意趣返し
もう間もなく夕方になろうとする頃、街はもっとも忙しなく賑やかな時間を迎える。道には、まだ終わっていない仕事を済ませてしまおうとする人々が早足に行き交い、家々のおかみさんや女中が夕飯のために市へと繰り出していた。
この日、丸一日を市内でアカバスの小間使いをして過ごしたウェルテは早めに帰宅を許された。役場の前では、飾り物同然の安レイピアを腰に差したガスコンが籐籠を抱えて、ウェルテが出てくるのを待っていた。ガスコンによれば、臨時収入のあったロクサーヌが肉料理を振舞うので、その代わり二人で買い物のお遣いへ行ってこいとの事だった。無論、ウェルテに断る理由は無い。ここ数日、嫌な事ばかり続いていたので、美味しい食事と酒で憂さを晴らすのも悪くはないと思ったのだ。
広場の大市まで歩く間、ウェルテは昨日自分を襲った災難を友人へ話して聞かせた。ガスコンは、ウェルテの経験したあまりにも物騒な話に言葉を失う。傭兵である自分にとってはそんな危険は日常茶飯事だが、堅気の仕事をしているウェルテがそこまで危険な目に遭うことになるとは想像もしなかった。
「お前、よく無事に帰ってこれたな…… やっぱり俺も一緒に行くべきだったな」
「ああ、そうだね…… それにしても、黒服のチビといい、青騎士どもといい許せない。次に何かあったら絶対に叩き斬ってやる」
ウェルテは眉間に皺を寄せながら唸るような声で言った。ガスコンは腕を組みながらウェルテの話を反芻してみた。
「気持ちは判るが、少し冷静になれよ。お前の言うその黒服のチビだが、なんでお前を、よりにもよってオストリッチの手下なんかに間違えたんだろうな?」
「そんなの、僕の知った事か! こっちははじめから徴税吏だって言ってたんだから」
ガスコンはそこに引っかかっていた、どうもここしばらく自分の周り起こるきな臭い出来事には、どれも大商人オストリッチの名前がついてまわるような気がしてならなかった。それにウェルテが森で対峙したという黒服の男達の事も気になった。ガスコンは二日前にできた左手の甲の傷をさすった。なぜかこの傷とも無関係ではないような気がしたのだ。
そうこうするうち、二人は広場の大市へとやってきた。もっとも混雑する時間とあって、主婦や商人でごったがえしている。とりあえず、肉屋の出店で上等な牛肉と羊肉を、八百屋ではいくつもの野菜を買った後、二人は交易商が集まる一角へと向かった。普段は高くて買えない調理用スパイスを買う為だ。肉料理にスパイスを応用すると、料理の風味が数段豊かになる。スパイスは遠く西方の異教徒達の土地でしか採れないため、この大陸の東方ではとても貴重な物だった。
様々な香辛料が並べられた一軒の店で、ウェルテ達は肉料理に合うスパイスを調合してもらう事にした。ガスコンが銀貨を何枚も渡すと、商人は黒やベージュの丸薬のような干した実をいくつか秤にかけてから小さな小瓶に入れて寄越した。ガスコンはその小瓶を大切に懐へしまうと、二人はロクサーヌの待つ酒宿へと戻り始めた。
帰り道、広場の一部分には黒山の人だかりができていて、二人の進路をふさいでいる。
「すごいな…… 一体何の騒ぎだ?」
ウェルテは背伸びをして前方を見ようとし、ガスコンも首を左右に巡らせて前をのぞく。
「よく見ないが、大道芸人の一座が来ているようだ。このまま進むのは大変そうだぞ」
二人は広場を突っ切るのやめ、人を掻き分けて脇道を目指した。広場の端に近くなり、ようやく視界が開けてくると、そこにはいくつもの旅芸人の馬車が止まっているのが見えた。
「もうすぐ収穫祭か……」
それらは、収穫祭に合わせて見世物をやりにアグレッサへとやって来た旅芸人や移動劇団の馬車だった。彼らは毎年南からやってきてはアグレッサの収穫祭に合わせて見世物小屋や芝居小屋を建てて市民達を楽しませ、次に北方の街へと去ってゆく放浪の興行師達だ。芝居や見世物は数少ない娯楽の一つで、興行師のいるところには必ず市民が殺到した。
「芝居か…… 去年はサリエリと見に行ったよ。面白い芝居だった」
肉と野菜の入った籠を抱えながら、公演予告の横断幕を見たウェルテはつぶやいた。ウェルテはお決まりの騎士道物語、サリエリは風刺の利いた喜劇が好きだった。
