2009年8月16日 診療録(経過情報)
カルテ(精神神経科)45頁目:経過情報
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記載日:2009年8月16日
◆主要症状・経過等:
[Subjective(主訴)]
8/10~11 各診察全般
頭痛・腹痛・不眠・動悸・食欲減退を訴える。
8/12~16 各診察全般
頭痛・腹痛・不眠・動悸・食欲減退及び自己臭を訴える。
<ドイツ語の走り書き>
今週は全般的に緊張状態から来るストレスが原因であろう複数の心身症を発症していたが、それ以上に問題なのが自己臭に関する訴えだった。
Krには薬臭の副作用を持つSNRIの一種も処方されてはいるものの実際にKrからその薬臭を感じた事はないのだが、Krは我々がそれに気づかないのも医療関係者であるからだと強く思い込んでいる点からして自己臭恐怖症ではと疑っている。
Kr当人としては、自分では良く判らないがそれはきっと長年入院生活をしているから麻痺してしまっているからだと訴えており、これは幻臭を感じている自臭症患者の典型的な言動だ。
詳細についてはこれから確認を開始する。
<走り書き終わり>
[Objective(所見)]
8/10~11 32回目のリハビリ実施(夏期講習)
8/12~13 33回目のリハビリ実施(夏期講習)
8/14 34回目のリハビリ実施(夏期講習)
<ドイツ語の走り書き>
夏期講習での登下校のフォローは段階的にその範疇を狭めていく形式で、10日間の日程を2日ずつの5段階に区分けし問題が発生しなければ徐々にKr単独での行動範囲を広げていく。
講習受講中は付き添い等は出来ないのでその代わりに教室内に監視カメラとマイクを設置し、Krの周囲の状態は講習が終了するまで一時も目を離さずに状況を確認し続けた。
RVSMが異常を検知しなくとも室内で何か問題が発生すれば、学校内の駐車場でHEMS及びRVSM受信装置搭載車両で待機する各メンバーが急行するし、Krの身が危険に晒される様な最悪の事態が発生すれば校内の別室に待機するあの大男が突入する事になる。
ただ問題は極力発生しない様に学校側に働きかけて、Krの参加するクラスには品行方正な生徒を集めているので確率としては低い筈だ。
しかし健常者達にはどうと言う事ではない事象もKrにとっては心理的な影響を受ける要素となり得るかも知れず、それが未だに推測出来ないのも事実でありあまり楽観視も出来ない。
今回のリハビリで重要な点のひとつである友人の三崎水面は4日目からKrと同じクラスとなる予定だ。
だがKrからの要望でKrよりも後ろ側の座席に座り、友人からはKrが見えるがKrからは振り向かなければ見えない座席とした。
後は休憩時間中にすれ違ったりする可能性もあるとは思うが、これまでずっと想い続けていたKrとは違い友人の方は10年振りのKrの姿を見て何か思い出す可能性は極めて低いと思える。
逆にKrには友人が同クラスとなる日も友人の座席も伝えてあるのでやろうと思えば自分から声を掛けて名乗るの事も可能だが、それを実行するだけの覚悟はまだ出来ておらず他力本願であわよくば向こうに気づいて欲しいと願っている段階だ。
まあアプローチの仕方に関しては復学後でも十分間に合うのだから、寧ろ夏期講習期間中は友人の様子を確認する目的であると捉えている。
この様な裏側ではかなり緊迫した体制で臨んだ夏期講習は、Krの緊張からくるVSの乱れこそあったもののそれ以外は何事もなく進んだ。
だが後半になると同室にいる友人を意識し始めたのか更に状態は悪化した。
<走り書き終わり>
[Assessment(分析)]
32回目のリハビリ状況分析
・学校付近まで車で送迎後に登下校し講習受講(1~2日目)
登下校時や教室内で強い緊張状態を示す。
特に周囲の物音や動きに敏感に反応していた。
行動自体には目立った異常はみられなかった。
33回目のリハビリ状況分析
・学校の最寄り駅と学校の中間まで送迎後に受講(3~4日目)
緊張状態は1~2日目よりも緩和。
だが休憩時間中に最も強い動揺を示しそれ以降は回復せず。
34回目のリハビリ状況分析
・学校の最寄り駅まで送迎後に講習受講(5日目)
前日からの強い動揺状態が登校中から発生し下校後まで終日続いた。
周囲の物音や動きには過敏な反応を示す。
<ドイツ語の走り書き>
1日目は初日と言うのもあって終日緊張状態が続き、まるで借りてきた猫の様な落ち着きのない様子だった。
