アグレッサの徴税吏
雨は早朝からアグレッサの目抜き通りに敷かれた石畳を叩いていた。ウェルテ・スタックハーストの羽織る深緑色に染めた羊毛フェルトのクロークには雨水が染み込み、どんどん冷たく重くなっていった。モービル街道と呼ばれる街中心部の目抜き通りでも、今日は人や馬車の往来はまばらだった。ウェルテは止め処なく落ちてくる鼻水をよれよれのハンカチーフで何度も拭いながら、領主館の東にある徴税役場まで歩き出した。
広いモービル通りに面する徴税役場はゴシック造りの四階建ての建物で、多くの市民や近隣の農民が納税や負担に関する相談のために列を作っていた。特に農村部では生産物を貨幣に替える手段が少ないため、なんとか租税を物納で済まそうとする多くの農民が鶏や豚を連れてやってくる。その処理のため、役場の一階の受け付け場は毎日大混乱だった。
そんな納税者達の列をかきわけてウェルテは建物へと入り、奥の職員の詰める広間へとやってきた。オイルランプの灯る薄暗い広間に入り、びしょ濡れのクロークと白い羽毛飾りのついたフェルト製の黒いキャバリアー・ハットを帽仕掛けに掛け、ウェルテは寒さで身震いしながら空いている椅子に腰をおろした。不意に大きなくしゃみとともに、鼻水が飛び出す。周囲の者がギョッとした表情でこの小柄な若い男の方を見た。風邪引きはどこでも嫌われる。なぜなら、命にかかわる流感と区別がつかないからだ。
「だ、大丈夫だ。只の風邪……」
慌てて鼻水を拭って弁解するが、皆眉間に皺を寄せて首を振った。
鼻水をすすりながら、ウェルテは今日の集金の訪問先を記した羊皮紙をなめし革の物入れから取り出した。今日は、歩いて片道二時間半かかる荘園の粉挽き場まで税の取立てに行かねばならなかった。
「いよう、ウェルテ。さてはその鼻水、もしや流感か?」
「だから風邪だって……」
後ろから声を掛けてきたのは、同じ徴税吏見習いの同僚であるサリエリだった。太った丸顔にボサボサの頭、愛嬌のある細い目に笑みを湛えて、サリエリはウェルテの隣にドサリと座った。
「ただ、頭はガンガンだし、とても寒いんだ」
「今日はどこをまわるんだ?」
憂鬱な顔でウェルテは羊皮紙のリストを見せる。
「霞の森の方か…… お前はロバを持っていないしなぁ…… 実は俺も今日、森の方へ行かなきゃならないんだ。ついでに行って来てやろうか?」
「え、いいのか?」
ウェルテは驚いた。
「その代わり、治ったらぶどう酒を奢れよ。それにな、実は会いたい村娘がいるんだよ」
にやけて言うサリエリの言葉にウェルテは露骨に嫌な顔をした。
「やっぱり、そんなことだろうと思った……」
サリエリはお世辞にも美男という風貌ではなかったが、人懐こい無邪気な性格のため男女問わず人気があり、特に農村部の娘達によくモテた。それはサリエリから税を取り立てられる側である農民も例外ではなく、行く先々の村で彼は歓迎された。なぜなら、彼は農民達の為に時々仕事をサボることがあり、税にからむ問題では極力相手に無理が無いよう便宜をはかってやることが多かった。領主による重税に苦しむこの領内では、とても大切なことだった。
「とにかく、今日はゆっくり寝て早く風邪を治せ。ぶどう酒が楽しみにしとくぞ~」
そう言ってサリエリは羊皮紙を懐のポケットへしまうと、鼻歌を歌いながら、クロークと帽子を手に部屋を後にした。
今日の仕事が無くなったので、ウェルテは周囲の同僚達に声を掛け、クロークを羽織って外へと出た。