去年見た芝居はこんなあらすじだった。グライトのある聖職者は、いつも大聖堂へと通ってくる美しい貴婦人に一目ぼれする。彼は我慢できずにその貴婦人へと恋文をしたためるものの、フォルス教の聖職者は表向き恋愛厳禁なので、結局手紙を送る事ができないまま間抜けにも手紙を聖堂の廊下に落としてしまう。不運にも手紙は恐ろしい異端審査官に拾われ、教会中が大騒ぎ。その事は最高権力者である教主様の耳にも入り、結局、戒律に背いた罪でその聖職者は宗教裁判にかけられることになった。そして聖職者を誘惑したかどで件の貴婦人も裁判の場へと連行されてくる。最初、教主様はカンカンになって聖職者に火刑を宣告するが、連れてこられたその貴婦人を見るやなぜか急に慌てはじめる。裁判は進み二人は火刑台にくくりつけられるが、狼狽した教主様は罪人の最期の懺悔を聞く段になって、うっかりその貴婦人へ親しい者しか知らないニックネームで呼び掛けてしまい、周囲は唖然となる。その貴婦人は教主様の愛人だったのだ。教主様の『大罪』が暴露され、一同大笑いのうちに舞台の幕が下りるという荒唐無稽なドタバタ喜劇だった。噂によればこの脚本を書いた舞台作家は「前衛的すぎる文書を作成した罪」で異端宣告を受け、着の身着のままグレープスへ亡命したといわれている。
「そうだロクサーヌも誘って今度芝居を見に行こう」
ウェルテのその思いつきにガスコンは苦笑いした。
「別にいいけどよぉ…… あいつの好きな芝居は全部コテコテの恋愛劇だぜ。あればっかりはどうもなぁ……」
確かに女性連中はどこでも、喜劇や勇ましい騎士道物語なんかよりも色恋沙汰のメロドラマが好きだ。
「そうだ、ナイジェルも巻き込んで三人で説得しよう。彼がいれば芝居代も出してくれるし、きっといい席で見られるよ」
ガスコンは熟れてないオレンジをかじったような顔で首を振った。
「冗談じゃねぇ。判ってないな。あの男はそこらの女以上にゴテゴテの恋愛劇が好きなんだぜ」
渋い顔をするのはウェルテの番だった。
二人は街の西側の路地から広場を迂回して帰路についた。細い路地は高級住宅地の裏側にあたり、静かで人の往来も無い。
「そういやあいつ、アドリアーノ・オストリッチの家に滞在するって言ってたぞ」
「そう? オストリッチの屋敷はもう少し先に行ったところだよ。そもそも、ナイジェルは一体何しに来たんだ?」
「さぁな、珍しい物が届いたとかでオストリッチにエスカルから呼び出されたと言ってたが…… 金持ち同士のやることだ。どうせ下らない物でも買わされるんだろうよ」
そう言いながらガスコンは無意識に歯をカチカチと鳴らした。
ちょうど二人がオストリッチ邸の裏通りに差し掛かった時だ。塀に空けられた小さな裏口の鉄扉が、キキッと音を立てて開いた。
「もしかしてナイジェルだったりして」
ウェルテが冗談を言った。
「まさかな。普通、客が裏口から出入りするようなことなんて……」
塀の内側から黒いブーツとクローク、帽子の小柄な男が出てきた。次の瞬間、ウェルテがガスコンを裏路地の陰へと押し込んだ。
「おいウェル……」
「静かに!」
ウェルテは自分も路地裏へ飛び込むと、頭からキャバリアー・ハットをとって用心深く通りを覗き込む。
出てきたのは小さな布包みを抱えた小柄な男が一人、裏通りを用心深く見回してから北通りの方角へと歩き出した。全身黒ずくめ、黒いキャバリアー・ハットには緑の孔雀の羽飾り、右目のモノクルが夕日を反射していた。ウェルテが見間違えるはずもなかった。今日はスカーフで口元を隠しておらず、色白の顔はウェルテが想像した以上に整っている。ウェルテと同じく、スローチハットを脱いでその男の様子を伺っていたガスコンは小声で囁く。
「知り合いか?」
「さっき話した、問題のクソガキだ……」
ウェルテは怨嗟に燃える目で男の背中を見つめていた。ガスコンもその小男を見て表情を険しくする。
「なぁウェルテ…… 信じらんないかもしれねーが、俺もあの小僧を知っているような気がする」
ウェルテが驚いた顔をした。
「顔や風体はともかく、俺は野郎の腰にある金のガード付きレイピアに憶えがあんだよ」
ガスコンは左手の包帯を撫でながら目配せした。
「とっ捕まえて話聞いた方が早そうだぜ」
「よし、あっちの十字路へ回り込むからそこで挟み撃ちだ」
ウェルテはそう言うと、ご馳走の詰まった籠を抱えながら裏通りを駆け出した。
