2009年1月17日 診療録(経過情報)
変更履歴
2011/07/04 誤植修正 大川 → 大山
2011/07/14 小題変更 1月13日 → 1月17日
2011/07/14 記述修正 記載日:2009年1月13日 → 記載日:2009年1月17日
2011/08/20 誤植修正 位 → くらい
2011/12/16 罫線はみ出し修正
2011/12/16 最下行罫線追加
2012/01/14 記述統一 眼鏡 → メガネ
カルテ(精神神経科)16頁目:経過情報
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記載日:2009年1月17日
◆主要症状・経過等:
[Subjective(主訴)]
明確な意思表示なし。
<ドイツ語の走り書き>
先週と比べるとKrの様子は少し落ち着いている様に見えるが、しきりと時間を気にしているのが目立つ。
表情には今までで最も私と視線も合う回数も多く、視線が合った後もKrから逸らそうとはしない。
その訴えかけて来る様な様子からはとうとう話をしようと覚悟を決めているのだと感じさせた。
だが問診中ではそれがなかなか言い出しては来ずに、問診の回答としても曖昧に相槌を返すだけで心ここに在らずといった様子だった。
これではSを聞き出すのは無理だと判断し問診は中断してカウンセリングに入る。
<走り書き終わり>
[Objective(所見)]
ナラティブセラピーの実施。
※Ptの容態悪化により途中で中断。
<ドイツ語の走り書き>
今回のカウンセリング中にKrから遂に告白があった。
Krがあれほど思いつめていた内容なので、何を言い出しても一切動じる事はないように警戒しつつ私はその要求を聞いた。
その要求とは退院の要求で、要約するとKrは自分の願いを叶えてくれるなら今までの様な態度は取らずこれからは真面目に治療にも応じると約束すると言った。
語った時のKrの様子は緊張から来る体の振戦があり、落ち着かない様子で自分の髪を触ったり衣服の裾を掴んだりしていた。
今までの問診や診療でも問い掛けに対する短い返答やKrからの短い質問等はあったが、それらは全て時間にして5秒以内の非常に短い会話でしかなかった。
それに対して今回は最初から最後まで自分の言葉で説明しており、その時間は役2分程度で健常者であれば挨拶と幾つかの世間話が入ればすぐにでも達する様な長さであった。
これほど長くKrが連続して語っているのを私は見た事は無い、恐らくKrにとっては他人に対してそれだけの長さの説明を話したのは私の知る以上に久し振りであったのではないだろうか。
声の震えも強く若干不明瞭で文脈もおかしい表現ではあったが、それが不明瞭になっているのを自身で自覚出来ていて何度もKrは言い直そうと繰り返したので内容は理解出来た。
この発言をした時のKrの様子は、発言前の緊張に合わせて私の返答に対する不安も重なって更に悪化し、顔は青ざめて額には発汗がみられ過呼吸とまではいかないものの呼吸も早まっていた。
普通の入院患者であればどうと言う事もない愚痴や願望を口にした程度の内容だろうがKrにとってそれは、自ら口にしてはいけない言葉だったかの様で非常な決心が必要だったのだろう。
これ以上この状態でいさせるのは危険だと感じて落ち着かせようとした時、この後Krは急に両手で口元を押さえて激しく吐き気を催した。
誤嚥防止と意識喪失に備えてすぐにKrの隣へと移動し、ソファーに横向きで寝かせて回復体位をとらせてからナースコールでRNへと連絡。
Krの状況を見て自分で吐く力が弱く嘔吐出来ない状況だと判断し嘔吐反射で嘔吐を促がす。
嘔吐して容態が落ち着いて来たところで病室に入って来た消化器・肝臓内科のDrとRNに状況を説明して処置を引き継いだ、と言うよりはDrにKrを奪われたと言うのが正しい。
私としてはKrへと回答をしておきたかったのだがその猶予も与えられず、Drへとこれは心因性のものだと状況を説明しても聞き入れられずに、私は退出を命じられ最後はRNから病室を連れ出された。
Krも私からの返答を聞きたかったのだろう、Drの処置に応じつつも私へと目を向けていた。
今回は明らかに私の判断ミスでありKrには申し訳ない事をしてしまったと後悔した。
しかし私としては消化器・肝臓内科のDrの対応は納得出来ない。
