ドブネズミ
そこの『大気』はいつも濁っていて臭かった。どこの都市へ行ってもこの種の街は臭い。そして騒がしかった。アグレッサの北門から西へ向かう細い横町を入ると、この町一番の繁華街に出る。
市壁にへばりつくように建てられた木造のあばら家が列をなし、でこぼこに塗り固められた建物の土壁には酔い潰れた者や浮浪者が寄りかかって眠っている。道では酔っ払いやならず者が怒鳴り声をあげ、そのわきではあられもない格好の娼婦達が奇声をあげて笑っている。ある一団は剣を肩に担いだまま酒屋をから酒屋へと渡り歩き、別の一団は酔ってふらつきながら、コルセットにショールだけをつっかけた女達を連れて歩いてゆく。
生ゴミ、食い物、酒、体臭、その他の様々なおぞましい汚物…… その通りは一年中ありとあらゆる不快な臭気におおわれている。アグレッサでもっとも不快なこの一角に、人々は酒と賭博と女を求めてやってくる。
ガスコンは道の真ん中をゆっくりとした足取りで進みながら、道行く者達の顔を一瞥した。もうすぐ収穫祭ともあって繁華街はいつも以上に多くの人々で賑わっていた。こういう都市の場末にはおのずと情報や仕事が集まってくる。昨日の午後の騒ぎはここへも伝わっているはずだった。もし運が良ければ、昨日ガスコン達を襲ったチンピラどもの生き残りを見つけることもできるかもしれない。また、新しい仕事の情報も入手できるかもしれなかった。ウェルテとガスコンを巡るここ数日のトラブルは確かに大きな心配事には違いなかったが、いつまでもそればかりを気にしている訳にもいかなかった。
今ガスコンはロクサーヌの宿で寝起きしているが、彼女にきちんとした宿代を支払ってはいなかった。実際ここしばらくの平和状態のためにガスコンは貧窮していたが、なんとか金を工面して宿代を支払おうとしてもロクサーヌは頑としてそれを受け取らなかった。相思相愛の恋人同士なのにそんな事を気にしないでほしいというのがロクサーヌの言い分だったが、まるで居候のヒモのような状態が続く事にガスコンの方が耐えられなかった。とはいえ、仕事の質も数も限られているのが現実だ。反道徳的な物騒な仕事はいくつかあったが、とてもガスコンが引き受けられるようなものではなかった。
――この分じゃ、また荷馬車の護衛がいいとこか……
心中でため息をついたガスコンはふと前から歩いてくる一人の男を認めた。薄汚れたベレー帽をかぶり、左腕を三角巾で吊っているその男もガスコンに気が付いたようで、無事な右手を軽くあげた。
「おう、あんたか。この前は助かったな」
その男は、前回の密輸仕事でガスコンと同じ荷馬車に乗っていた荷車ギルドの御者だった。
「腕の様子はどうだ?」
「しばらく仕事はお預けだ。ちょうど祭もはじまるし、こんな時だからのんびりするさ。あんたのほうは?」
御者は包帯を巻いた二の腕をさすりながら聞いた。ガスコンは肩をすくめる。
「スカだ…… また護衛でもやろうかと思ったが、人を集めている様子もねぇな。いつもの仲介人も姿を見せねぇ」
御者はガスコンの言葉に納得するようにうなずいた。
「上の連中もこの前の襲撃には懲りたみたいだ。今回は半端者を用心棒に雇うのを辞めたそうだぜ。どこぞのもっと強い奴等を護衛につけるなんて話を聞いたぞ。もっとも、あんたくらいの腕っぷしだったら雇いそうなもんだが」
「なら紹介してくれよ」
ガスコンが冗談めかして言うと御者も笑った。
「実はおれも昨日からギルドの仲介屋を見てないんだ。きっと強い奴を見つけに別の街へ行っちまったんだろうさ」
「そうかい。そいつは残念だな……」