先回りしたウェルテは十字路の陰でその仇を待ち受けた。砂利道を踏むブーツの音が近づいてくる。ウェルテは相手の姿を確認すると、進路を塞ぐよう素早く道へ飛び出した。
「また会ったなクソチビ!」
黒服は一瞬身を強張らせて、ウェルテの顔を見た。さすがに驚いたのだろうか? 目を丸くし、鎖で繋がれた右目のモノクルがすとんと眼窩から落っこちた。大切そうに青い布包みを抱えたまま、来た道を引き返そうとしたが……
「おおっーと、そこまで。ちょっと俺達とお話しようぜ」
背後からガスコンが退路を塞ぐ。
「さあて、まず何から訊こ……」
剣の抜かれる音がした。
「ウェルテ!」
黒服の反応は素早かった。布包みを地面に落すや身を翻しながら素早くレイピアを抜き、鋭い突きをウェルテへと繰り出した。危うくウェルテは後ろのめりに飛び退き、尻餅をついた。籠を抱えたままだったので玉ねぎやジャガイモが砂利道へと転がった。慌ててガスコンがレイピアを抜いて突くが、その小男は盾がわりにクロークをひるがえしてそれをはじく。
「問答無用か!」
ウェルテは完全に頭に血が上った。ウェルテは体勢を立て直すと勢いよくレイピアを抜いた。
ウェルテは師であるレスター・ヴァンペルトの教えとおり、決して最高級品とはいえなかったが、買える中で最良のレイピアを腰に下げていた。ウェルテの剣はレイピアにしては丈夫で切れ味も良くほとんどしならない剣で、比較的カット・アンド・スラスト・ソード(レイピアやスモールソードより刀身が幅広なので一般にブロードソードと呼ばれたりもする)に近い剣だった。
『いいかウェルテ。街の中で、規則に縛られながら身を守る事はとても大変な事だ。限られた物で戦わねばならん。だからレイピアは肉厚で丈夫な、決して剣先がぶれない物を選ぶんだ。そして、たとえ斬るものではなくとも、日頃から必ず根元まで刃をよく研いでおくことが大切だ。その刃の切れ味が、敵をより深く突き刺し、場合によっては相手を擦り斬る時にその力を発揮するぞ』
一方のガスコンは今日、持っている武器のなかでは最悪の物を手にしていた。元々、レイピアは一般人の護身具としか考えていないので、限りある予算のほとんどは良質のカットラスやソードブレイカーを買うために使い、飾りと割り切って買ったこのレイピアは竹光よりましという程度のなまくらな安物であった。
――ましな剣を持ってくるんだったぜ……
ガスコンは内心そう毒づきながら剣先を黒服の顔に向けて構えをとる。ウェルテも腰を落とし腕を軽く曲げてレイピアを突き出し、攻撃態勢に入る。
またも攻撃を始めたのは黒服の方だった。手首のスナップをきかせてウェルテの剣を浅く弾くと同時に半歩踏みこんで、剣先でウェルテの上半身を狙う。下段から上へレイピアを構えていたウェルテは難なく護拳でその刃をはらう。そのすきにガスコンが左横から襲うが敵もさるもの、クロークの陰から飛び出した左手のマンゴーシュでガスコンの剣を受ける。マンゴーシュにしては恐ろしく刃幅の狭い細い短剣だった。三者すぐに間合いを取りなおすために散開した。
「ウェルテ、用心しろ…… 強いぞ」
ガスコンは右腰のソードブレイカーを引き抜きながら言った。ウェルテも無言でうなずく。
「やはり謀ったか、金の亡者ども……」
昨日と同じく澄んだ細い声でうめきながら、黒服の小男が二人を交互に見据えた。右手の金に輝く複雑なリングガードのレイピアでウェルテを狙い、左手の細いマンゴーシュでガスコンを牽制する。
「亡者は貴様だ、この人殺しがぁ!」
怒り心頭のウェルテが大きな踏みこみ、深くレイピアを相手の喉めがけて突き込んだ。敵は両手の剣を前で交差させて、力一杯にウェルテの剣を自分の体からそらす。ウェルテは狙どおり、相手と間合いが縮まった時を見計らって右腰のマンゴーシュを抜きざまに切りつけた。黒服は背後へ身をそらして辛くもその斬激をかわすが、背中から漆喰とレンガの石壁にぶつかった。
身を引くウェルテと入れ替わるように左からガスコンが突っ込む。黒服の小男はまたもガスコンの剣先をマンゴーシュで封じる。残る片手のレイピアで上段からガスコンの頭を打とうするその刃を、ガスコンはマンゴーシュで受け止めた。二人は一瞬両手の剣同士で組み付いたような格好になったが、一瞬後ガスコンは強烈な蹴りを相手の膝へと見舞った。黒服はひるんでバランスを崩すが、すぐに壁を背にしたまま構えを正してウェルテ達を牽制した。