こちらの応急処置としても間違いなかったと言う自負もあるし、現にKrは吐き終えた後は回復仕掛けていたのだ。
私としては吐瀉物で汚れた衣服や家具や床の対応を、RNにさせたかっただけであったのだ。
ミュンヘンの研究所でのやり方が染み着いていて、ここでは勝手が違うと言う事を緊急時ですっかり失念していた。
向こうでも臨床での緊急事態となれば人命最優先で対処するのは当然の事なのだが指導権はあくまで研究実験実施者にあり、その人間の指示の元でRNや時には他の付添のDrが動く。
この違いは研究目的での場合ある程度のリスクも了承した上で被験者が協力しているのに対し、こちらは治療目的なのだから容態が急変すれば最悪の事態を想定して最善の策を行おうとする。
それが症状の発生した器官のDrが対応する事だったと言う訳だ。
自分のミスが発端とは言えKrを取り上げられた様な対処をされたのは屈辱だ。
<走り書き終わり>
[Assessment(分析)]
カウンセリングでのPtの状況について分析。
Ptは退院を希望しておりその希望が叶えば治療に前向きに応じると明言。
その意思表示後に容態が悪化。
自分の意思を伝えると言う事のみであれほどの容態急変を引き起こすとは考え辛い。
容態急変の原因は発言時の緊張ではなく、Ptが語った内容に対する私の返答への強い不安から来たものであると推測する。
現在求められる最善の処置はPtの不安の解消であり、その回答とはPtの望みである退院の実現の約束であると判断する。
<ドイツ語の走り書き>
これは私の憶測でありA(Assessment)にも記載していないが、今回のKrの急変はかなり根深く深刻な問題があると考えている。
Krには未だに表出していない精神的疾患や心的外傷が埋もれており、それらは今まで感情鈍磨の下に隠れていた。
それが退院を希望する事と直接的か間接的かは未だ判断しかねるが関連づいていて、その為にあれだけの精神的な負荷を与えた結果として今回の状況が発生したのではないか。
つまり今回のKrの要求を叶えた場合、希望が叶った事に因って単純に今見えている症状が改善すると言う楽観的な結果よりも、退院と言う願望の達成で本能的な自己防衛として無意識に逃避していた潜在的な症状が顕在化する、そんな気がしている。
だがこの憶測が正しいとしてもそれを避けるにはまた元の薬漬け治療に戻さなければならず、これは現状のKrからすれば回復ではなく悪化であろう。
ここはパンドラの箱を開ける覚悟で挑むしかない。
<走り書き終わり>
[Plan(計画)]
ナラティブセラピーの継続を提案。
反論として片山准教授よりPtの精神的負荷の軽減再検討を提案。
<ドイツ語の走り書き>
今回の科内会議は終始片山准教授の良い様にされそうになった。
これも全ては私のカウンセリングでの件が原因だ。
片山准教授は私の失態に対して何らかの措置をすると表明しなければ他の診療科から叩かれると警告して来た。
これが全科定例会の議題にでもされれば取り返しがつかないとして、とにかく一時的にでもKrの感情を安定させるべきだと反論してきた。
私のミスを利用して再び薬物療法を復活させようと言う魂胆は明白だが、今は極めて不利な状況で何の根拠もなくその意見を却下する事が出来ない。
そこで私はひとつの賭けに踏み切った。
次回のカウンセリング実施の結果で治療方針の変更を再度検討すると断言した。
Krの容態が回復に転じれば問題は解決しているとして現状の治療方針を続行、Krの容態が回復する兆しが無いか或いは悪化がみられた場合は治療方針見直しに応じる、と言うものだ。
片山准教授はこの条件に応じて次回のナラティブセラピーの継続の提案も了承した後、こちらからも事態の沈静化に向けて動くと明言していた。
この賭けに負けても私の尻拭いをしておく事で密約の借りについては相殺させようと言うつもりらしい。
あの時RNと共に入って来たのは消化器・肝臓内科のDrであり白聖会へと掛け合えば、全科定例会に行く前に揉み消せるとでも言うのか。
下手に騒ぎ立てられてこんな所で追い込まれるくらいなら、片山准教授への密約の貸しを相殺させても穏便に済む方が都合が良い。
私は聖アンナで正義を貫く為にいるのではなくKrを治療する為にいるのだから、その為には綺麗事を言う気はない。
今回は片山准教授の実力を拝見させて貰う事にして、私の方は来週のカウンセリングで必ずKrの心情を改善する。
私の憶測が正しければ退院が実現するまではKrは容態が改善する筈だ。
