2008年10月11日 診療録(経過情報)
変更履歴
2011/07/03 記述修正 医師 → Dr(医師)
2011/07/05 記述修正 Dr(医師) → Dr
2011/07/11 小題変更 10月6日 → 10月11日
2011/07/11 記述修正 記載日:2008年10月6日 → 記載日:2008年10月11日
2011/07/11 記述修正 赴任初日 → 10/6の赴任初日
2011/07/29 記述修正 医師 → Dr
2011/08/11 S(主訴) → S
2011/08/12 Pt(患者) → Pt
2011/08/17 記述修正 特になし → 特になし。
2011/11/15 罫線はみ出し修正
カルテ(精神神経科)2頁目:経過情報
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記載日:2008年10月11日
◆主要症状・経過等:
[Subjective(主訴)]
軽い、頭痛、胸痛、腹痛、がある。
強くはない鈍い痛みで、それほどは気にならない程度。
動悸、眩暈、立ち眩みをたまに感じる。
一週間に一日か二日、なかなか眠れない日がある。
たまに体がだるく感じる。
<ドイツ語の走り書き>
問診では大した症状は訴えては来ていない。
恐らく今は当たり障りのない事だけを語っているのだろう、現状ではこれ以上は話してくれそうにない。
Krの本心を聞けるようになるには、もうしばらく時間がかかりそうだ。
今回の問診でのKrの態度は、ミュンヘンで接した時と比べて硬化している様に感じた。
両者の違いを考えてみると、向こうでは白衣を着用せずに接していた。
KrはDr(医師)に対しての反感を、無意識に白衣姿の人間へと向けているのかも知れない。
これは次回の問診時に確認してみたいと思う。
訴えては来ていないがそれすら億劫かの様な、倦怠感から来る無気力もある様に感じる。
これについてはまず処方薬の内容を確認する予定。
<走り書き終わり>
[Objective(所見)]
Ptからの訴えはないが、問診時の状況から、DSM-Ⅳ-TRに因る診断を実施。
器質的疾患に因る発症の可能性の確認。
中枢神経系の疾患確認及び海馬領域での神経損傷確認について、脳神経内科、脳神経外科へ確認依頼。
内分泌系(副腎疾患、甲状腺疾患、副甲状腺疾患)の疾患確認について、代謝・内分泌内科へ確認依頼。
炎症性自己免疫疾患の疾患確認について、リウマチ・膠原病・アレルギー内科へ確認依頼。
既存疾患の治療に因る症状発生の可能性の確認。
PtのS(主訴)について各診療科に対し直近の治療結果で該当する症状発生の可能性を確認依頼。
<ドイツ語の走り書き>
各科への器質的疾患の検査依頼は恐らく全て空振りに終わるだろうが、保険はかけておいても損はない。
これで異常なしの結果を得ておけば、私の失態がそちら側の診断ミスで片付けられる可能性もある。
既存疾患の可能性については、恐らくどこもこの治療だと断言する回答はないだろう、部位も特定していない症状では回答出来ないはずだ。
しかし明確な否定をして来ないと言うのは、逆に言えば起こるかも知れない可能性があるが、詳細は未確認だとも解釈出来る。
<走り書き終わり>
[Assessment(分析)]
DSM-Ⅳ-TRの診断結果は正常の範囲内であるが、同内容の問いに対する回答結果に一貫性がなく意図的な回答の選択が見られ、Pt自身が診察に対し非協力的。
Sにあった多くの症状は心身症や自律神経失調症に酷似。
各診療科への確認結果を踏まえて判断する必要あり。
<ドイツ語の走り書き>
恐らくだが、MNTS(多発性壊死性腫瘍症候群)の長期治療の精神的苦痛から来るストレスを抱えているのに、それを言えない状況にあるのではないか。
ミュンヘンで何度か見た時からかなりの期間が経過しているのに、何も状況が変わっていないとしか思えない、聖アンナの精神科医達の治療レベルを疑う。
これは何となく嫌な予感がするが、とりあえずは状況確認してからだ。
Krは自分の殻に閉じこもっているのは明白だ、担当のDrは今まで何を診ていたのかとても疑問に感じる。
それともあえて何も見ないようにしていたのか。
明日から過去のカルテを見て今までの治療状況を確認していく予定だが、きっと残念な記録を目にするのだろうと思うと、今から気が滅入る。