ウェルテは極力冷たい雨に当らないよう小走りで、モービル街道と呼ばれる大通りを南へ下る。アグレッサ城から南へしばらく歩くと左手に大きな鐘楼を持った教会が見えてくる。教会の左手には大きな石畳の広場があり週に二度、大市が立つ場所だ。ウェルテは広場を突っ切って東へと向かう路地へと入った。この辺は都市の一般市民が住む居住区が多い。路地は石畳で舗装されていない為、ぬかるみと水溜りだらけだった。ウェルテは水溜りをよけながらしばらく進み、三階建ての白壁の半レンガ、半木造の建物の前で足を止めた。屋根から伸びた煙突からはうっすらと煙が昇っている。ジョッキと羊をあしらった鉄製のレリーフがかかる木のドアを押すと、室内の暖かさと来客を知らせるベルの音がウェルテを迎えた。
「おやウェルテ、いらっしゃい」
バーカウンターの向うから大柄な茶色い髪の若い女、ロクサーヌがウェルテに挨拶した。相変わらずいつ見ても魅力的な女性だとウェルテは思った。はっきりした目鼻立ちや茶色のカールした長い髪、そして痩せすぎない豊満すぎない魅力的な体型は、多くの男達の人気を集めている。
「やぁ、おはよう。食事に来たんだ」
今朝のカウンターには先客が居た。色白で小柄なウェルテとは対照的に、大柄で日焼けした肌は荒々しさを感じさせ銀色の髪を短く刈り込んだ男、ウェルテの剣術修行時代からの旧友であり、この居酒屋兼宿屋の女主人が誰よりも愛する傭兵のガスコン・パンタグリュエルが、椅子の上で自分の足に包帯を巻いていた。
「なんだ、戻ってたんだ。久しぶりだな」
ウェルテがひどい鼻詰まりの声で尋ねたので、ガスコンとロクサーヌは顔を見合わせた。
「もしかして流感……」
「いや、ただの風邪だから……」
ウェルテはそう言って帽子とクロークをとり、帯剣ベルトから銀の柄のレイピアを抜いて壁に立てかけた。
「温かいものをくれる?」
「今、芋のスープを温めるから待ってて」
ロクサーヌはそう言ってカウンターの奥にある厨房へと下がった。
ウェルテはカウンターの椅子に腰掛けた。
「用心棒の仕事はどう? 今回も無事に済んだみたいだな」
冗談じゃないとガスコンは首を振った。
「確かに大きなケガはしなくて済んだが、二十人いた護衛のうち七人が死んで、四人が瀕死だ。こんな酷い仕事は初めてだぜ」
ガスコンは、今朝依頼主の蔵まで無事に密輸品を運び込んだ事、そして瀕死の重傷者達を床屋(大昔、床屋は医者を兼務していた)へ担ぎ込んだ事などをウェルテに話して聞かせた。
「だから、抜け荷の護衛はヤバイからよせって言ったんだ。それにしても、盗賊も怖いなぁ。大損害じゃないか」
ウェルテは鼻をすすりながら感心したように言った。
「のん気な事言いやがって。こっちは危うく死にかけたんだぞ。だけどな……」
「ん?」
ガスコンは木製のコップに注がれたエールを一飲みした。
「なんとなくなんだが、襲ってきた奴等、盗賊らしくねぇんだよ……」
「らしくないって、何が?」
「山賊どもの持ついい加減さつーか…… うまく言えねぇけど、武器にしても剣さばきにしても、妙に落ち着いていやがる。戦場で正規の騎士や兵隊とやり合った時みたいだ」
ウェルテはハンカチで鼻を拭いながら返す。
「でも今更、盗賊に身を落とす騎士や兵隊なんて珍しくないだろ」
ガスコンは左手の甲にできた裂傷にすり潰した薬草を当てながら首を振った。
「そうなんだけどよ…… やつらは皆、正規の剣術訓練を受けた野郎ばかりだったんだ。この傷だってやたら剣筋の素早い小僧にレイピアでやられた」
「レイピアか…… それは確かに珍しい」
レイピアは多くの一般市民が腰に差した護身用の細い剣だ。いざ実戦をという場では兵士の予備の武器として位置付けられ、攻撃用武器の主力として用いられることは少なかった。盗賊のようにはじめから戦いを想定するのであれば、歩兵用の両刃剣であるショートソードやブロードソード、もしくは船乗りや海兵が好んで使う片刃のカットラスといった、より丈夫な種類の剣を使うほうが自然だった。
