2009年4月19日 診療録(経過情報)
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カルテ(精神神経科)29頁目:経過情報
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記載日:2009年4月19日
◆主要症状・経過等:
[Subjective(主訴)]
4/16AM~ 朝食後の診療
軽い頭痛を感じる。
なかなか眠れない。
<ドイツ語の走り書き>
Krはあまり表には出さなかった退院達成の興奮状態が治まり始めていて、環境の大幅な変動に伴う精神的な反動が出始めて来ていると思える。
今はまだ継続している抗不安剤の効果で軽度の心身症として症状が現れて来ているが、投薬の減量や中止を行えば新たな精神的症状も顕在化するのは間違いない。
それよりも重要な話をKrは15日の朝の診療の時間に告白して来た。
それは退院前のスケジュール確認の際に会話にあった件で、Krの退院の目的に関するものだった。
多分父親の方からも話があると思うからと前置きした上でKrは、ここで始めて退院の目的だった高校への復学の希望を私へと語った。
この告白には思う事と言いたい事は死ぬほどあるが、今はKrの要望を全て聞き出す事にして無言で話を聞いていた。
Krはここからだと隣の市に当たる公立の夕凪高校と言う学校にどうしても入りたいらしく、編入の手続きは父親に頼んであるのだと言う。
その高校に入りたい理由は教えて貰えるかと尋ねるとKrは、そこに逢いたい人がいるからと小声で答えた後に立ち上がって、どんな事でもするからお願いしますと言って私へと頭を下げた。
Krのその態度はその願いを口にするのさえ恐れている様子で、他人に明言する事さえ憚られるかの様に見える。
私に告げるより前に父親にそれを伝えておいたのは、院長命令があれば私は逆らえない筈だと考えたからで、私へ先に話をして拒否されるのを避ける為の措置だろう。
既に父親に依頼を掛けているのならそこまでの心配は要らない筈なのだが、それでもKrは私からそれを拒否されるのを恐れているのだろうか。
それが意味するのはこの告白の内容こそがKrにとっての最も重要な事である証明だと感じた。
最大権力者の仁科院長を動かし私と取引をしたりしてこれだけの保険を掛けて周囲を動かしても、それが達成されるまでは完全には安心出来ず僅かな不安要素であっても大きく動揺してしまう程に。
バウムや箱庭でこれらの兆候は理解しているつもりだったが、私の予想以上にKrの中でのそれに依存する感情は強い様だ。
抗不安剤はまだ投与しているのにこの時既に私が所持している携帯用RVSMモニタからは警告アラームが鳴り始めていて、ここであまり不安を助長させてしまうとRVSMの計測データを見た聖アンナのDrが何らかの容態異常と判断しかねない。
とりあえずこの場は動揺を軽減させるべくKrへと声を掛けて、私は契約に則ってKrの希望を叶えると伝えた。
更にここは言葉を強調して、如何なる願いであっても出来ないとは答えないから全ての私に伝えてくれればそれを叶える為に最大限の努力をすると約束した。
現実的にはこれは嘘になるのだがこの状況ではKrの心情を強く肯定する言葉を与える事が重要だと判断して、敢えてこう伝えておいた。
これでKrの動揺も治まりVSは安定に転じてアラームも止まり、Krの状態も落ち着いた。
この後Krから逢いたい人の説明を聞いたのだが、その相手はKrが小学生の時に唯一通学していた三年の時の友人らしく名前は『三崎 水面』と言う名なのが判った。
この友人の情報については院長秘書室へ情報提供を依頼しておく事にしよう。
丁度良い警告アラームのテストになったとも言えるこのKrの話は、これからの治療計画の中で最も大きなウェイトを占める事になると確信する。
16日以降の検診ではそれまでなかった不眠と軽度の頭痛を訴えており、これは少しでも問題となる要素である体調不良を隠していたのだろうと推測した。
現状のKrのSはSHS(シックハウス症候群)かMCS(多種化学物質過敏状態)による化学物質過敏症と言った、このリフォーム直後の新居に関係する可能性も疑っている。
そちらに関しては問題があった場合の影響が大きいのもありすぐに対応を行った。
最悪の場合Krを新居から退去させる必要も出て来るが、結果が出るまでは十分な換気を行うのを専属RN達に徹底させて暫定対応する。
