2009年7月5日 診療録(経過情報)
カルテ(精神神経科)39頁目:経過情報
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記載日:2009年7月5日
◆主要症状・経過等:
[Subjective(主訴)]
6/29~7/5 各診察全般
Ptからの訴えは特になし。
<ドイツ語の走り書き>
先週の1週間の治療でKrは別人の様に回復しその目にも力が戻っているのを見て取れる。
その証明としてKrはリハビリを再開しても変わる事なくこなしていて、その間も何の訴えもしては来なかった。
今までで最も危険な賭けではあったがこれは私が出来うる最大限の処置の結果であり、これで当面の危機は脱したと確信している。
これからどれだけ持続出来るかに関しては残る要素はKrの力次第になるだろう。
<走り書き終わり>
[Objective(所見)]
6/29PM 20回目のリハビリ実施
7/1PM 21回目のリハビリ実施
7/3PM 22回目のリハビリ実施
<ドイツ語の走り書き>
当初のスケジュールでは今月中までに実施する予定だった課題を整理して、今週までに終える様にリスケを行なった。
元々当工程の課題には先週の店舗での品物購入の後にも飲食店や娯楽施設での演習も予定されていたが、色々と理由を捻り出してどうにかスケジュール調整を容認させた。
飲食店での対応についてはKrの食物アレルギーを考えると、一般の飲食店で食事するのは現実的に不可能であるとの理由により省略させた。
娯楽施設での演習については総合娯楽施設内でアレルギー物質の検出があった為に施設利用が出来ず中止が決定した。
これにより残る課題は先週中断したリハビリのリトライと今月に行なった課題の中で評価の低かったもののリトライだけとなった。
こうしてそれなりに暗躍した結果によりこれらの問題はクリア出来た。
これもこちらの交渉が功を奏したと言うよりは、外部協力機関の情報を提供した功績があったから許された恩赦であろう。
まあとにかく望んだ結果が出たのだからこれで良しとしよう。
<走り書き終わり>
[Assessment(分析)]
20回目のリハビリ状況分析
・空いている店舗内での店員と対話後に商品購入
(先週中断した課題を再度実施)
ほぼ問題なく対応出来ていた。
21回目のリハビリ状況分析
・混雑した店舗内での店員と対話後に商品購入
(先週未実施の課題を実施)
ほぼ問題なく対応出来ていた。
22回目のリハビリ状況分析
・街中の移動と移動中にPtを特定して対話要求
(14回目と17回目のリハビリ内容を再度実施)
やや不自然ではあったが対処出来た。
<ドイツ語の走り書き>
20回目のリハビリは先週中断した課題を再度実施したのだが、全く話にならなかった前回の状況とは一転してKrは淡々と対応し目的を完遂した。
その様子は若干虚ろな印象を受けたものの、ベンゾジアゼピン系の効果であろうかKr自身としては機嫌は良さそうだった。
21回目のリハビリは本来20回目のリハビリとして実施予定で中止された課題だった。
割合的に10代から20代で混雑した店舗内と言う悪条件を重ねたものであったが、ここもKrは多少戸惑ったりはしたが殆んど問題なくこなしていた。
22回目のリハビリは以前実施した課題の中で特に結果が芳しくなかったものについて、回復の度合いを確認する目的も含めて再度実施した。
やはり一度実施済みの行動を繰り返していると言う安心感もあって、前回の失敗を繰り返す事なくやや不自然な動作が出たりもしたが概ね対処が出来ていた。
これほど上手く出来たのは勿論投薬に因る効果が大きいだろうか、暴露療法で再認識した目標への括弧たる強い意志も大きく後押ししているだろう。
これでKrの回復を証明する実績を得る事が出来て、やっと我々の首も繋がったと実感して心の底から安堵した。
<走り書き終わり>
[Plan(計画)]
7/3AM 科内会議(議事録確認のみ)
特になし。
7/5PM チームミーティング
・RVSMの稼働状況定期報告
各センサーの調整メンテナンスの完了。
・リハビリ計画の状況報告と今後の方針検討
次工程へと移行を決定。
<ドイツ語の走り書き>
7/5のチームミーティングではリハビリ実施の結果報告を行なった。
今回の報告によりパニック発作を起こした同内容の課題を行なっても発作は起きず状況は改善されたと確認出来た。
それがKrの精神には決して良い状況ではないのは判っているがここでリハビリ計画を頓挫させない為には致し方ない選択であった。
何はともあれこれで5日程遅延してはいるがリハビリ計画の次工程へと移行する事が出来る。
これで最大の山場を乗り越えたのだと思いたいところだ……
<走り書き終わり>