厨房からロクサーヌがジャガイモを煮込んだスープと硬い黒パンを持ってきた。ウェルテは木のスプーンで、湯気の立つ白いどろどろのスープをすくい、口に含む。塩味ともっさりとした芋の甘味が口内に広がった。
「きっと僕らみたいな奴が山賊になったんだよ」
硬く乾燥した黒パンをちぎりながら、ウェルテはそう言って自分達の剣術修行時代を思い出していた。
ウェルテは、アグレッサの北東に位置する商業都市プラムベリーの出身だった。街で公証人を勤める父親のもとに生まれたウェルテは、平凡な中流都市市民として育ってきた。そんな彼が一つ年上の孤児であるガスコン・パンタグリュエルと出会ったのは十三才の時だった。
当時、プラムベリー領主は自分の子女や配下の騎士達の為に、高名な武芸者であり戦術研究家でもあったレスター・ヴァンペルトを武術の指導顧問として招聘した。極めて優秀な剣士であったが非常に変わり者でもあったヴァンペルトは、騎士達の訓練の合間をみては市内に繰り出し、街の子供達相手に捧切れでチャンバラごっこの相手をしてやったり、身を守るための剣術の手ほどきをしたりして過ごしていた。ウェルテもヴァンペルトに遊び相手になってもらった子供の一人だった。元々ウェルテは昔の騎士道物語に憧れ、古い英雄譚の読み物ばかりを読んでいたので、棒きれを手にヴァンペルトにくっついて歩き、あれこれ質問ばかりしていた。
ウェルテが十三才の時、ヴァンペルトはウェルテをプラムベリー城内にある広場へと連れて行った。そこには二人の同年代の少年がいた。一人はブロンドの髪を伸ばし、真っ白なカラーシャツに優美な半ズボンと高価なタイツを履いた、見るからに貴族然とした美少年で、急に現れたウェルテを値踏みするような目で見つめていた。もうひとりは銀色に近い短髪のたくましい少年で、荒く織った、ほころびだらけのチュニックを着ていた。どうみても城で剣術の稽古が受けられる身分には見えないその少年は、貴族でも農民でもなさそうなウェルテにどう接しようか悩んでいるような顔で見つめていた。これが、ウェルテとガスコンの初めての出会いだった。
「暇な時間に息子に剣術の稽古をつけてくれと、とある貴族に頼まれたんだがな。相手が子供一人だと、どうもやりにくくてかなわん。そういうわけで三人まとめてやることにした。各々に最も必要な稽古をつけてやる」
このことについて貴族の少年はなんだかんだと文句を言っていたが、ヴァンペルトは笑いながら自分のあご鬚をなでてその声を受け流している姿を、ウェルテは昨日の事のように思い出した。
「ヴァン先生は、今どうしているかなぁ……」
ウェルテはスープを飲み干すとつぶやいた。
「先生の事だ。どーせまた子供相手にチャンバラごっこでもしてんじゃねーかな。ひょっとしたら、北部の異端者達に稽古でもつけてるかもな」
ガスコンはカットラスを鞘から抜き、血で汚れた刀身をボロ布で磨きながら言った。北部では宗教を巡る紛争が激化し、宗教的異端者に対する恐ろしい弾圧が行われているという噂話がアグレッサにまで届いていた。
「あたしも信心深いほうじゃないけどさぁ、教会もえげつないことすると思うわ」
そう言ってロクサーヌがウェルテに温かい茶を渡した。
「おい! 気をつけねーと、もし祭司にでも聞かれたらヤバイぞ」
あわててガスコンがたしなめるが、ロクサーヌは関係ないとばかりに首をふった。
「何言ってんの。教会のお偉いさんがこんなところに来るわけないよ。それにしても最近の救済税、ちょっと上がりぎだとは思わない、ねぇウェルテ」
