみた。そういえば、あの男装の女は取引に顔を出すだろうか?
――まぁ、まともだったら来る訳ないよな……
あんな妙な連中の事など早く忘れてしまえとウェルテは自分に言い聞かせた。