徴税役場の暗闇
辺りは薄暗くなり家々の煙突からは夕食をつくるための煙が立ち上っている。下宿部屋の窓から道を見下ろすと、多くの市民が家へ帰る為にせわしなく行き交う。
「今日は長い一日だな……」
ウェルテはそうつぶやいて鎧戸を閉めた。今朝、マルケサル博士から貰った紙包みから豆を一摘み取り出して床に置くと、灰色の伝書鳩が待ってましたとばかりにそれをついばみはじめた。鳩が豆を平らげると、ウェルテは市場で買った竹の鳥籠に鳩を押しこみ。手早く身支度を整えてクロークを羽織った。
ふとウェルテは衣装箱の上に畳んだ青い布を手に取り、鼻を押し付けてみた。オレンジのような匂いはもう微かにしか残っていない。ウェルテは布を綺麗に畳み直して部屋を後にした。
「ウェルテさん、こんな時間からまだお仕事だなんて珍しいわね。やっぱり収穫祭が近いから?」
玄関先で大家のおばさんがウェルテに声をかけた。
「帳簿が溜まっちゃってて。そんなに帰りはそんなに遅くなりません」
「わかったわ、御夕飯はそこのテーブルに置いておくから戻ったら食べてちょうだい。ちゃんとカンテラは持った? 最近この辺も物騒だから気をつけてね」
「ええ、大丈夫です。じゃあ、行ってきます」
おばさんに挨拶し、ウェルテは薄暗い街路を進み徴税役場を目指した。
ウェルテは自分をつけてくる者があるか気を配りながら足早に砂利道を進む。予想したとおり青騎士の兵士が一人、一ブロック後ろからついてくるのが判った。今は気にしても仕方がないのでとりあえず無視することにした。
ウェルテが着いた時、もう役場の受付は真っ暗になり誰も残っていなかった。奥の大広間の仕事場では最後まで残っていた数人の職員が丁度帰り支度をはじめているところだった。
「おや、お前さっき帰ったんじゃなかった?」
先輩の一人がウェルテを見つけて声をかける。
「ちょっと忘れ物したみたいで、見つけたらすぐ帰りますよ。ランプは僕が消しますから……」
「そうか、火の扱いにだけは気をつけろよ。じゃあな」
そう言って同僚の男達は帰っていった。
大広間にはウェルテだけが残された。実のところ、再出勤してまでやらなければならない仕事などはなから無かった。ウェルテにはどうしても、誰にも邪魔されずに調べてみたい事があったのだ。役場の下男が施錠にくるまで、まだ一時間くらい余裕があるはずだった。
同僚が去ると、ウェルテは革でできた肩掛けの物入れから卓上のオイルランプとインク瓶と羽ペン、それに昼間ガトウッド村のマリーから預かったサリエリの羊皮紙を手早く取り出すと、火打石でランプに火を入れた。ウェルテは階段を静かに上がり、二階の記録簿の保管室へと向かう。
誰もいない保管室は真っ暗だった。この部屋にくるといつも湿気た独特のカビ臭さを感じる。この部屋にはこれまでの役場の貢租簿と納税記録それに各商人や村々、商店などの納税額を決める際に調査した監査記録が集められていた。
ウェルテは近くの書見台にランプと羊皮紙を置き、紙綴じの本や羊皮紙のスクラップがいくつも積まれた書棚を漁り始めた。目当ての帳簿は最近つくられたものなのですぐに見つかった。羊皮紙を紐で綴じたその冊子はある村の今年の貢租簿だった。
「スワインヴィルか……」
それは霞の森の南に位置する森に囲まれた村だった。そこは家畜の肥育と肉類の生産を営む村で、家畜の世話の為に森の中で自由に豚や羊に餌をやってよい許可を領主から貰っている。スワインヴィルはサリエリが当番になっていた村で、ウェルテはサリエリから美味いソーセージをご馳走になったという自慢話を聞かされた事もあった。
ウェルテは貢租簿のインクを睨みながら、今年の村の生産高見積もりを調べた。
『豚四十三頭 羊六十一頭 解体精肉 総生産見積もり四十八ゴルド九十シルバ』
今年のスワインヴィル村の生産見積もりは明らかにおかしかった。というのも、家畜の処理頭数に比べ現金換算後の見積もり額が低すぎたからだ。肉は高価なので、これだけの肉を売却すれば七十ゴルド近い収入があるはずだった。当然、帳簿の備考欄に注意書きが添えられている。
『幼齢個体多数のため個体あたりの評価額は低い。来年以降、生産高の著しい低下は避けられない模様』
村を調査した監査係が書いたコメントを読み、ウェルテははっと思いだした。今年の凶作で餌となる飼料の価格が高騰し、普通は来年以降まで肥育しなければいけない若い豚や羊までもが肉としてやむなく処理されるという状況が領内のあちらこちらから聞かれていた。継続的に畜産を生業としている村々にとって、若い家畜の処分は来年以降に出荷できる家畜の喪失を意味している。つまるところ来年以降の収入の保障を失う事だった。さらに不幸な事に、未成熟な家畜を肉として処理しても価値は低く売却単価は安い。多くの村が破産と飢えへの不安に襲われていた。