――もし会ったら昨日の礼をしてやろうと思ったんだが……
「そういえば……」
御者は思い出したように首を傾げた。
「昨日、御者仲間の何人かは東のポート・フォリオへ向かうって話してたな。次の仕事は西のアーロンじゃなくて東からの船荷を運んでくるんだろう」
アグレッサの西には霞の森とデルブレー山脈という、山賊や盗賊のはびこる難所だが、東の港ポート・フォリオへつづく方角にはわずかな丘陵と平原が広がっているだけで治安も悪くないといわれていた。それは、東からの密輸の時ほど襲撃に怯えなくていいという事を意味している。
「この前の盗賊には驚いたな。あんたがいなきゃこっちは全滅だったぞ。盗賊団っていうのはあんなに強いもんなのかね?」
「最近はマン・アット・アームズくずれも大勢食いっぱぐれてるからな。夜道の仕事にはこれまで以上に注意した方がいいぜ」
ガスコンは昨日会ったレイピアの女の顔を思い出した。
「ああ、そうしよう…… じゃあまたな」
御者と別れたガスコンは黙々と繁華街を歩きながら自分の言葉を反芻した。昨日遭遇したあの男装の女。あの女は果してマン・アット・アームズくずれの盗賊であろうか? ガスコンはすぐにその言葉を打ち消した。確かに盗賊行為を働いていたが、服装や剣、その物腰を見るに職業軍人とは思えない。そもそも女がなぜ男のかっこうまでして盗賊の真似事などしていたのか? その当の本人がなぜ二日後に荷主のオストリッチの屋敷から出てきたのか? 不可解なことばかりだった。ただ一つだけガスコンが直感したのは、あの女とその仲間達は、機会があれば必ずまたオストリッチの荷物を襲うだろうということだった。昨日、自分とウェルテを睨みつける女の顔を思い出すに、ガスコンはそう直感した。
そんな事を考えながら歩いてゆくと十字路に人だかりができていた。人ごみのなかから罵声がきこえてくる。それを野次馬達が無責任な笑いと野次で煽りたてる。どうやら喧嘩らしい。
「ぶっ殺すぞ!」
どうやらあまり素性の良くなさそうな数人の若者グループ同士が口論していた。ついに一人が肩に担いだレイピアを抜き、鞘を放り捨てた。それに反応し双方のグループ全員が刃物を手にした。
「やれるもんなら、やってみろ!」
「やっちまえ!」
「勝った方にぶどう酒をおごるぞ!」
下卑た野次馬どもはゲラゲラ笑いながらその『見世物』を盛り上げる。
とうとう双方どちらとものなく奇声をあげて相手へと斬りかかり、酔っ払い同士の見苦しい刃傷沙汰がはじまった。一人の足に相手のレイピアが突き刺さり地面ひっくり返り、もう一人は目を斬られて絶叫する。別の二人は刃を叩き合わせた途端に双方の剣が折れ、互いに柄で殴り合ったり蹴飛ばし合ったりしながら組み合って地面を転げまわる。野次馬どもは巻き添えを食わないように慌てて距離をとるが、皆大喜びだった。
――あーあ、まったく…… これじゃあ通れねぇだろ……
愚か者同士の乱闘が始まり十字路を塞がれてしまったので、ガスコンは別の路地へと回りこもうと思った。すると路地の反対方向からホイッスルの音が響き、長い警杖を持った警吏達がなだれこんできた。
「コラ! 待て! 全員ひっ捕えろ!」
それを目にした乱闘中の若者達は、地面に落ちた自分達の剣や帽子を拾おうともせずに尻尾を巻いて逃げ出す。当事者達だけでなく、野次馬連中も一斉に蜘蛛の子を散らすように十字路から逃げはじめる。
――やべぇ……
ガスコンはスローチハットを目深に下ろしながら細い路地へと走り出した。騒ぎのあった昨日の今日なので、警吏達と関わるのは御免だった。
