2009年4月11日 診療録(経過情報)
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カルテ(精神神経科)28頁目:経過情報
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記載日:2009年4月11日
◆主要症状・経過等:
[Subjective(主訴)]
なかなか寝つけない日が続いている。
<ドイツ語の走り書き>
KrのSについてはいよいよ明日に迫った退院への緊張から来る通常の心理状態だろう。
それ以外には特に気に掛かる箇所もなく問題はない。
Krの体調面に関して順調であるのは常駐体制の構築に難航している立場としてはありがたい限りだ。
この日のKrはいつも通りに落ち着いており、その様子からすれば今週末に念願の退院を果たす前とは思えない程に冷静を装っていた。
これには投薬の効果もあるのだろうが、それ以上にKrにとっては目前の退院は通過点でしかなく目指すものはその先にあるからなのか。
しかしそれについては契約を結んだ相手である私であっても、あっさりとは語ってくれそうにもない。
逆にパートナーと言う立場だからこそ対等である為に語らないのだとすると、ここまで持って来た私の行動は正しかったとは言い難い事になってしまう。
もしKrがその様な思考をしていたとしても、そこをどうにかして本心を掴むのが心理学者としての手腕の見せ所だと前向きに捉えておく事にしよう。
<走り書き終わり>
[Objective(所見)]
術後経過確認
RVSM臨床試験運用
<ドイツ語の走り書き>
他の科からの診療結果についての報告を見るに術後の経過は極めて順調であり、スケジュール通りの退院となりそうだ。
先月発覚したデータ不整合の件について、RVSM開発元である次世代医療研究開発センターの調査結果ではRVSMの計測ミスの可能性は極めて低いと言う見解を出して来た。
治験とは言え機器としての開発はほぼ完成していると言う自負もあるのだろう、開発担当代表の長谷川室長の反論は全く揺るぎないものだった。
それに対して臨床検査部の対応は明らかに不自然で怪しく、先週まで報告されていたデータ不整合は今週に入った途端に異常がなくなったらしく何の報告も入らなくなった。
念の為に長谷川室長へと確認を取るがRVSMの計測データは先週から特に目立った変動も無いし、センサーの調整も一切行ってはいないと言う。
RVSM側が何の変化もしていないのに先週まではデータが一致せず、データ比較検証を非公開にした途端に正常になるとはあからさまに胡散臭い。
どうも臨床検査部は何かを隠蔽する筈だったのが手違いで表に出てしまいそれを隠そうとして足掻いた結果の様にしか見えないが、まあそれを追求するのは私の仕事ではないので然るべき部門へと情報を流しておくだけだ。
<走り書き終わり>
[Assessment(分析)]
RVSMの採取データ再検証
<ドイツ語の走り書き>
院長からの至上命令で早期の問題解決を計る為に、先週に発生したとされるデータ不一致の原因調査を行う特別査問委員会を発足させたとの報告が入った。
先月の全科定例会の様子からすると臨床検査部だけではなく、呼吸器・感染症内科も何らかの関与をしているのだろうと思っていたが、状況説明としてもう既に両科の関係者が徴集されている様でこれは意外と早い解決になりそうだ。
これに片山准教授も繋がっていたからこそ文字通りの失踪して早々に逃げ出したのか。
Krに対して行っていた事の程度によっては処分程度で済むかどうかも怪しいが、予想としては検査結果の偽装だと考えられる。
この両科の隠蔽内容が致命的なものであった場合、Krの退院にも支障が出るどころか現状の治療計画そのものすら揺るがしかねない可能性も無くはない。
真相が些細なものである事を祈るばかりだ。
<走り書き終わり>
[Plan(計画)]
科内会議
1.Ptの抗不安剤投与についての検討
2.片山准教授の担当引継ぎ
3.新副部長選挙の告知
研究室課題
1.Ptの投薬内容の見直し
<ドイツ語の走り書き>
今週は私が神経精神科で直接参加する最後の科内会議だった。
この日も片山准教授は不在でデータ不整合に関する特別査問委員会からの徴集対象者に選ばれた事実もあり、恐らく今月末には何らかの処分が下る様だ。
Krに対する決定事項は現在投与を続けている抗不安剤の停止時期についてで、それは退院後を予定して状況を見て時期は調整すると決まった。