◆処方・手術・処置等:
来週よりリハビリ計画の次工程へと移行。
症状軽減の為の投薬を継続。
<ドイツ語の走り書き>
7/7の久し振りの終日休暇の夜に六本木で帰国した霧嶋と再会した。
場所は霧嶋から指定のあった『天狐』と言う名の居酒屋だった。
予約の名を店員に伝えて奥の個室へと案内されると既にその個室の上座には霧嶋が胡坐をかいて座っており、丁度3杯目のグラスを飲み干していたところだった。
テーブルには枝豆・ししゃも・だし巻き玉子・砂肝・漬物・イカ・ほっけ等の品が並んでいる。
少しだけ紅潮した頬をした霧嶋の今夜の格好は無地のパーカーにジーンズと言う、そこらのファストファッションで買い集めた様な普段着然とした姿だった。
ウィッグなのか判らない軽く巻いている栗色のショートの髪にメイクも服装に合わせたらしくナチュラルな感じで、黒縁のメガネを掛けていた。
既に出来上がっているから今日は依頼達成の祝賀会的にまたも上機嫌なのかと思いきや、霧嶋の顔はかなり渋い顔をしていた。
そして私の姿を確認した途端に店員を呼ぶスイッチを押しまくって、すぐにやって来た若い男の店員に遅いと絡んだ後に幾つかの焼酎を次々と注文していた。
注文が終わって店員が逃げる様にすぐにいなくなると、霧嶋は私を睨みながらこちらに向かって激しく手招きをしていた。
どうやら今日は悪酔いしている相手をさせられそうだと辟易しつつ、霧嶋の対面に当たる場所へと座るとすぐに暴言が開始された。
こんな誰に聞こえるかも判らない場所で今回の仕事に関わる愚痴を喚き散らすつもりかと恐れを感じて、取引での暗黙の条件である守秘義務すら消し飛んでいるのかと焦り、力尽くでも口を封じようと私は立ち上がりかけた。
だが霧嶋はそこまで酩酊していない様で、一般的な職務の愚痴かの様に主語をすり替えて語っていた。
霧嶋はこの後、山口県の方に出張に行きそこで予定外のハプニングがあって大変な目に遭ったと話した。
現地のスタッフに話が伝わっていなくて揉めたりとか、取引先相手が事前調査とは違う事を言い出したりしてもう散々だったらしい。
一時は交渉がまとまらなくてしばらく帰れないかと思ったが、顧客の店舗でボヤ騒ぎが起きて先方がそれどころじゃなくなり、急に商談がまとまったのはラッキーだったと語った。
霧嶋は話しながらその間に注文したものが運ばれて来ても中座する事なく、追加された複数のグラスを半数ずつ自分と私の前に動かしていく。
こちらはメニューすら手にしていないのだがこれを飲めと言う意味だろうと理解して、差し出された焼酎らしきグラスを手にしつつ私は黙って話を聞いていた。
霧嶋の愚痴を元に実際の内容へと変換すると、色々と問題が発生して抑留されかけたがあの事件を仕掛けて逃れて来たと言う事だろうか。
私からボヤ騒ぎの犯人は捕まったのかと尋ねると霧嶋はその時だけニヤッと口元を歪めて笑っていた。
これであの事件はこの女が起こしたのだと確信した。
当人はすっかり酔っ払っているかの様に装いながら、その目だけはいつも通りの冷やかな視線を向けて私がこの愚痴の真意を読み取っているかを確認している様に見えた。
私がグラスの半分も空けないうちに霧嶋は話をしながらなのにもう2杯目のグラスに手をつけており、話が終わった後は最終報告を終えた認識なのかひたすら飲んで食べていた。
この後は他愛もない内容を延々と喋っていたがその会話の内容はまるで覚えていない。
普段からそれほどアルコールを摂取する様な生活はしていないので今日はかなり飲んでいる事になるが、別にそれが原因で泥酔してしまって内容を失念したのではなかった。
日本国外の出来事とは言え、死傷者の出ているあの事件を起こした犯罪者であると言う事実が私を酔わせずにいた。
今回の件は調査の最中に発生した事態で命じた訳でもなく手を下してもいないが、間接的に私も関与している事になるだろう。
霧嶋が危機的状況から逃れる為の強硬手段として行ったのであり、決して殺害目的であったとは思っていない、いやそう信じたい。
しかしそう信じようとすればするほど疑念が強まっていく。
若しかすると意図的に危険な状態に自らを陥れて、そしてそこからの離脱を理由としてその目的を果たしたのでは、更に言えば私からの依頼の方が実は目的の為の手段であったのではないか。
だとしたら私はとんでもない人間に犯罪の名目を与えている事になってしまう。
そんな不安と恐怖を私が感じている事すら見透かした様な冷たい眼で、そこらにいる憂さ晴らしで飲んでいる20代の女を装った霧嶋は、どうでも良い事をぼやきながらこちらを見つめていた。
尋ねるべきではない気もするがどうしても確認せずにはいられず、私は霧嶋へボヤ騒ぎはまた起こると思うかと尋ねると、霧嶋は首を傾げながら言葉を濁して明確な返答はなかった。
