ガスコンの忠告
「はい、これお昼に食べて」
ロクサーヌが、まだ温かい焼き立てのバタールを布に包んでウェルテへと渡した。
「忙しいのに御免。ありがとう」
ウェルテは布包みを大切に革鞄へと仕舞う。
「ガスコン、まだ支度できないの?」
「よし、いいぞ」
ロクサーヌにせきたてられ、ガスコンはブーツの靴ひもを縛り終えたるとクロークを肩にかけた。一昨日の乱闘で穴があいたところはロクサーヌに繕ってもらい、防水用の蝋を塗り込んであった。
「じゃあ二人とも、気をつけてね」
「ああ、夜には戻る」
ガスコンはロクサーヌが自分の顔に接吻してから、スローチハットをかぶりウェルテに続いて厨房から裏庭へと出た。
もう日の出の時刻だが、今日の空は雲に覆われていた。早朝の薄い霧に包まれる中、二人は無言で目配せすると石で築かれた塀をよじ登り静かに隣の庭へ、そしてまた塀をまたぎ越して裏通りの排水路へと至る。二人は極力足音を低くしながら、とうてい道とも呼べない建物と建物の隙間を走り抜け広場を目指した。
三十分後、ウェルテとガスコンは小さな運送業者が営んでいる乗り合い荷馬車の後ろに並んで腰かけ、アイアン街道を一路西へ向かっていた。
「大丈夫、つけてくる奴はいねぇな」
ガスコンは今くぐったばかりの街の西門を睨みながら言った。
「じゃあしばらくは安心できるね……」
ウェルテは馬車の下に足をブラブラさせながらうなずく。
マリーから羊皮紙を受け取った翌日、ウェルテは羊皮紙や不可解な帳簿やヴィアーズ荷車のことなど、全てをガスコンに話して聞かせたのだった。だが、二人で考えたところで今の段階では何も判らない。全ては想像でしかなかった。やはりサリエリのたどった行程を忠実に追って、直接現場の村へ行ってみようという事で二人の話はまとまった。だが、羊皮紙や貢租簿によってアカバス博士までが疑惑の当事者として浮上してきてしまったので、軽はずみにこの事を相談するわけにもいかず、ウェルテはこの日仮病を使い仕事を休むことにした。仕事が忙しい時期にも関わらず、心配してくれたアカバスや同僚の事を思うとウェルテは何とも憂鬱な気分になった。
最後の問題は、未だにウェルテをつけまわす青騎士達だった。一体何を探りたいのか、ウェルテが隙を見せればすぐにも引っ立てるつもりなのだろう。あれ以後ずっと尾行されっぱなしだった。そんな剣呑なお供をつれて霞の森へ赴けば、青騎士達はこれ幸いと襲いかかってくるだろう。結局ガスコンの考えで、酒宿裏の排水路伝いに広場の乗り合い馬車まで走り、アグレッサの街から脱出する事になったのだ。そして二人はなんとか尾行を巻く事に成功したようだった。今頃、青騎士の阿呆どもはロクサーヌの酒宿の前に突っ立っている事だろう。
明日からはアグレッサの収穫祭がはじまるとあって、石畳の道を町へと向かう多くの馬車や旅人とすれ違った。商人や貴族、農民、それに多くの毛織物、絹、ガラス食器、宝石、スパイス…… 東西南北からあらゆる人や交易品がアグレッサへと集まってくる。
「妙な事に付き合ってもらって悪いな。これからは祭だし一段落したら酒でも奢るよ」
馬車に座って一息ついてからウェルテはガスコンに礼を述べた。
「せいぜい期待しとくぜ。どうせ今はろくな仕事もねーから…… それにロクサーヌにとっちゃ年に一度の稼ぎ時だ。おれが一日中酒場で食いつぶしている訳にもいかないし、丁度いい暇つぶしだからな…… ところでな、ウェルテ」
ガスコンはそう言って、隣に座るウェルテの足へ目をやった。いつも履いているかかとの高いブーツではなく、擦れて古びてはいるが動きやすくて丈夫そうな革の平底ブーツを履いていた。そして両手には冬でもないのに茶色い厚手の革手袋をはめている。きっと腰のレイピアとマンゴーシュも念入りに磨かれているだろう。どれも、長距離を歩くためや、いざ危険な揉め事に巻き込まれた時に備えてのことだった。
