第11話 仮外泊(江藤)――歌を止める勇気の夜
日曜の午後。センターの玄関で、江藤つね(76)が半歩でやって来た。肩には育てた匂い布、手提げには白色音ファン(卓上)と避難台本。
「焦らないで行きましょう」
「焦らないことが仕事です」
チェックリストを声でなぞる。
帯域計/温度カメラ/消火布・炭酸・遮炎ネット(腕の届く距離)
匂い布スリーブ(袖に通す)/綿手袋(“触らせない接触”用)
避難台本(廊下→階段 三十歩/座って聞く/歌は止める)
連絡カード(管理組合・孫くん)
ぽかはキャリーで半歩の速度。遮音ドームと寝具は昨日の母娘外泊から消毒→再組立済み。
甘粕隊長が短く言う。「外乱は必ず来る。歌を止める勇気で返す」
芹沢獣医が頷く。「点かせない夜を作るのが目的」
◇
団地五階、江藤家。
玄関に座椅子、床には歩幅ガイド。換気は弱で固定、白色音ファンは就寝30分前に最弱。
廊下の角から孫くんが顔を出した。「じいちゃん、待つのプロ、今日本番?」
「うむ、待つのは毎日が本番だ」
ぽかは遮音ドームへ。扉十センチ、袖口十センチ。手は入れない。
鼻歌は使わない。まずは座って聞くから。
◇
避難訓練(明るい時間)
廊下→階段を三十歩、半歩で進む。
江藤さんの歩幅は安定、息は長め。ぽかはキャリー越しに無反応。
管理組合の保全担当が立ち会い、掲示板に新しい紙を貼る。
『“座って聞く”を合言葉に――鳴きは言葉/歌は止める/白色音は最弱で』
孫くんが「動画撮って学校に出す」と言い、担当は「顔は映さないで」と返す。角がひとつ、丸くなる。
◇
夜のログ(抜粋)/江藤宅 仮外泊
19:20 白色音 起動(最弱)。換気弱固定。帯域 −47dB(48Hz)。鳴き0。
20:05 座って聞く。鼻歌なし。心拍同調(人側)0.95→0.97。ぽか、匂い布にぐい。無点火。
21:14 エレベーター機械室周期音(−44dB)に上振れ。ひゅ(3秒)→白色音+1/袖口二指。沈静、無点火。
22:02 隣室テレビ低音(50Hz寄り)。鳴き0。座って聞く継続。
23:31 掲示板の静音放送(管理組合)。“歌は止める”の一文。鳴き0。
0:18 強風で窓枠共振(−43dB)。ひゅい(4秒)→白色音+1→−1(耳の休憩)、二呼吸。無点火。
1:02 鼻歌を一小節だけ試す→低周波と干渉感あり。江藤、即停止。鳴き0。
1:47 寝返り。匂い布へ額。温度 43.2℃/0.8秒(安心相手特異)。
3:10 無音。睡眠深。
4:26 エレベーター始動(早朝清掃)。ひゅ(1秒)→沈静。
5:40 起床。点火計 0.8秒/鳴き2回(計8秒)。事故0。
——歌を止める判断が二回、いずれも良。点かせない夜を江藤が作った。
◇
未明、合図ではないインターホンが一度だけ鳴った。
江藤さんと視線を交わし、出ない。二呼吸。
廊下ののぞき穴の向こう、肩カメラと白い歯。渋谷レオンだ。
管理掲示板には**“撮影は申請制/住民の顔を映さない”。
孫くんが階段側から保全担当を呼び、静音で対応**。
「通路での撮影は掲示の通り」
「公共性が——」
「夜間の静穏が先です」
押し問答は長引かない。掲示という言葉が盾になる。低周波はなし。
鳴きは起きない。
小さなざまぁは、叱責ではなく掲示で起きる。
◇
明け方。
江藤さんが扉十センチ、袖口十センチでおはようを声量2で。
ぽかは匂い布に額を預け、短い息。点火なし。
「帰り支度の前に一回だけ“触らせない”」
綿手袋の甲に鼻先がちょん。温度 43.0℃/0.5秒。
焦げなし/無臭。良。
◇
センター帰着。
芹沢がログを吸い上げ、甘粕が安全網の距離と判断停止の場面を復習する。
黒川センター長が評価会を開き、項目に丸をつけた。
待つの持久力:合格(歌を止める判断2回)
匂い布維持:良(濃度一定)
鳴き→沈静:平均4秒
“触らせない接触”:成立(43.4/43.0℃)
避難訓練:合格(三十歩/半歩)
「正式譲渡手続きに入る。初年度毎月監理、返金=辞退の導線は残す」
江藤さんは深く礼をして、「焦らないで暮らします」とだけ言った。
◇
公開ログを石板に刻む。
『仮外泊(江藤)まとめ
帯域:−47dB(48Hz)/外乱:機械室−44dB/強風−43dB
鳴き:2回/計8秒(平均4秒で沈静)
点火:2回/計1.3秒/43.2±0.2℃(安心相手特異)
判断:歌を止める2回(良)/白色音±1の微調整
避難:三十歩/半歩(合格)
外部:夜間の無申請撮影→掲示で退去
結論:正式譲渡へ進行(初年度毎月監理)
事故0/苦情0/返金0』
白石は2分40秒版を上げる。
『“歌を止める”という支援—高齢者の強みで作る“点かない夜”』
コメント欄に、介護の現場から連なる声。
《待つの評価軸、数字で出せるの良》《鼻歌を止める判断、認知症ケアにも応用したい》
◇
昼下がり。
渋谷レオンが**「高齢者に押し付けるな」動画を投下したが、掲示写真と静音規約の切り抜きで拡散は伸びず**。
代わりに、孫くんの動画**「じいちゃん、待つのプロ」が学校ネットで静かに伸びた。心拍グラフと三十歩の足跡**。
ざまぁは、拍手ではなく生活の中で起きる。
◇
夕方、観察室。
ぽかは匂い布にぐい、鳴き0、無点火。
江藤さんの紙が写った写真が届く。
《“歌は止める”/“座って聞く”/“半歩×二”》
そして、短い一行。
《今日から“いっしょ”です》
胸の奥で、何かがひと拍、丸くなる。
——討伐ではなく保護の物語。武器ではなく温度、怒号ではなく半歩。
正式譲渡が一本、街に増えた。
次は——炎上の第二波と、会計への横槍。寄付の“条件”が持ち込まれる。手順と公開で、角を丸くする準備を。
(第11話 了/つづく)