この他の議題としては片山准教授の後任についての話が宮澤教授からあり、正式に担当患者の引継ぎが行われた。
だがこれは形式的なものでしかなく、既に随分前にDr間で固めてあったので当事者不在でありながらもスムーズに進んだ。
それよりも多少ざわめいたのは、今月の全科定例会までに副部長代理の選出選挙を実施すると言う話の方だ。
宮澤教授はもう完全に片山准教授を切り離しに掛かっていて、選挙で決めるのは代理でありながらその代理がそのまま正式な副部長の役職を踏襲するのは間違いない。
これには客員准教授である私には直接関与する術はないが、出来れば訳の判らない中途半端なDrよりも野津になってくれると安心なのだが。
ここはこの科から事実上遠ざかる事により私の影響力が落ちる前に野津を副部長に据えて睨みを利かせておくべきかも知れない。
時間を作って野津への票集めを行っておくか。
それと今週は1日だけ研究室に顔を出した。
先週のどうしようもない会合が解散した夜に、どうやって調べたのか知らないがミハイルからメールが来ていた。
そこにはシャーリーンの事を弁明する文章が記載されていて、それによるとあの赤毛女は教授が功績のある自分よりも何もない私の配下に指名されたのが納得出来ないのだと記されていた。
それにどうも純粋なドイツ人ではない私の下と言うのも反発する強い要素になっているらしい。
確かにミュンヘン時代を思い返すと、フリードリヒ教授はあまり私の様な外国人は回りに置いていないとは思っていた。
だから私は研究所内でも否応なくかなり目立ってしまいそれなりに苦労したのだ。
シャーリーンが今回抜擢された理由はやはりKrの新薬研究チームに所属していた点と、幼少の頃に日本に住んでいて日本語が堪能なのもあるだろう。
ミハイルのメールの最後には、シャーリーンの扱い方は夢中になるとそれしか見えなくなるタイプなのでとにかく課題を与えてそれに没頭させる事と、難しい課題をクリアさせて実績を積ませてそれを評価してやる事だと締め括られていた。
随分とご丁寧に随行員の精神分析やその扱い方まで心得ているなと思い、ますますあの金髪男の正体が疑わしくなった。
しかしいくら怪しくても教授の口利きだから私を陥れる情報は流さないだろうと踏んで、とりあえずはこのメールのアドバイスに従ってシャーリーンを動かしてる事にした。
薬学のスペシャリストにはうってつけの課題もあるし丁度良い、赤毛女の実力を拝見させて貰おう。
研究室に来ていたシャーリーンに私では力不足で手が出せずにいた、Krの各診療科からの投薬内容の精査と必要最低限の投薬案の策定を研究室の課題として行う事を告げた。
私はわざとシャーリーンに薬剤部の席もあり新薬開発の功労者なら出来るだろうと挑発すると、シャーリーンは挑発に乗ってきて少し頬を高潮させて私を睨み当然だと言い放った。
これは思った以上に扱いやすい人種の様だと思う反面、ミハイルの情報収集能力について気になってシャーリーンへとミハイルの事を尋ねると、まともに話をしたのは日本へ向かう機内でだと答えた。
同じ職場の人間や家族なら性格なんて簡単に判るだろうが、シャーリーンとミハイルは接点がなかった。
とするとやはりフリードリヒ教授の力添えだとしか考えられず、ミハイルは監督者としてシャーリーンの情報を与えられて来た事になる。
ミハイルはどれだけの情報を与えられてここに来ているのだろう、それによってはここでの真の目的の重みも判ってくるのだがそれを確認する術はない……
<走り書き終わり>
◆処方・手術・処置等:
Pt退院
HEMSによる自宅へのテストフライト
<ドイツ語の走り書き>
12日のPMにKrのHEMS搬送による退院が実施された。
これはKrも搭乗させた上での訓練的な要素も高かったが、それに専属RNになった川村はともかくとして私も同乗させられるとは思っていなかった。
Krは現状特に問題はなかったがストレッチャーでの搬送となり、私は医師用座席に座り川村は看護人座席に座ってのフライトとなった。
HEMSは定員7名で操縦士と整備士の他にFD(フライトドクター)が1名とFN(フライトナース)が1名乗る。
だから実際の緊急搬送時に私や川村が乗るとすると今回座った席ではなく付添人座席に座る事になるので、ある意味貴重な経験になった。
このKrを実際に搬送したテストフライトでKrが興奮してはしゃぐのなら判らなくもないのだが、はしゃいでいたのは川村でありKrへと引っ切り無しに話し掛けていた。