「もし、その仕事仲間を殺った下手人を見つけたら、どうするつもりなんだ。とりあえず仕返しなり仇討ちなりを考えるよな?」
「もちろん、あいつの墓前でそう誓ったからね。可能ならこの手で斬る」
ウェルテは他の乗客に聞かれないよう小声で、だが即座に答えた。
「それはいいだろう。相手が一人もしくは多くても数人のグループだったらそれでいい。だが、下手人が大勢の盗賊団だったらどうするつもりだ? 場合によってはおれも手を貸すが、二人でいっぺんに相手にできるのは多くても五、六人が限度だぜ」
「もちろん判ってるよ。もし人数の多い夜盗やならず者どもの仕業だって判ったら、それこそ警吏や青騎士にタレ込んで、代わりに始末してもらってもいい。それだって十分敵討ちになるよ」
ガスコンはなるほどとうなずいた。
「よし…… じゃあ仮にだが、下手人がもっと別のヤバイ連中だったらどうするんだ? 例えば商人、それもそこらの商店のオヤジじゃなくて金満家の大商人だったらどうする? 連中の邸宅に押し入って斬り殺すか?」
ウェルテは眉間に皺を寄せてガスコンを睨んだ。
「その時は警吏や青騎士、もしくはアカバス博士、場合によっては領主、そのうちの誰かが取り締まってくれるだろう。その為には確たる証拠を押さえる必要があるけど、無法な殺人は重罪だ。無視できないはずだよ」
「確かにお前の言うとおり、もし敵が単独の商人だけなら、まだやりようは無くはねぇ…… だが下手人が青騎士どもや役場の博士だったらどうする? レイピア一本でケリがつけられると思うか?」
「そ、そんなことが……」
ウェルテは険しい表情のまま口ごもった。ガスコンは少し肩を落とし首を振った。
「本当はお前だって判ってんだろ? 今回の殺しの一件、お前の話聞いただけだって、ただの盗賊どころか大商人や青騎士おまけに徴税代官まで関わってきやがった。しかも、それを調べ出した途端にあの伝書鳩を抱えた妙なオトコ女まで出てきちまって…… もし殺しの下手人が青騎士どもだったらどうする? お前の腕なら青騎士の二、三人は倒せるだろうが、あっという間にとっ捕まって八つ裂きにされちまうぞ」
ガスコンの言葉にウェルテは少し腹が立ってきた。悔しいがそれはウェルテ自身も一昨日からすっと懸念していた事だった。
「つまり、犯人探しはやめろと言いたいのか?」
「そうじゃねぇよ…… ただ、もし青騎士や代官が絡んでいたら事件は領主にも関係してくるってことだ。もしこの事件に領主の利害が絡んでたらどうだ? いくらおれ達が立派な証拠揃えて下手人を罰してくれって頼もうが、道理も正義も蟻ん子を踏みつぶすみたいに消飛んじまうぜ」
ウェルテには言い返す言葉が見つからなかった。
実際ウェルテは、ガトウッド村のマリーの話を聞きサリエリの羊皮紙を調べてからの二日間、ずっと周囲への猜疑心と自分が挑んでいる見えない相手への不安に襲われていた。最初ウェルテが想像していた犯人像は、盗賊や追い剥ぎみたいな市井のならず者だった。そして、そんな奴等は見つけ出して斬り合うなり決闘を申し込むなりして始末すればそれで済むと思っていた。だが、相手が大商人や領主お抱えの兵隊集団、さらには自分が信頼していた職場の上司ともなれば話は全く変わってくる。無謀な真似をすれば自分の人生が簡単に吹き飛びかねないのだ。ウェルテは報復による正義の達成は決して無価値ではないと考えているが、ウェルテは決して超人ではない。簿記と計算尺それにレイピアが少々使えるだけの一介の市民だった。