教会へ納める救済税はそれぞれの領主を通して宗教都市グライトの教主へと納められる。その領主の元で直接、税を取り立てるのはウェルテのような徴税吏だった。ウェルテも困惑顔でお茶をすする。
「こっちも困ってんだよ。今年は麦も不作で価格も倍増、それなのに教会に納める救済税も倍増。今年はちょっとまずいよ。役場も取り立てに手加減してるけど、領主に対して取立て額を誤魔化すのはもう無理みたいだ。下手するとこの冬は餓死者が出るかもしれない」
徴税役場も、今のまま重税が続けば大量餓死と疫病もしくは農民一揆が起こることは判っているので、あの手この手で領主へ納める額を誤魔化してきていたが、領主による締め付けは一層厳しくなり、役場の努力にも限界が訪れていた。
「そういえば、今回の抜け荷の依頼主は一体誰だったんだ? そいつも税金払いたくなかったんだね」
「ああ、もちろん知らされちゃいないが、荷主は間違いなくオストリッチ商会だ。盗み見た引渡し証文に、足のひょろ長い怪鳥の紋が描かれてた」
「オストリッチって…… 荷車ギルドの組合長じゃないか!」
アグレッサ領内で何か物の運搬を行う場合には、必ず領内の物流を支配しているアグレッサ荷車ギルドに加盟している運搬業者に依頼しなければならなかった。そのなかでも最大の資本とシェアを誇っているのがオストリッチ商会だった。オストリッチ商会はギルドの組合長を務める豪商で、アグレッサの経済を半ば支配しているとも言われていた。その街一番の豪商が脱税の為に密輸をしていたというのだ。
「くれぐれも俺から聞いたなんて言うなよ。俺の仕事も信用が第一なんだ」
「ハハハハ、心配いらないよ。僕みたいな下っ端に、あんな大物商人を告発するなんて無理だね」
心配するガスコンをウェルテは笑う。徴税役場で仕事をしているウェルテとしては、悪徳商人に対し本来なら怒りを感じるべきなのだが、この時代、欲深い商人達の間ではそんな事は当たり前なので、苦笑いすることしかできなかった。
「ガスコン、一層二人で山賊でもはじめようか?」
スープとパンを食べ終えたウェルテは、ふざけて言った。
「剣の腕はともかく、威圧感の無いお前の体格じゃ山賊は無理だろ。それに、見栄張ってまだそんな踵の高いブーツ履いてるのか?」
ガスコンは呆れながら、横からウェルテの底上げしたブーツの踵を軽く蹴った。カウンターの奥で皿を拭いていたロクサーヌが思わず吹き出す。ウェルテが睨むと、ロクサーヌは口元をおさえながら慌てて厨房へと逃げていった。
「ところで次の仕事は決まっているのか? いつまでここにいる?」
ガスコンは首を振った。
「契約は今回で終わり。また仕事見つけねーと…… 今回だって命懸けの仕事で、たった五十シルバの稼ぎだ」
ガスコンはそう言って皮袋からわずかばかりの銀貨を出して見せた。
「そうか…… じゃあ僕はそろそろ帰って休むよ。もし遠くへ旅立つなら、その前に一声かけてくれ」
ウェルテはそう言うと、腰のベルトに吊るした皮袋から銅貨を数枚出してカウンターに置いた。
「ロクサーヌ、ご馳走様」
「ああ、もう帰るのかい? お大事にね」
厨房からロクサーヌが手を振った。
ウェルテはクロークと帽子を身に着け、ロクサーヌの酒宿を出た。雨はまだ止む気配がない。ぬかるんだ泥道からモービル街道へと出ようとするとき、辻の右側から真紅のマントを羽織ったプレートメイル姿の騎士達に先導されて、黒塗りの高級四輪馬車が水を跳ね上げながら通り過ぎ、領主館の方へと走り去った。ウェルテは馬車が撒き散らした泥と水しぶきをクロークで防ぎながらその過ぎ去る馬車を見送った。
ウェルテは悪態をつきながらも、せっかく食事で温まった体が冷えてしまう前に寝床へつくため、自分の下宿へと足を急いだ。