<走り書き終わり>
[Objective(所見)]
4/16PM VOC(揮発性有機化合物)濃度測定の実施
→室内空気を採取して臨床検査部へと測定を依頼
施工業者への施工内容詳細確認
→施工計画・施工状況確認を院長秘書室に要請
<ドイツ語の走り書き>
診断終了後にKrの居住区の戸内全ての箇所の空気を採取して臨床検査部にVOC濃度測定を依頼した。
それと同時にKr宅の施工業者に対しては、超短期の工期施工を想定した施工計画の内容確認及び施工進捗状況の報告書の確認を行う様に院長秘書室へと要請した。
この後新設した近隣の医院についても念の為に同様の措置を行なう様にと医院へも連絡を入れておいた。
Kr宅の検査結果と施工状況確認は共に翌日には回答があるだろう。
<走り書き終わり>
[Assessment(分析)]
4/16PM 臨床検査部よりVOC測定結果報告
→VOCの濃度は問題なし
4/17PM 院長秘書室より施工状況確認結果報告
→施工内容に問題なし
<ドイツ語の走り書き>
16日の深夜に臨床検査部からVOC測定の確認結果を知らせるメールが届いた。
そのメールによるとVOC濃度は濃度指針値よりも低く、更に厳しい基準を設けている特別病棟病室基準値と変わらない値だった。
17日のKr通院治療中に聖アンナで西園寺からPt宅の施工に関する資料を受け取った。
既に内容は院長秘書室の方で施工には問題なかったのを確認済みだと付け加えてから西園寺は私へと差し出した。
一応中を改めるとその内容には不備はなかったのが判った。
新設の医院の方については聖アンナ側が管轄なのもあり、院長秘書室側で確認が取れれば追って結果報告すると言っていた。
これでKrのSは単なる環境変化による心身症と断定出来て、ひとつ問題が片付いた。
<走り書き終わり>
[Plan(計画)]
4/17AM 科内会議(議事録確認のみ)
・野津の副部長代理就任
4/18PM チームミーティング
・RVSMの稼働状況報告
・PtのSに関する検証報告
・抗不安剤投与中止の提案
<ドイツ語の走り書き>
17日のPMに、同日AMに行われた神経精神科の科内会議の議事録が送られて来た。
副部長選挙の結果は無事に野津が当選する事が出来たので今回野津が副部長代理としても初の会議となる。
まあKrの治療については神経精神科の指示を仰ぐ事もないのでほとんど意味はないとも言えるが、一応Krの治療計画は神経精神科が了承しての適用となるので、今までは日々の診療結果を電子カルテに登録してそれを確認しながらの会議だった。
勿論ここには私の走り書きや独り言は載せはしない、そんな事をしたら色々と大変な事になっていただろう。
これからの科内会議ではこちらで作成した電子カルテを形式的に確認して治療方針の承認を行うだけの儀式を行っていく事になる。
なので実質的にはほとんど無意味なのだが有事の際の責任転嫁の保険の意味合いと、野放しにするとまた訳の判らないDrが幅を利かせても危険なので野津経由で目を光らせておきたいのが大きい。
何しろ今の私の立場では唯一のまとまった人手が動員出来る組織なので。
この日の科内会議の内容で私に関連するものは野津の人事に関するものだけだったので2分も掛からず読み終えた。
18日のPMにKr退院後記念すべき第1回目のチームミーティングが行われた。
参加者は私と古賀・大山・川村とこの時間帯に該当している専属RNと車両やHEMSの担当者だ。
RVSMからは順調にデータ計測及び送信が行われており、実生活時に多少の不安があったKrの臀部皮下に埋め込まれた平面コイルでの非接触式充電も概ね良好だった。
次に今週後半からKrが訴え始めているSについてで、DrからはRVSMの計測値からの判断を確認し専属RNからはKrの様子についての報告を行わせた。
どちらの報告からも私が想定していない報告はなく、Drの二人の見解はSHSやMCSの可能性もなくなった今は退院後の現実感から来る心身症ではないかと報告していた。
最後に私から現在投与を続けている抗不安剤の投薬停止を提案した。
これは退院後のKrの精神分析を出来るだけ向精神薬の影響していない常態で行いたいと言う理由があったのだが、古賀と大山はRVSMの計測値を考えると賛成はしかねると反論した。
現状でも各種計測データは警告値ギリギリを推移していて、この状態で投薬を止めると間違いなく心身症も悪化し計測値は乱れるのが明白であるからだ。