だが周囲からは一切アプローチされる事もなかったので、特に問題視しなければならない事は起こらずに終了した。
この夏期講習は参加者も希望者のみである事から、通常の授業とは異なり講師がひたすら学習の要点を説明し続けるスタンスを取っている。
学習意欲のない生徒は参加していないからこの様なスタイルなのだろうがこれなら下手に声を掛けられる事もないのでKrにとって多少はやりやすい筈だ。
この調子で進んでくれれば良いと思ったのだが早くも2日目で早速変調の兆しが発生する。
休憩時間に周囲で雑談していた生徒達の動向を見たKrとその生徒達と目が合った。
その生徒達の会話は別にKrに関する内容ではなくKrの後ろの席の生徒を見ていたのだが、Krはそこでの会話を自分に対して何かを言われていると思い込み被害妄想の症状へと進行した。
3日目は前日の被害妄想の原因が自分の体臭なのではないかと疑い出してしまい更に緊張状態も悪化し、4日目からは友人と同じクラスでの講習だったがKrは一度も友人を見ようともせず、終日周囲からの視線や会話を怯える様に落ち着きのない様子で過ごしていた。
友人の方は何度となくKrの方を眺めていた様子でKrとして認識していた可能性は低いものの、気に掛かる存在として認識されているようでありこれは良い兆候と言える。
だが肝心のKrはその事すら気づく余裕もない程精神状態は悪化し、友人との接近はこの緊迫状態を打破するよりも逆に精神的なショックとなって一気に悪化してしまう可能性も出てきた。
とりあえず限界まではKrの意思を尊重して静観を続ける。
5日目は友人がKrを見ている頻度もかなり増加して明らかに強い興味を示していたのに対し、Krの容態は更に悪化しておりそれに対応するどころか教室内に存在している事すら厳しくなり始めた。
この状況で何か想定外の事象が発生すれば確実にKrの容態は危険域まで到達し致命的な状態に陥る確率も低くはないが、Kr自身の意向はあくまで夏期講習の参加を希望したのもあってもう少しだけ様子を見る事にする。
<走り書き終わり>
[Plan(計画)]
8/14AM 科内会議(議事録確認のみ)
特になし。
8/16PM チームミーティング
・自己臭についての検討
・PCD誘発治療案についての議論
<ドイツ語の走り書き>
今回のチームミーティングではKrの訴えている自己臭の対策について検討を行なった。
Krと直接関わるメンバーの意見もKrから何らかの体臭を感じた事はないとの回答であり、私は自己臭恐怖症として対処を行なうと発言したところ、大山から念の為にTMAU(トリメチルアミン尿症)とピロルリア(ピロール尿症)の検査実施をすべきではと反論があった。
それに対して古賀は即座にそこまでの検査は不要だと否定し、それよりも迅速にKrの状態回復の為の措置を行なうべきだろうと切り替えした。
ここは私の裁量で先行して対症療法的な応急措置を講じると共に、大山の慎重論を採用し臨床検査部にTMAUとピロルリアの精密検査依頼を行なう事とした。
これでミーティングを終えようとすると今度は川村からPCD誘発治療案についての対応について問われた。
主要メンバーには全科定例会での結果や状況等は問題ない範囲で伝えてあるので話題に出た事自体は驚かないが、古賀や大山ならいざ知らず正直Drでもない川村がそれを尋ねてくるとは想定しておらずかなり面食らった。
だがこれは丁度いい機会だと思い私の主観を伝える事にした。
私としては劇的な回復の可能性よりも品質管理の脆弱さから齎される副作用に因る問題発生のリスクの高さを危惧していると告げると、大山からはその意見に賛成の意思を表したのと同時に古賀は反論意見を語り出した。
古賀曰くリスクが明確に判明しているのであればそれをこちらで回避しつつ取り込めばその問題は対処可能であり、それを言うなら投薬見直し案ですら危険性はゼロではなかった筈だと切り替えしてきた。
この後は完全な安全性の保証こそが全てと言わんばかりの慎重論を展開する大山と、回避可能なリスクよりも数少ない貴重な可能性を重視する古賀の討論が続いた。
結局この真逆の思想を持つ2人の議論はまとまる筈もなく時間切れとなりミーティングは終了した。
各メンバーがそれぞれの持ち場へと戻る中最後まで残っていた川村から声を掛けられて、どんな治療計画であっても結局それを受けるのは患者なのだから私達の意見よりもKrがどうしたいかが一番大事だと思いますと言い残した。
患者の安全を第一とするか、患者の回復への可能性を第一とするか、患者の意思や希望を第一とするか。
