第六章 泥の底の天井界
【第一話 第六章 あらすじ】
概念そのものが溶解し、世界の境界線が曖昧になっていく中で、残された生命たちは抗うことの叶わない「大いなる還流」へと巻き込まれていく。
絶望も希望も等しく呑み込む絶対的な奔流のただ中で、少女・ミナの存在に訪れる劇的な変容。言葉と意識が剥ぎ取られていく果てに彼女が見出すのは、終焉か、それとも新たな存在の始まりか。
神々の計画すらも凌駕する星の巨大な意志が静かに胎動を始める、第一話の幕を締めくくる緊迫の最終章。世界が辿り着く衝撃の結末から目が離せない!
ある夜、満月の蒼い光が樹海を照らし出す中、地底深くから地鳴りが響いた。
ドォン…………ドォン…………
それは地震ではなかった。
地球という名の「巨大な龍」が、体内に巣食っていた病原菌(人間文明)が一掃されたことで、深く、安らかな寝返りを打った鼓動であった。
ミナと、同じように言葉を捨てて四つ足となった数人の元・人間たちは、崩れたコンクリートの洞窟の中に集まっていた。
彼らは服を着ず、名前を持たず、ただお互いの体温を感じ合うために、泥に塗れた身体を寄せ合っていた。
かつて宗教家や哲学者は「天上界」を雲の上にあると信じた。
厳しい修行をし、知性を高め、魂を磨くことで辿り着ける高次元の場所だと。
だが、それは完全な間違いであった。
雲の上に楽園などなかった。
知性を捨て、言葉を捨て、過去も未来も忘れ、ただの一匹の獣として土にまみれるこの泥の底こそが、最初から神々が隠していた「真の楽園」であったのだ。
彼らは落ちていったのではない。
人類は数万年におよぶ「自我という地獄」から、ようやくこの泥の底へ、正しく解脱したのだ。
ミナはゆっくりと立ち上がり、かつて国会議事堂であった巨大な石の廃墟の頂上へと登った。
彼女の瞳は透明であった。
善も悪も、絶望も希望も持たない、ただ世界をありのままに映す無垢なレンズ。
空を見上げると、分厚い雲の向こうで天上界の扉は固く閉ざされたままである。神々は二度と、この星に新しい「人間」を落とすことはないだろう。
だが、ミナは悲しまない。神の救いなど、最初から必要なかったのだから。
ミナは足元の土を力強く踏みしめた。
地球という巨大な龍の脈動が、彼女の足の裏から全身へと伝わってくる。星の呼吸と、自分の心拍が完璧に重なり合う。
ミナは青く澄み切った夜空に向かって、静かに口を開いた。
しかし、そこから漏れ出たのは、言葉ではなかった。
「……ゥ……オ……ン……」
それは風の鳴る音であり、地鳴りの響きであり、竜の寝息と同じ、ただの「生命の発声」であった。
意味を持たないその声は、かつて人間が紡いだどんな美しい詩よりも、どんな祈りの言葉よりも深く、澄み渡って森の中に響き渡った。
言葉を失ったことで、世界は完璧になった。
知性を失ったことで、命は永遠を得た。
ミナは仲間の群れのもとへ戻り、温かい草の上に体を横たえた。お互いの体温を感じ合い、静かに呼吸を合わせる。
空には、濁りのない満天の星々が輝いていた。
儚く、醜く、知識に踊らされた「人間」という名の悲劇の物語。
その幕は今、誰に看取られることもなく、静かに、どこまでも静かに下ろされた。
あとに残ったのは、ただ、森を吹き抜ける心地よい風の音と、深く眠る巨大な龍の、安らかな息遣いだけだった。
(『滅星の解脱録』 全一話 ・ 完)