しかし私はKrからの告白の件をふまえて、二人の意見を聞いた上で心身症の悪化も覚悟の上で投薬の停止を決定した。
この決断に別の事情がある事を悟ってそれ以上は両者とも反論はしてこなかったが、特に古賀の表情にこれでまた仕事が増える事への落胆が僅かに見て取れた。
大山は顔には出していなかったが古賀と同意見だったに違いなく、二人には申し訳ないけれどもここはどうしても投薬を止める必要があり、私のわがままに付き合って貰う。
<走り書き終わり>
◆処方・手術・処置等:
4/20より抗不安剤の投与中止。
<ドイツ語の走り書き>
18日の夜に院長秘書室の西園寺から連絡があり、仁科院長から特定患者管理部部長としての指示が下った。
内容はKrが事前に話をしていた高校復学の件で、今年の9月復学を目標としたリハビリ計画案の作成指示で期限は23日までと告げられた。
今月の全科定例会に捻じ込むつもりなのは明白で、Krから話を聞いていなければこんな強行日程は言葉も出なかっただろう。
とりあえずは古賀と大山も巻き込まないととてもではないが間に合いそうもない、それでもかなりきつそうだ。
期限を考えると5月から実行出来るプランを立てろと言う意味なのだろう、それで逆算するとリハビリに充てられる期間は僅か三ヶ月しかない。
そんな短い期間でKrの6年に及ぶ一般社会とのブランクを完治させるのは残念ながら不可能だろう。
私の治療における自論から逸脱してしまうが、ここはシャーリーンの力も使って積極的な投薬治療の選択も検討しなければなるまい。
そうなるとそれ以降はKrの素の精神分析は難しくなってしまう、こうなるであろうと予測して現段階で一旦抗不安剤の投与停止を強行したのはやはり正解だった。
それにしても特定患者管理部が院長直属の部門なので上司命令がそのまま院長命令になるのは仕方がないとして、それを命じたり結果報告を上げる先が院長秘書室宛なのがどうも納得が行かない。
いちいち西園寺からまるで自分が上司かの様に指示が来たり西園寺に報告した提出書類のミスを指摘されるのは、只でさえ中間管理職の立場でストレスが溜まると言うのにそれがあの秘書女相手ではストレス倍増だ。
だからこんな仕事は嫌いだ、早くミュンヘンの研究所で自分の論文の研究でもしていたいが今はこんな現実逃避をしている暇もない。
とにかく現実を直視して目の前にある課題を片付けるべく動くしかない。
<走り書き終わり>
◆備考:
Ptの新住居の間取り(11SLDK)
玄関 :2帖
リビング :洋室14帖
ダイニング :洋室8帖
キッチン :洋室6帖
納戸 :WCL(ウォークインクローゼット)7帖
Pt用個室 :洋室8帖(クローゼット有)
Pt用寝室 :洋室6帖(クローゼット有)
Pt用浴室 :6帖
Pt専用トイレ :1ヶ所
Pt用洗面所 :1ヶ所
ゲストルーム1 :洋室6帖(シングル、クローゼット有)
ゲストルーム2 :洋室8帖(ツイン、クローゼット有)
ゲスト用浴室 :4.5帖
ゲスト用トイレ :1ヶ所
ゲスト用洗面所 :1ヶ所
診療室 :8帖
治療室 :10帖
備品倉庫 :SR(サービスルーム)8帖
スタッフ用出入口:1ヶ所
スタッフルーム :12帖
スタッフ用仮眠室:洋室6帖(ツイン)
スタッフ用浴室 :UB(ユニットバス)
スタッフ用トイレ:2ヶ所
スタッフ用洗面所:1ヶ所
TR用居室 :洋室6帖(クローゼット有)+K(キッチン)+専用UB付
SR用居室 :洋室6帖(クローゼット有)+K(キッチン)+専用UB付
警護員用居室 :洋室6帖(クローゼット有)+K(キッチン)+専用UB付
その他
送迎車 :MASERATI Quattroporte Sport GT S (Blu Mediterraneo)
※特別防弾仕様(EN-B4拳銃弾防御レベル)
<ドイツ語の走り書き>
独り言……
Krの新居は元は5SLDKが3戸入っていたのを改装して1戸11SLDKへとリフォームした広大な家だ。
だが実際のKrの生活スペースは2SLDKだけでゲスト用の部屋を加えても4SLDKであり、他は医療関係の部屋や常駐管理チームスタッフの居室になっている。
TRやSR専用の居室もありそれらは一般の1K+UBの単身者向けマンションと同等の広さが確保されている。
これらのKrの居住区以外の部屋は区画として防火扉の様な味気ないドアで切り離されていて、そこが閉まっていればひと通り見ても普通の介護設備付の物件に見える。