今の私にはそれに賭けるしかない様だ。
<走り書き終わり>
◆処方・手術・処置等:
引き続きナラティブセラピーを継続し来週も実施を予定。
<ドイツ語の走り書き>
あの日以降のKrの様子が気になったがKrの病室は精密検査で内科関係者以外面会謝絶にされていて、担当医であるのに様子を見に行く事は出来なかった。
早耳の伊集院に何か知っているかを尋ねてみてもKrの様子は知らないらしい。
そこで大山へと問い合わせるメールを出しておくと、返事はその日の夜遅くに帰って来ていた。
Krの状況は容態としては特に問題がなく安定しており、症状悪化の痕跡も見つかっていないとの事だった。
だがKrは今まで以上に精神的なショックで会話にも応じず、誰とも口を利かない状態であると言う。
この面会謝絶状態は一週間で解除され、来週には平常時の診療スケジュールへと戻ると言う予定らしい。
もはや完全に本末転倒な処置になっている。
このKrの状況は本来なら神経精神科に状況確認を依頼するのだが、今回の事の発端がその神経精神科の診療中であった為、こちらにKrを差し出す事を内科勢は危惧している。
要するに私がまた何か良からぬ処置をして更にKrをおかしくするのではと疑っているのだ。
状況を誘発させた結果発生した症状が心因性のものであるのなら、私へと責任を取らせて処置をさせるのが筋だろうに。
彼等は赤聖会側をやり込めた状態だからと言って、Krを自分達のものに出来たとでも勘違いしているのではないか。
Krが心を閉ざしたのは嘔吐が原因ではなく私への質問の回答が聞けなかったからで、あれからずっと今でも答えに不安と恐怖を感じながら過ごしているからだ。
翌日私はKrの診療をさせて欲しいと掛け合うように片山准教授へと話をしたが、彼は次回の所定の診療時間には通常の診療スケジュールへと戻ると言う周知の情報を得るだけで役には立たなかった。
ここでこれ以上の暴挙に出ても私の失点が増えるばかりであろうと判断して、歯痒いが大人しく次回の診療を待つ事にした。
派閥に属さずこの科や私に権力が無いばかりにKrの苦痛を引き伸ばしている結果に繋がっているのは忸怩たる思いだ。
この状況は非常に不本意ではあるが致し方ない。
<走り書き終わり>
◆備考:
特になし
<ドイツ語の走り書き>
独り言……
先週約束していた霧嶋との会合があった。
場所は前と同じ新宿の寂れた喫茶店だ。
この店の珈琲はなかなか美味しいのであの女と冷静に話をするには丁度良い鎮静薬になっている。
今回は私よりも向こうの方が先に来ていた。
その容姿は黒髪をおさげ髪に地味な黒縁のメガネを掛けて、暗い配色のタートルネックのセーターを着た如何にも性格が暗そうな垢抜けない雰囲気の、文庫本を読んでいる血色の悪い痩せた女。
それが今回の霧嶋だった。
髪はウィッグでメイクと収縮色の服装で痩身に見せている、胸は元からこれくらいなのかそれとも潰しているのか。
私が正面の席に着こうとすると霧嶋は扮しているキャラとは合わない声と表情で私へと挨拶してきた。
この後領収書の受け取りと契約の完了を確認してから、今回は文学少女のイメージだと言って容姿について私へと感想を求めてきた。
どう考えても20代後半であろうによくも平然と自分の事を少女だなんて言えるものだと若干呆れつつ、私はそのまま思っている事を霧嶋へと伝えた。
すると霧嶋は大笑いしてからやっぱり精神科医は面白いと言った後に、またのご利用をお待ちしていますと頭を下げてから、ここの領収書を持って席を立った。
私はブラックの珈琲を飲みながら今のやり取りでの霧嶋の様子を思い出して、本当に異様な女だと感じていた。
あのコスプレ女は、あれだけふざけた格好や態度をとりつつ更にころころと表情も変えて全てを茶化していたのに、その目は終始全く笑っていなかった。
だから何を考えているのかが読めず、精神科医である私が翻弄されている点に非常に屈辱を覚えるのだ。
あの霧嶋の異様な目はそれ以上に何か引っかかる感じがするのだが、それが何であるのか明確に思い出せない。
これは最近ではなくかなり昔に見た事があるような気がするが、大学時代だったろうか。
これ以上考えても思い出せそうもないと諦めて、珈琲を飲みきった所で店を後にした。
<走り書き終わり>
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