『代官命令により現金納税額を三割五分から二割五分に減額。差額の一割は役場へ牛、羊及び豚を生きたまま現物徴収のこと。(来年度、村へ無償返却予定)』
ウェルテは羊皮紙に目を走らせながら軽くうなずく。帳簿上きちんと税を納めさせたように装いつつも実質的に税額を五分割引いた事になる。それはアカバスによる苦肉の操作の跡だった。こうでもしなければ来年にも村は破産するだろう。
「あれ? どうして?」
ウェルテが驚いたのはその次のページだった。
『スワインヴィル 納付済み税額 十七ゴルド十一シルバ』
アカバスの心遣いがあったにも関わらず、なぜかスワインヴィル村は先月にすべて現金で役場に税を納めていた。他の方法で資金難克服の目処がたったのであろうか? この記録は非常に不可解なものだった。帳簿にはそれ以上の特記事項は見つからない。
ウェルテは首を傾げる。サリエリの羊皮紙の一枚目には村の名前と干し肉が四十樽とヴィアーズと記されている。
――ヴィアーズ…… 荷車業者を見てみるか……
ウェルテはオイルランプを片手に商人別の今年の資料を探し始めた。交易都市ともあり、物流運搬業者の文献は膨大な量だった。その中でも領内第二位の業者であるヴィアーズ荷車の資料や記録は今年の分だけでも書棚の一をまるまると埋めてしまう量だった。ウェルテは紙束や冊子を何枚もめくり、ようやくここ三カ月以内の取引と収益の目録を棚から引っ張り出した。書見台に広げた資料や冊子には細かな文字で摘要と勘定科目それに膨大な数字が並んでいた。ウェルテはちょっとした気おくれを感じ思わず目をこすったが、意を決してその取引記録を追いはじめた。
オイルランプのゆらめく炎に照らされた紙面を上から下まで、関係ありそうな言葉を探して追ってゆくが、スワインヴィル村に関わる取引記録はわずか二件しかなかった。その二件の摘要も薪の配達と村の粉屋がオートムギの運搬を依頼したものでしかなかった。
「自分で買ったのか?」
記録は、あくまで運搬請け負いとして報酬を受け取り利益を得た場合の記録であり、自分の為に村々で品物を売り買いした場合の取引は記されていない。確かに大きな物流業を営む商人の中には自分で仲買人をやって利益を得る者も多い。次にウェルテは事業別の貢租簿へと目を走らせた。
細かい字ばかり追っていたのでウェルテは軽い頭痛を感じ、眼頭を押さえた。ヴィアーズ荷車は確かに物流の仲買業としても事業を行っていたが、もっぱら毛織物や被服、高級ぶどう酒が主な取引品目で、結局そこにも干し肉やクルミ、乾燥イチジクなど食料品の取引記録を見つけることはできなかった。
「運搬でもなく仲買いでもないなら、いったいこの項目は何だ?」
ウェルテは羽ペンを書見台に置いて肩を回した。いささか疲労を感じてきた。
――ガスコンにも話してみようかな……
そう思った所でウェルテは思わずあっと口を開けた。
「そうか…… やつらのやることっていえば密輸、密売があったか……」
そんな裏稼業で得た利益を申告する馬鹿はいない。帳簿にないということは役場の監査係や関税を計算する関所当番の徴税吏の目をごまかしながら金儲けをしているに違いなかった。事実、数日前にガスコンは同じ荷車ギルドのオストリッチの密輸で護衛を請け負っていたのだ。この羊皮紙に書かれた物品の流れはヴィアーズ荷車にとって表沙汰にしたくない事に違いない。
「まさかヴィアーズがサリエリを……」
そこまで想像してみたが、ウェルテはまたも首を傾げた。干し肉、クルミ、乾燥イチジク、粉末のオートムギ、干し芋、ニシンの燻製…… サリエリの羊皮紙に書かれた物品は、その全てが食料品であり、魚以外のほとんどのものがアグレッサで獲れたものだった。どれもが保存食であり、お世辞にも高級な食べ物とは言えないものばかりである。それに、アグレッサの食べ物はまずいと評判だ。外の町へ持って行ったところでもっとマシな物はいくらでもあるから、こんな物を密輸したところで利益が出るとは考えにくかった。
「でも、なんであいつがこんな事を一人で調べてたんだ?」
相手はアグレッサ最大のギルドの主要メンバーだ。いざ申告漏れや脱税を摘発するつもりになったらベテランの徴税吏が集まって徹底的に帳簿のチェックと取引量の監視、それに関所を通過する荷車のチェックに取り組むはずだ。少なくとも、サリエリのような若手が単独で挑む相手ではない。
――特別な仕事って……
サリエリに一人でこのような事をさせていたのはどう考えても上司のアカバス博士以外に考えられなかった。ただ、アカバスはなぜサリエリにだけこんな密偵みたいな仕事を委ねたのか、ウェルテには理解できなかった。もし本気で大商人を叩くならば役場をあげてあたらないと証拠を押さえられない上に、決して思慮に篤いとは言えない領主の理解も得られないからだ。
――もしや先生には、別の思惑があったのか?