川村の態度はKrを気遣っての意図的なものであろうと解釈して、私は敢えて何も口を出さずにその様子を静観していた。
Krは川村の畳み掛ける様な会話に若干圧倒され気味ではあるが、Krからもかなり自然に返答したりしていたのが見受けられた。
通常放っておけばいつまででも黙っているであろうKrには、川村の様な存在がスタッフとしているのはこれから社会復帰のリハビリを行う上でも重要になるだろうと確信する。
Krの新居はてっきり都内の実家だと思っていたのだが、実際には聖アンナから100km圏にある地方都市なのを聞いた時にはかなり意外に感じた。
この地域を指定したのはKrだと聞いているので、何かKrが求めているものがこの地域にあるのだろう。
今回配備されたHEMSはかなり速度が出せる機体らしいが、それでも聖アンナまでは最短でも30分程度は掛かる様で、RVSMの精度と容態変化の早期発見は死活問題となる。
それに天候不順の場合でもフライト不能になる可能性が高い点も気をつける必要があるが、この日は天候も良く速度も出せた様で30分を切る時間で新居のマンションへと着いた。
その町は関東の外れに当たる地方でマンションは駅前にありながらそれより高い建物も見当たらず、HEMSの離着陸には安全で良いのだが地方都市としても小規模の様だ。
これからこの街が仕事と生活の拠点になると思うと、聖アンナ周辺の混雑した雑多な日本的都心部よりは良いがやはり職場の環境はミュンヘンが一番だった。
ミュンヘンに無事に戻る為にも今はこの窮地を乗り切る事だけに集中する事にしよう。
<走り書き終わり>
◆備考:
Pt自宅療養移行計画要項(一部抜粋)
常駐管理チームメンバー構成
・常駐管理統括部
TR 汐月
SR (不在)
・常駐管理医療処置班
内科Dr 大山、(不在)
外科Dr 古賀、(不在)
Pt専属主任RN 川村(汐月サポート)
Pt専属RN 奥村/上村、吉野/宮下、中尾/児玉
車両ドライバー 竹田/渋谷、根本/角田、山根/塚本
・常駐管理救急搬送班
Pt専属ELT 宮川/岡部、中嶋/松崎、江口/石塚
Pt専属HEMS 村松/本多、岡野/甲斐、松山/西岡
(操縦士/整備士)
メンバー体制
同居常時待機:汐月
別室常時待機:大山、古賀
別室輪番待機:Pt専属RN、車両ドライバー、Pt専属ELT/HEMS担当者
通常日勤勤務:川村
※Ptの聖アンナ滞在時は除く。
チーム週間スケジュール
スタッフミーティング:毎日朝7時に当日担当者らで実施
チームミーティング :毎週日曜15時に実施
三交代シフトスケジュール(在宅日)
日勤 : 06:00 ~ 15:00 準夜勤への申し送り 14:00 ~ 15:00
準夜勤: 14:00 ~ 23:00 深夜勤への申し送り 22:00 ~ 23:00
深夜勤: 22:00 ~ 07:00 日勤への申し送り 06:00 ~ 07:00
三交代シフトスケジュール(通院日)
深夜勤: 22:00 ~ 09:00 申し送り 出発前に主任RNに報告
日勤 : なし (病院への移動中は主任RNが担当)
準夜勤: なし (自宅への移動中は主任RNが担当)
深夜勤: 22:00 ~ 09:00 申し送り 到着後に主任RNから報告を受ける
Pt宅→聖アンナ輸送定期便スケジュール
生検用採取物輸送を3時間毎にバイク・自動車・電車の3ルート併用で行う。
時間帯 03:00、06:00、09:00、12:00、15:00、18:00、21:00、24:00
<ドイツ語の走り書き>
独り言……
とうとうKrの今週末の退院が実現し常駐管理チームが稼動し始めた。
しかしメンバーは当初の計画での必要人数の半分しか集まらず、修羅場が確実な船出となってしまった。
計画上に載せている必要人数は勿論余裕を見た値であり、現実的な試算ではKrが大した容態変化も起きずRVSMの効果の期待値が最大であるならば何とか乗り切れる筈で、約二ヶ月で安定期に入り以降は現状のメンバーでも問題なくなる。
むしろ問題は我々メンバーがその安定期までの期間をほぼ休日無しで耐えられるのかだ。
恐らく上層部の試算では私の試算以上に緩い読みをしているのだろうが、私の読みが大きく外れていない皮肉な証拠に、各科に対して院長命令でDrの選出に応じる様に指示が出ていない事だ。
結局私に寝返って切り離す俗人のDrの人数までも全ては予定通りだったのだろう。