曲がりくねった細い横丁の路地を走り抜けた出会いがしらで、ガスコンは真横からタックルを食らったような衝撃をうけて泥道につんのめった。見ると自分にぶつかった男は崩れかけた土壁の角でひっくりかえっていた。
「おい! 気をつけてくれ!」
ガスコンは地面から起き上がりながら怒鳴る。
「すまんすまん、こ、これをやるから許してくれ…… 後生だ、後生だ……」
男は地面に突っ伏したまま、ほとんど空になりかけたエール入りのコップを差し出す。男を見てガスコンは驚いた。
「なんだ、おっさんじゃねぇか……」
「あ、これはあの時のお兄さんか。これはすまんね……」
それは密輸の時に同じ馬車にいた、ブロードソードを持った酔っ払い用心棒だった。相変わらずへべれけの状態だったので、ガスコンは手を引っ張って立ちあがらせた。
「んん? もしやお兄さん、仕事中かね? それ? この前はレイピアを差していた」
男はクロークの後ろに見えたガスコンのカットラスを指差した。
「いや、これは、その…… ここいらは物騒だからな」
喧嘩騒ぎで折れたとも言えないのでガスコンははぐらかす。
「物騒か…… ハ、ハハハ…… 確かにな」
男はよろけながらゲラゲラ笑った。
「そういえば物騒と言えば、もう聞いたかな? 昨日…… ここより少し南の路地で大きな斬り合いがあったそうな…… 死人が六人出たでたそうだが、噂じゃ死人は全員、例の仲介屋から殺しの依頼を引き受けた奴ばかりだって話だ。ハハハ、あんな仕事に手を出さなくて正解だった……」
間違いなく昨日の刃傷沙汰の事だった。
「確かに、そりゃあ怖ぇーなぁ……」
ガスコンは苦笑いを浮かべながらあいの手を出す。
「そういえば…… ば、馬車で一緒だったよくしゃべる腕自慢の御仁を覚えてるか? あの人もそこでむごい有様で死んでたって…… 右手を切り落とされて腹をかっさばかれた揚句、喉をかき斬られていたという…… 恐ろしいことだ…… 実に恐ろしい……」
ガスコンは内心ヒヤリとしたが、相手は酔っ払いである。敢えて驚いたふりをせずに切り返す事にした。
「ハハハ! ざまぁねぇや。あいつに似合いの最期だと思うぜ」
男は一瞬目を丸くしたが、すぐにガスコンにつられて笑い出した。
「そうか似合いか、似合いか。さすがはお兄さん…… 肝が据わってる」
男はゲラゲラ笑いながらコップのエールを飲み干しそのまま後ろへよろける。慌ててガスコンが腕を取ると、男は笑いながら詫びた。
「下手人は…… 体格の……いい男と小柄な男の二人組らしい……ならず者が相手だったとはいえ、なかなかの腕の持ち主だ……」
「そうかもな……」
ガスコンは視線を逸らしながら言った。
とりあえず酔ってまっすぐ立っていられないその男を道路の壁際へと座らせた。
「そういえば…… オストリッチの新しい仕事の話は聞いたか?」
ガスコンは思わず顔を曇らせた。
「いいや、殺しの次は何をさせるつもりなんだ?」
「いやいや、危ない仕事じゃない…… 普通の荷馬車の護衛だが、今回は密輸じゃないそうだ…… 普通の交易品の護衛と聞いた。その分報酬も安いが距離の短い楽な仕事らしい…… 今回は小生もやってみようかと思ったが…… あいにく、まだ酒を飲む金が残っているからな」
そう言って男はゲラゲラと笑った。
「興味があるなら、南にあるあのギルドの倉庫まで行ってみるといい……」
「そうだな…… ありがとよ、おっさん」
ガスコンは酔っ払いの肩をやさしく叩くと立ち上がった。巡回中とおぼしき警吏が二人、垣根の向こうから姿を見せたところだった。