彼らの意見は間違ってはいないが正しいとも言い切れないと思い、私も自論についてもう一度改めて検討すべきなのかも知れないとふと思った。
<走り書き終わり>
◆処方・手術・処置等:
抗不安剤の投薬を増加。
Ptの自己臭に対する対症療法の実施。
臨床検査部にTMAUとピロルリアの検査依頼。
<ドイツ語の走り書き>
まず選択肢の広がった抗不安剤の増量を行い不定愁訴とも言える各種症状の対処を行なう。
来週からKrが強く希望する自己臭の対策として、今まで全て無香料だった衣料用洗剤や入浴用洗剤を見直して微香性の物へと変更する。
更にKrには微香の香水を与えて精神的不安を軽減させる。
各種洗剤や香水の芳香成分は同じで、不定愁訴に効果のあるカモミールや精神安定の効果があるラベンダーを主成分とするものを使用させる。
勿論これは抜本的な解決ではないが早急にKrが望む対策として実施しつつ、これらと並行して面接療法に因る自己臭恐怖症の治療も行う。
すぐに適用出来る処置はこの夏期講習期間中に入手して即時適用開始し、検査や治療は早急に原因を明確にして二学期開始の9月までには対処済みまで持っていく予定。
この件で一番の問題はKrがこちらの対応まで持つかどうかなのだがこればかりは堪えて貰うしかなく、急変が起きない事を切に祈るのみだ。
<走り書き終わり>
◆備考:
特になし
<ドイツ語の走り書き>
独り言……
徐々に体調不良を悪化させていくKrは、その訴えと相反する唯一の希望に違いない夏期講習の参加を求め続けている。
そんな自らの首を絞め続けるKrの新治療として浮上したPCD誘発治療案は、各診療科間だけでなくこのチーム内でも意見が割れる難しい提案と言える。
その理由はこれまで行なわれて来た血迷った提案とは決定的に違い、提携相手が訳の判らない怪しげな研究機関ではなく聖アンナでも実績のある国内の製薬会社である点だ。
これが全くの事実無根のでっち上げであれば今までと同様にその証拠を暴き出し公表すれば済むのだが、恐らく門埜製薬は本当にTNF-γを発見していると思われる、だからこそこれほどにどう判断すべきかが難問となる。
今現在MNTSは不治の病であり、小康状態を保つ様に管理出来ているとは言ってもその均衡がいつ崩れるかは予測出来ない。
これまで散々Krに行なっているのは全て容態変化の早期発見と対症療法でしかないのだ。
それがもしかすると根本的に致命的な症状だった、FTの発生抑止と早期排除を実現出来るかも知れない。
これが実現すればKrの治療は今とは比較にならない程規模も負担も小さく出来、それはつまり治療に拘束される重病人と言う立場からの脱却であり、通院治療で十分となれば健常者と同等の生活すら叶うかも知れない可能性をも秘めている。
この可能性を我々を含めたDr達が、自己の利害ベースでどうすべきかを検討しているのが現状となる。
聖アンナ内でKrの治療に関わる医療従事者の中で本当に本心からKrの身を案じているのは、私が知る限りでは恐らく川村だけだろう。
これだけ大量の人間が関わっているのにたった一人しかいない、非情とも思えるかも知れないがこれが現実だ。
私も勿論川村とは違う思想を持つ大多数の中の一人であり、それ故に今回の提案の扱いについても自分の利益を第一に考えており、その答えがPCD誘発治療案は容認すべきではないとの判断だった。
理由は大きく2点あり、1つは計画に対する問題でそれが採用されるとこちらが施行した投薬見直しを前提とする計画が崩されると言う事で、もう1つは利権の問題でKrに対する治療の成果を他の診療科に上げさせるとこちらの絶対的優位な立場を崩される事への懸念だ。
私はKrを回復させたくてここにいるのではなく、ここでKrを使って実績を上げる為に業務として派遣されている立場だ、そういう意味では私はDrと言うよりはやはり研究者である事を再認識した。
だから私はPCD誘発治療案を棄却させるべく動く事を決めた。
より真実に近く問題となるであろう小さな事実を暴き出しそれを誇張して大きな問題として吹聴する、マスコミの常套手段を用いてこれまでと同様に廃案へと持ち込む。
時間の猶予もあまりない状況を考えるとこの手の仕事が適任なのはやはりあの女だろうか。
出来れば当分関わりたくはなかったのだが、今回は身内を使うのはリスクが高過ぎるから致し方ない。
私は覚悟を決めると霧嶋へと依頼のメールを送った。
<走り書き終わり>
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