もし大商人の弱みを握れば当然、相応の金になる。特に徴税役場の腐敗はよその町からはよく聞かれる話だった。この交易都市の商人達のなかには当然、脛に傷を持つ者も多い。そして、この町の脱税犯に対する刑罰は非常に厳しい。なぜなら強欲な領主は自分の収入をちょろまかされることを何よりも嫌っていたからだ。アカバスが私利私欲の為に自分の才覚と徴税代官という地位を十二分に利用すれば間違いなくアグレッサ最大の強請り屋となって巨万の富を稼ぐだろう。
もしかしてアカバスが自分の利益の為にサリエリを遣い走りに使った挙句…… 慌ててウェルテは自分の邪な想像を否定した。
――まさかあの先生がね…… その高潔さがたたってグライトの教会本部から叩き出されたくらいなんだから。ハハハハ…… ハハ……
そうは自分に言い聞かせたものの、ウェルテの心は嫌な疑念に囚われたままだった。
オイルランプの燃料が少なくなってきた。今夜はそろそろ時間切れなので、ウェルテは急いで資料を棚に戻すと羊皮紙や羽ペンを物入れに放り込んでランプを消した。もうすぐ下男が役場の施錠に来るはずだ。ウェルテは階段を下りて大広間の仕事部屋へ戻ろうとしたところ、突然目の前にあらわれたアカバス博士に行く手を塞がれ思わず声を上げた。
「あ、先生! びっくりした……」
「スタックハーストか。驚かせるな。こんな時間に何やっとる?」
「ちょ、ちょっと忘れ物してしまって…… そ、それを取りに来ただけです」
ウェルテは咄嗟に嘘をついた。早く帰れと言ってアカバスは疲れた様子で自分の座席に腰をおろした。
ウェルテは一瞬、サリエリの羊皮紙の事をアカバスに報告しようかと思ったが、どうしても口が開かなかった。
「何をぼんやりしとる。もう外は真っ暗だぞ!」
アカバスはくたびれた様子であくびをしながら自分の机に積まれた書類の束を叩いた。ウェルテは急いで物入れからカンテラを取りだし、火打石で灯りをともす。
「そういえば……」
突然発せられたアカバスの声にウェルテぎょっとして振り向いた。
「は、はい……」
「外の角で青騎士どもが二人たむろしていた。よそへ失せろと追っ払ったが、一応注意した方がいい」
「ええ、知ってます。今日一日、ずっとつけられているようです」
「くそ…… あの野蛮人ども……」
アカバスは小声で呪いの言葉をつぶやくと首を振った。
「なら、なおさらだ。まだ人通りの多いうちに家へ帰れ。なるべく単独行動は避けるんだぞ。もし奴等が何がしかの狼藉を働くようなら、すぐに誰かが私のところまで知らせに来られるようにしておけ。いいな!」
「判っています。それでは……」
苛立ちを抑えて言うアカバスに挨拶し、ウェルテは役場を後にした。
外に出ると思った通り、青騎士の一人が路地に突っ立っている。いつでも剣を抜けるよう身構えながら、ウェルテは歩きはじめた。もし背後の木偶の棒が何か因縁をつけてきたら容赦なく斬るつもりだった。
大通りでさえ道行く人の数はだんだん少なくなってゆく。家々の窓はランプのオレンジ色に淡く光っている。ウェルテは真っ暗な通りをカンテラの明かりでかき分けるように下宿へと急いだ。
――先生は一体どこまで知っているんだろう
味方であり庇護者だと思っていたアカバスがかなり遠くへ行ってしまったように思われた。ウェルテは釈然としない、心中に黒いもやもやとしたものを抱えながら足を進めた。
――油断するなよウェルテ、先生だって所詮は人の子だ……
まるでウェルテのなかのもう一人の自分がそうささやいたような気がした。