このマンションはオートロックのエントランスがあり、Krの住む16階へはIDカードがないと室内からの許可なく上がれない仕組みだ。
非常階段も警報作動時しか階下から開錠される事はないので、どうやっても上がり様がない構造になっている。
たとえ強行突破したとしても、明示的なものやカモフラージュされたカメラが合計10台以上仕込まれていてその画像は常時監視されている。
更にはドアから浸入出来たとしても、最初に通る部屋がKrの警護役の部屋になっていて素通りするのは不可能だ。
この強固なセキュリティは良いのだが、この警護役の人間も同居すると言うのをここへ来てから知らされた。
何でも仁科家には全員についている専属の身辺警護だそうで、Krが小さい時から同じ担当者が担当しているらしい。
それが表向きにはKrの運転手役である、『榊 彰』と言う男だった。
奇しくも私と同じ読みの名をしたこの男は、2m近い身長と格闘技の選手かと思うような筋肉質な体をした大男であり、そして恐ろしく無愛想だ。
マンション室内ですれ違っても私の管理外にいる人間とは言え、体格的に弱者だとこちらを見下した様な我々チームスタッフを相手にしていない表情で一瞥するのみだ。
相手にしていないどころかその目つきはこちらまで標的と見做しているかの様な隙のない態度を取っている。
しかしKrにとっては長年仕えている相手だからなのか比較的気のおける存在らしく、頻度は極めて少ないが時々耳にする会話は極めて自然に行われていて、その対話ではなんとKrの方が一方的に喋り榊は相槌や返事を返すだけに聞こえた。
Krにとって有益な存在であればそれは私にとっても使える駒なのだが、こればかりはどうあっても無理だ。
私には榊と言う男が普段何を考えているのかが判らない。
私は職業柄個人と接してある程度の会話や行動を見ればその相手の思考パターンはある程度読めるのだが、榊の場合Krを警護する仕事に付帯する思考や行動は判ってもそれ以上の事がまるで判らない。
この様なタイプで思い当たるのはサイコパス(精神病質者)やソシオパス(社会病質者)だ。
私はミュンヘン時代にこれらの被験者と関わり実際に対峙した事があるのだが、彼等の思考は健常者の思考を読むのと同じやり方では全く当たらなかった事を榊を見て思い出した。
それ以外に聞いた話では特殊な訓練を受けた軍人の中にもその様な性質を持つ人間がいるらしいが、こちらは実際に見た事もないので多分映画の世界だけの話だろうと思っている。
だからこの警護の男は私にとってあらゆる意味で非常に扱い辛い存在だ、これに比べればシャーリーンの駄々っ子なんて可愛いものだと思える。
こんなのと同居同然の暮らしをして行かなければならないかと思うと気が重い。
それだからこそあの男の正体はかなり気になる、余力があれば榊についても調べてみたいところだ。
榊が運転手をするKr専用の送迎車は仁科家の資産で、院長の趣味なのかベース車両だけで1600万を越える高級外車を防弾仕様に改造した車両だ。
仁科家は家族一人ずつに警護役とこの様な車両を用意している、その理由は昔に院長宛に殺害予告や脅迫があってから自衛する様になったらしい。
私も実車を確認したがどんなすごい車かと思えば傍目には青色の大型セダンで、多少車に詳しい人間が見ればマセラティだと気づく程度で防弾車と言うのは全く判らない。
この車両1台で私の愛車は何台買えるのかと思わず考えてしまう。
この家で警護の榊が運転手役なのと同様に私にも演ずるべき配役が与えられていて、私はこの家の住み込み家政婦役だそうだ。
食事は全てNST管理のデリバリーサービスで届けられ、洗濯や掃除は生険対象物採取の都合上専属RNが担当するので本当の家事仕事はなく、言わば私は管理者の立場だ。
これはKrが自分の境遇を出来るだけ普通にしたいと言う要望から設定されたらしく、身近に置かなければ行けない最低限の人間だけで構成した様だ。
家政婦役なら私よりも川村の方が適任ではないかとも思ったが、あれは演技や嘘を吐くのが下手そうなのとやはり非常時の決断力を考えるとトップの私にせざるを得ないのだろう。
まさか家政婦にされるなんて思いもしなかったが、これもある種の経験にはなるかと理解しておく事にする。
<走り書き終わり>
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