そろそろ閉店時間も近づいてこの酒宴もお開きとなり、霧嶋と共に帰りのタクシーを拾う為に店を出て最寄の駅へと向かった。
その道中に霧嶋はあちこちに視線を移しながら少しふらついて歩いていたのだが、本当に酔いが回って来たのか途中から私に抱きつく様にして歩き始めた。
それだけならまだ良いのだが何が可笑しいのかケラケラ笑いながら興奮していて、やたらと掴まっている肩や背中を叩いているのが気になっていた。
当人はとても愉快そうにしているのは単にはしゃいでいるだけなのか、それとも何か意味があるのか。
霧嶋の叩くリズムが会話とかみ合っていない事に気づき叩き始めてからの事を改めて思い出した時、その意味に気づいて私はすぐに足を止めた。
それと同時に霧嶋もすっと私から離れて立ち止まる。
その途端、地面からの鈍く響く振動と共に目の前に倒れている男が現われた。
正確に言えば私達の目の前にビルの上からスーツ姿の男が落ちて来たのだ。
その男は全身打撲は間違いなく手足だけでなく頭や胴体も歪んでいる点からして頭蓋骨骨折や内臓破裂も予想出来、まだ息はあったが絶命は時間の問題だろう。
しかし今の私にはそんな事はどうでも良く別の疑念に襲われていた。
霧嶋の叩いていたリズムはモールス信号で『コノサキキケンスグトマレ』となり、私が気づいた時にはもう“マ”まで達していた。
もし私がそれに気づかなければ落ちて来た男に直撃して死んでいただろう。
これは霧嶋が仕込んでいた罠だったのか、それとも偶然出くわした事故だったのか。
偶然だとしても私にしがみついて落下するタイミングを調整し、それを知らせるヒントをモール躯信号と言う形でしか伝えなかったのは何故か。
それに私に抱きついて歩いていたのは、私と落下してくる男が衝突する様に同期を取っていたとしか思えない。
これらの点を考えて霧嶋は私を始末しようとしたのではないかと思い、恐怖で身が竦むのを堪えながら霧嶋へと視線を向けると、この女は目の前で人が死んで行くのを見て悲鳴を上げて驚いていた。
まるで動揺して悲鳴を発する表情であってもその目だけはむしろ喜び笑っているかの様に私には見えて、それを見た私は恐怖によって体が硬直して動けなくなった。
目の前の潰れた男よりも、もう少しでぶつかって自分もこうなっていたかも知れなかった事よりも、霧嶋のその偽りの表情と真意或いは狂気が恐ろしかった。
次第に野次馬が集まり始めた現場から、霧嶋が私の手を引っ張って共に離れた。
そこからタクシー乗り場までは1分程度で、騒ぎになっていたおかげでタクシーにはすぐに乗る事が出来た。
私は霧嶋に促がされるままに、先にタクシーに乗せられてからドアを閉める直前に耳元で一言囁いた。
やっぱり汐月先生は私のパートナーに相応しい、と。
<走り書き終わり>
◆備考:
特になし
<ドイツ語の走り書き>
独り言……
今月は特別看護部としてKrの自宅療養が始まって以来の危機的状況が訪れた月となった。
Krはリハビリ実施時に倒れてしまいあわや計画頓挫しかけたり、赤聖会の企みを潰す為の切り札が音信普通になったり、その切札自体の狂気じみた奇行で殺されかけたり。
Krの状態改善が失敗してれば聖アンナから追放されて終わっていただろうし、赤聖会の計画防止が失敗してもフリードリヒ教授は私を切り捨てたに違いない。
こうして振り返ってみると今月は本当に綱渡りで命を繋ぎ止めたのだと強く実感する。
どちらかの問題でも解決出来なければカルテから名前が消されたのは私だった。
そう考えると人事異動と言う名の死刑宣告でカルテから消されていくDr達は他人事ではない。
本当に明日は我が身となりかねない、これからも慎重に事に当たっていかなければ……
これ以外の問題としては霧嶋だが、あの日で契約も完了しているので特に会話する名目もなく、あの日以降連絡はしていない。
あの時は恐怖で何も聞けなかったが、今なら飛び降りた男と霧嶋との関連について尋ねる事は出来なくもない。
だがその答えよりももっと重要な真意が最後の霧嶋の言葉で明確になっていると思えて、因果関係自体を確認する事は無意味で愚かな事だと感じている。
恐らくだが霧嶋は私への殺意まではなく、こうして私が混乱して戸惑い慌てさせたいのだ。
そして自分の思った通りにしか動かなければ安易なつまらないものと言うレッテルを貼るのだろう。
だから常にそれを上回る反応をする事で霧嶋の興味をそそる対象であるべきだ。
それが彼女の囁いたパートナーとしての資格なのだと察した。
あの冷たい眼差し、絶対に見覚えがあるのだが未だに明確に思い出せない。
これも調査しておくべきだろうか……
<走り書き終わり>
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