しかし仁科院長はKrの父親でもあり寝返った人間達の能力については認めているからこそこれ以上の増員の介入をしなかったと見れば、我々の力は評価されているとも思えて何とも言えない複雑な気分だ。
私の担当分であるSRやDrは散々な状況だが院長側で集めた人員は計画予定数を確保してきた。
特にKrとの関わりが強い専属RNは一般看護部からの人選ではあるもののFNこそ居ないが半数がERの経験者であり、Kr専属の場合FN程の知識と経験は不要であるので人材としては十分だろう。
それにRN達は4月中Krの専属RNとしての特別講習を受講させてあり、緊急時においても特別病棟RNに引けをとらない品質の看護スキルを習得させている点もあって不安はない。
Pt自宅療養移行計画要項には、可決された以降に退院先の地域を確認してから追加された項目が幾つかある。
その追加された事項の1つに住居近くに治療施設を調えた医院の建設があった。
この地域のマンションではKrの緊急事態発生時に対応するだけの医療機器設備を全て納めて稼動させられるだけの改築が出来ず、聖アンナの系列に当たる近隣の総合病院では距離が遠くて問題となり、その対応として近くに医院を建てる事になった。
その小規模医院にCTやMRI等の大型医療機器を揃えて、容態急変またはHEMS搬送不能の場合にはそこでもある程度の診断と暫定的な治療を可能にする。
そこに勤務するのも聖アンナから派遣されるDrであり、この施設はKr専用ではなく表向きには開業医の医院として平常時は支障のない程度に地域医療も行う予定だ。
今回常駐管理チームに選出されたメンバーには出張と言うよりも異動に近い状況なので、それなりの金銭的な配慮は為されている。
引越し費用全てと家賃全額を専属RNの常駐管理チーム住宅手当として聖アンナが負担となっており、人材面と勤務待遇には恵まれていないが金銭面だけは良い条件になっている。
独身の川村はこの好条件を利用してマンション近くに引越ししていたが、他のDrは妻帯者や妻子持ちで単身赴任にしたと言っていた。
私もどうせなら引っ越そうかとも思ったのだが今月は多忙で何の支度も出来ないし、それに室内には大した物も無く私の資産と言えば新車くらいなので、ここでもワンルームは与えられているのもあり生活に問題はないと思い保留している。
もう少し時間に余裕が出来たなら考えようか。
専用のHEMSや緊急自動車に小規模ながら医院の建設と地方都市とは言え高級分譲マンションを1フロア全部屋購入し改築と更に治療に関わるスタッフの人件費、これをたった一人のKrの為に実施したのは組織に属する人間としてどうなのかと疑問を感じない事もない。
これらが病弱な娘を溺愛する親馬鹿な父親の独断で権力の元に実行されているのだから尚の事だ。
しかしこうした行為が聖アンナ内において権力争いの道具になり、製薬企業や医療機器メーカーとの取引に繋がり、少なからず病院の人事や経営に影響を与えているのも事実で、その中に私のここにいる存在理由すら含まれている。
そう考えると果たして一概に仁科院長の公私混同とも言えるKrへの措置は私の立場からでは善し悪しの意見は言い難い。
研究室の方は当面はKrの通院日に当たる火・木・土の週三日のうち、時間が取れた日に顔を出す事になりそうだ。
現在のところはあのミュンヘンから来た二人しか研究員はいないので、形ばかりの研究室で只のミュンヘン出身者達の溜まり場と化すだろうが致し方ない。
あの二人のうち少なくともミハイルは、教授から何かの指示を受けていると私は考えている。
それは表向きに公表されている目的ではなくきっと多忙になった私の支援だけでもないだろう、教授がそんな理由で異国人である私の為に援助として要員を派遣するとも思えない。
恐らく私も知らされていない何らかの目的があって、その為の要員だと私は推測している。
それは多分そのうちにメッセージに現れて来るのだろう、尤もそれはその時期まで私が失脚せずに教授の手駒として生き残れたらと言う条件があるのだが。
自分の将来を失いたくないのもあるが、今はそれと同じくらいにミハイルが何をする気なのかをこの目で確認したいのが本音だ。
ただし今のところは何の確証もなく全てが私の憶測止まりなので、もしかすると単なる妄想で終わるかも知れない……
<走り書き終わり>
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