「情けないな…… 無力な人間っていうのは……」
そうつぶやいてウェルテは遠く街道沿いの丘陵を睨みながら口を歪めた。
「よせよ…… ただ、悔しくても引き際だけは考えとけってことだよ。先生も口癖のように言ってたろ、蛮勇は武勇にあらず勝利も誉れもなしってな」
実際、彼らの師ヴァンペルトは戦の奇策家として知られてはいたが、自爆的な行動や向こう見ずな自殺行為を称賛する価値観を何よりも嫌い、戒めていた。
――確かに、ガスコンの言うとおりだ……
ウェルテは友人の言葉に無言でうなずいた。
ウェルテ達が馬車に揺られて霞の森を目指している頃、青騎士隊長クラレンス・ガイヤールは霞の森の西方にある関所ノックス砦に配下の中隊と共に留まっていた。
「その後、何か変わった事は?」
そう尋ね、ガイヤールは二階にある石壁の狭間のから、アグレッサを目指す眼下の馬車や人々の行列を見下ろした。彼らがアグレッサへと至るためには、この砦で通行料を支払う必要があった。
「特に異常はありません。通行人はこの時期ですからご覧のとおりです」
体格のいい中年の守備隊長はそう報告した。領内にいくつかある砦の守備隊長はみな青騎士隊の幹部がその任に就いていた。
「それにしても今日はなぜ?」
今朝早くに部下を連れて現れたガイヤールを守備隊長は慌てて出迎えることとなったのだ。
「森の中で怪しい集団がこそこそ動き回っているという情報がある。薄汚いただの賊だと思うが、できれば収穫祭の前に始末しておきたい。それにちょっと気にかかる事もある」
ガイヤールは守備隊長の問いにそう答えて窓から外を見た。砦の柵のすぐ外は南北両側ともに深い森だった。このあたりにも今日はうっすらともやがかかっている。
「これからご出発に? しばらく滞在されるのでしたら昼食をご用意致します」
「霧が薄くなったら出る」
今日はガイヤール自身も実戦を想定し、重いプレートアーマーと青いマントを身につけ腰には愛用の長いロングソードが下げていた。配下の兵士達も同様で、胸甲とモリオン兜それにスピア(手槍)やハルバードで武装している。
部下の伝令が階下から駆け上がってきたのはそんな時だった。伝令はすぐに戸口で姿勢を正す。
「ご報告致します。かねてより巡回中だった斥候が戻りました。隊長にこれを」
伝令はそう言って手にした灰色の鳩の骸をガイヤールへと手渡した。その鳩の胸は長い矢に貫かれていた。そして硬く硬直して動かなくなった鳩の脚には小さな革袋が結びつけてあった。ガイヤールの表情が一瞬で硬くなった。すぐに革袋の中を確かめる。
「残念ながらからでした」
「どこで見つけた?」
遮るようにガイヤールは詰問する。
「はっ、バルテルミ村の倉の焼け跡付近にて、近くの木の枝に止まっていたところを見つけ、射止めたとの事です」
それを聞き、ガイヤールは忌々しそうに伝書鳩の死骸を床に叩きつけた。
「中隊長を呼べ!」
部下の中隊長はすぐにやって来た。
「すぐに出発する。中隊を三つに分けて西、北、東の三方からバルテルミ村へと包囲網を張る。サンドフォート荘園へは伝令を飛ばせ。駐屯兵を集めて南からバルテルミ方向へ網を張れ。誰であろうと容赦なく捕えろ」
守備隊長は驚いたように床に転がる伝書鳩を見下ろしていた。
「伝書鳩を使う賊とは…… 確かに侮れませんな」
「隊長、あのクロコダイル鋼のハルバードもやはり……」
ガイヤールは不機嫌な面持ちで顎髭をなでる。
「ただの賊がなぜクロコダイル鋼の槍頭などを落としてゆく…… あの商人どもも何かを隠しているかもしれん。とにかく仕事にかかるぞ!」
ガイヤールはそう命じるとマントを翻して部屋を後にした。