<走り書き終わり>
[Plan(計画)]
PtのDrに対する不信感の緩和を最優先としたカウンセリングの実施を行い、当面は正しい精神分析を可能とする事を目指す。
ただし心身症については随時検査を行う。
<ドイツ語の走り書き>
神経精神科としての治療方針を決定する科内会議が毎週金曜日のAMに行われており、ここでその週のKrの病状や治療結果の確認と、翌週の治療方針についての検討を行っている。
正直に言えばこんな会議は不要で私の判断と指示を聞いてくれるだけで良いのだが、そうは上手く行かない。
今回は私も診療もしていない状況だったから、形ばかりの軽いミーティングで終わったが、次回からはそうはいかないはずだ。
当診療科の治療責任者である宇野准教授は、私のやり方に相当咬みついて来るだろうと、今から想像出来る。
Krへの治療計画よりも科内会議の対策の方がより検討すべき課題にならない事を祈るばかりだ。
<走り書き終わり>
◆処方・手術・処置等:
現状はPtとの信頼関係の構築を第一目標としてカウンセリングを重点的に実施。
<ドイツ語の走り書き>
最初の目標は、聖アンナのDr達に都合良く封じられているKrの心を引っ張り出す事。
期間としては2週間で精神分析可能な状態までの改善を目指す。
相当奥深くに沈み込んでいそうだが、これが出来なければ治療は何も始まらない。
<走り書き終わり>
◆備考:
特になし。
<ドイツ語の走り書き>
独り言……
ミュンヘン医科大学病院の研究所からフリードリヒ教授に命じられて、5年半ぶりに帰りたくもない日本へ戻って来た。
何故なら私はここで、聖アンナ医科大学附属病院院長の一人娘である、仁科棗の精神科専属医として勤務する事になったからだ。
これも私が起こしたミュンヘンでの出来事が関係しているのは判っている。
嫌いな日本に来るのは出来れば避けたかったが、研究所の代表であるフリードリヒ教授の命令に逆らう事は許されない。
今はとにかく少しでも前向きに考えて、ここで一つ功績を上げてミュンヘンの研究所に戻れるように努力しなければならない。
と言うよりも、ここで何も結果を残せなければ、私の居場所は誰かに取って代られて、ミュンヘンでの私の席はなくなっているだろう。
新しい勤務地の聖アンナ医科大学附属病院については、まるで興味がなかったので全く知識がない。
日本に戻ったところで、診るべき相手がドイツ人の被験者達から日本人の患者になるだけなのだから、それは大した問題ではない。
ただし、研究には失敗が付き物で、どの様な結果であっても何かを得られさえすればある意味成功と言えるが、治療では常に望まれた結果を必要とし続ける点が大きな問題だ。
このKrはどちらかと言えば成功を求めづらい患者であるのは、あの疾病の辞書かと思う様な、膨大なカルテの病名の記載を見ただけでも明らかだろう。
更に担当医としてこの病院の全ての科の副部長の名前が入っているのも、通常では考えられない事だ。
これも全ては非常に珍しいMNTSの患者と言う点もあるが、やはりこの難病発症者が院長の娘であるのが主な理由だろう。
そのうち他の科のカルテも読まなければならなくなるかも知れないが、今はそれは考えたくない。
だがさすがにMNTSについてはある程度理解する必要がありそうだ。
それにしてもこれはかなり窮地に立たされてしまったかも知れない。
この事実を考えると、持病の偏頭痛が襲って来るので今は意識しないようにする。
10/6の赴任初日はまず最初に私に関わる神経精神科の主要なメンバー紹介を受けた。
一人目は神経精神科部長で教授の宮澤教授。
小柄で痩せた外見のイメージは枯れ木、あるいはアメリカの映画に出てきそうな小さな宇宙人と酷似。
若干加齢臭を漂わせているが、何らかの薬品の匂いも混ざっていて正しく判別出来ない。
第一印象は可も不可もない、毒にも薬にもなりそうもない、存在意義も希薄な老人。
この老人にはこの科の顔でいてもらって、有事の際の責任係として教授でいてもらうべきか。
二人目は副部長で仁科棗治療チームの神経精神科の責任者でもある宇野准教授。
筋肉質の横にでかい図体をした、煙草のヤニと珈琲の口臭が混ざった不快な息を吐く、ゴルフ焼けした浅黒い中年の男。
顔を合わせたのは午前中だったのにもう顔は脂ぎっていた、どれだけ脂性肌なのか。
精神科医にはとても見えず、一見するとガラの悪い不動産屋か中小企業の社長に見える。