――盗賊にしとくにはもったいない腕だな
腕のいいガスコンとウェルテの二人を相手にここまで粘る黒服を前に、ガスコンはそう思った。だが、いつまでもこうはしていられない。ウェルテがフェイントのように、剣で軽く相手の護拳を狙って打つ。その一瞬をガスコンは見逃さなかった。
「ウェルテ!」
なまくらレイピアでそれをやるのは不安だったが、合図の声と共に左肩から大きく振りかぶった剣を一気に横へ振り切る。狙いすました打ち込みが黒服の左手にあるマンゴーシュの刀身へと叩きつけられた。本来武器にするよりも、くわやすきなどの農具をつくる素材に向いているリザード鋼でできたレイピアが敵の手からマンゴーシュを跳ね飛ばす。黒服は一瞬狼狽した表情を見せた。ウェルテは左半身を前にし、直線型クロスガードのマンゴーシュを突き出した。剣先で下から円を描くように相手のレイピアの刃を絡めて下方へ押しつける。その時には、右上半身の方へと引きつけた右腕のレイピアは敵の眉間を狙っていた。
「死ねぇぇぇぇ!」
サリエリの仇とばかりにウェルテは右腕で渾身の突きを見舞った。黒服はそれを避けられないと悟ったのか左腕で顔をかばい身を低くした。ウェルテの剣が黒服の腕をえぐり、そのまま額をかすめて頭の帽子を跳ね飛ばした。黒服のレイピアが砂地に落ちた。
「おい…… こいつ……」
刀身がくの字に折れ曲がってしまったレイピアを構えたままガスコンは絶句した。ウェルテに至っては口を開けたまま声も出ない。黒服の頭から脱げかけた帽子が落ちると共に、帽子の中にたくしこまれていた艶のある黒い髪がまるでマントのように広がった。
「お、女だ……」
血に染まった剣をその女の首に突き付けながらも、ウェルテはガスコンと顔を見合わせる。
その黒衣の女は、苦痛のあまり刺し貫かれた左腕を抱えてしばらくうずくまっていたが、悔しそうに口元を歪めてウェルテ達を睨んだ。剣のかすった額からはうっすらと血が滲んできたが、二人を見上げる黒い瞳には怒りと憎悪の火が灯っている。程好くとんがった顎、繊細な鼻筋、もし男装ではなく剣も持たずに街を歩いていたらどんな雰囲気なのだろう? ウェルテは先ほどの怒りもよそに、一瞬そんな余計なことまで考えた。が、急に自分が、昨日今日と同年代もしくは年下かもしれないこの若い女に剣で後れを取った事に思い至り、やり場のない苛立ちが沸き起こってきた。それに、この女はサリエリの仇かもしれないのだ。
「オストリッチ…… やはり汚い奴……」
女は絞り出すような声で唸った。苦痛のためか、それとも悔しさのためか、女はその双眸に涙が溜まるのを必死にこらえながら二人を見据えている。ウェルテとガスコンはしかめ面になって顔を見合わせる。
「だからこっちはただの徴税理だ! 昨日も言ったはずだぞ!」
「そもそも、抜け荷の馬車を襲う盗賊に汚ねぇもキレイもねーだろ…… もっともお前の身なりや剣筋は、とても盗賊のものとは思えねぇけどな」
「まだ言うか下衆ども……」
女は小声で毒づいた。
その時、ガスコンは何を思ったのか急に背後を振りかった。
「どうした?」
ウェルテの問いをガスコンは手で制する。するとウェルテの耳にも砂利を踏む多くの足音が聞こえてきた。それはこの十字路の三方から聞こえてくる。
――まさか、この女の仲間か?
敵はこの女一人でないことは昨日から判っている。ウェルテは緊張した面持ちで女の首筋にレイピアの剣先を突きつけ、周囲をうかがった。
細い街路の陰から剣呑な雰囲気の男達がゆっくりとした足取りで姿をあらわした。
「おい、抜け駆けしようとしている奴らがいるぞ」
先頭にいた、レイピアを腰にささずに鞘ごと肩にかついだ男が言った。こういう粋がった格好をした者は街の北にある繁華街でよく見かける。昨日森で見かけた者達とは明らかに素性の異なる、一目で三下やチンピラと判るなりの男たちだった。
――何だ、こいつらは?
ウェルテは警戒しながらもガスコンの顔を一瞥した。見ると、ガスコンは口を閉じたままもごもごと歯ぎしりして、一回だけしゃがんでいる女を見た。
――まさか、この女……
ガスコンは舌打ちして新手のチンピラ達へと視線を戻す。
「いよう兄ちゃん、こんな所で会うとはな」
聞き覚えのある不愉快なダミ声が、ガスコンの耳に届いた。ガスコンは自分の予感が当たっていそうな気がしてうんざりした。