やけに攻撃的な感情のこもった目つきで私を睨んでいたのは、近づかれた時に思わず私が顔をしかめてしまった所為か。
初対面だがもう既に嫌われている気がする、まあそれは私もだから、お互い様か。
三人目は主任医長で私の直近の上司に当たる片山准教授。
宇野とは正反対の色白・中背・痩身・猫背の、七三分けで必死に隠しているのが痛々しい頭髪の薄い男。
あんな妙な小細工をするくらいなら、いっその事スキンヘッドにしてしまえばいいと私は思うが。
握手を求められて、とりあえず応じておいたが、手がべたついていて気色が悪い。
向こうは私と関わる事を望むような好意的な態度を見せていたが、私としては生理的に受けつけないので距離をおきたい。
その他のメンバーは私よりも地位の低い人間なので、関わった人間だけ注目する事にして今日は流した。
挨拶を聞いて少し驚いたのは、ミュンヘンでも唯一面識のあった宮澤准教授が教授になっていた事だ。
この辺りの経緯については、もう少し落ち着いてから確認していきたい。
ここでの私の肩書きは客員准教授だが、これは形式的なもので実際は神経精神科医員と言う、かなり低い地位にされている。
やはり招かれざる仇敵に対してはそれなりに拒絶の意思表示をしてくる様だ。
まあこれに関しては、実績を行使して然るべきポストへと変えていく予定。
この後に必要部署への挨拶と言う事で、何故か総合診療内科部長の細川教授と、消化器・一般外科部長の山県教授へと挨拶をさせられた。
それも更に不思議な事に、細川教授へは片山准教授が、山県教授へは宇野准教授が、私に付き添った。
これの意味するところはやはり派閥だろうか、やはり日本は気候も人間関係も高温多湿で極めて不快だと改めて感じる。
この手のしがらみが嫌で日本を離れてドイツへ行ったのに、これから先も色々とうんざりさせられそうだ。
片山准教授への挨拶へと向かう時、細川教授から興味を抱いているらしい不快な目つきで、ハーフなのかと尋ねられた。
私は出来るだけ表情に出さないように注意しながらこの男へと訂正した。
私の母方の祖母はドイツ人でクォーターだが、肌の色が純粋な日本人よりは色白なくらいで、他は日本人の特徴を受け継いでいる。
幼い頃はこの白い肌の所為でよくいじめの標的にされて、クォーターであるのを恨んだりもした。
しかしその後、祖母と接点のあったフリードリヒ教授の力で、ミュンヘン大学病院の研究所に入る事が出来た。
この血筋から来るコネクションがなければミュンヘンへはいける筈もなかったのだから、今では価値あるものだと自負している。
山県教授への挨拶の際、宇野准教授は私の『汐月 晶』と言う名前を『しおつき あき』と間違って紹介していて、またかとうんざりしながら訂正しつつ、昔の事を思い出した。
私の名は、晶と書いて『あきら』と読む、女だから『あき』だと思い込んで確認もせずに紹介されるのは不愉快だ。
小学校も、中学も、高校も、大学も、何処でも自己紹介する時、字を見ている人間は皆『あき』だと思い込み、それを『あきら』だと訂正すると今度は奇異の目を向けられる。
まだ子供だった時は、この名前の所為でからかわれたりもして、ずっとコンプレックスに感じていた。
当時の私は大人しく引っ込み思案で、言い返したり出来ない内気な子供だったし、友人も少なかったからよく一人で悩んでいたものだ。
しかしこれがきっかけで心理学に興味を持ち、今やそれを仕事にする様になったのだから、ある意味この名を付けた両親には感謝すべきなのかも知れない。
Krの初診結果の率直な感想は落胆以外の何者でもなく、Krは操り人形にしか見えない状況だった。
病状がどうこうと言う以前に、症状が隠蔽されているところからどうにかしなければならないとは、本当に気が滅入る。
しかしどれだけ嘆いてもこの苦境は変わらない、今はとにかく再びミュンヘンの土を踏めるように努力していこう。
それにしても、PtをKrとつい記述してしまうのは、フリードリヒ教授から移ってしまった癖だ。
公的な文書では気をつけているが、手が覚えてしまっていて、ドイツ語で書くとついKrと書いてしまう。
出来れば直した方が良いのは判っているが、なかなか体に染みついた癖は抜けてくれない、困ったものだ。
<走り書き終わり>
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