第1話 「はじめての保護は、小雨の公園で」
小雨の火曜、都心の大きな公園は犬とジョガーと、薄い霧。新人のわたし——餌木ミサキは、センター支給の簡易レインポンチョを肩から羽織り、初出勤の前に鳴き声通報の現地確認へ回されていた。
「越境種の実害は?」
イヤホンの向こうで甘粕隊長の声。
「通報者いわく“猫くらいの声”。場所は高架の下。……あ、います。熱反応小、震え大」
コンクリの影。雨の音に混じる、小さなひゅい。
いたのは——掌二つ分の黒い塊。体温は保たれているが、耳孔を掻いては丸くなる。轟音が落ちるたび、身体ごとぴくと跳ねた。
目の縁が紅。ストレスだ。
わたしは腰を低くして、支給品の遮音毛布を見せた。
「こんにちは。こっちは大きな猫、雨宿り。噛んでよし。引っかいてよし。……乗る?」
小さな鼻が毛布を嗅ぎ、ひゅと息。次の瞬間、身体ごとするんと毛布に潜った。
耳が隠れる。震えが一段落ちる。
「隊長、保護可能です。引取ルートCでセンターへ」
『了解。鎮静は最小で。歯列・翼痕・瞳孔——幼竜の可能性あり。火種は?』
「点いてません。口腔、煤なし」
『ならば夜鳴き型かもしれん。帰隊後に芹沢へ。通行人と配信者に接触されるなよ』
配信者、という単語にあごが強張る。噂は聞いている。「討伐こそ正義」を掲げる渋谷レオン。センター近辺で煽り動画を撮る男だ。
毛布ごと胸に抱くと、幼竜はぬくと重みを寄せた。鳴かない。
鳴く必要がなくなったのだ。
安心は、いつも静けさの方角から来る。
——その時、ピロンと通知音。
視界の隅、スマホのロック画面にライブ配信の赤い点。《渋谷レオン:越境種が公園に!【緊急】》
やめて。こっちへ来る。
「保護個体の搬出に移ります」
通話を切り、わたしは毛布の上からIDバンドを軽く巻いた。H-27。センターの今日の27番目の保護候補。
雨が少し強くなり、人の足は自然と遠のく。高架柱の陰を縫うように、歩幅を半歩に落とした。走らない。
毛布の中の体温が、わたしの胸骨へぽうと集まる。
ぽか。
名は仕事の邪魔になる。つけないのが原則。でも、心の中で一音だけ転がった。
——センターへ戻る坂の手前、彼は来た。
濡れないアウター、過剰な白歯、肩にコンデンサマイク。
「お、いたじゃん。税金の無駄カメラに映って?」
肩をすくめ、毛布をさらに抱き寄せる。
「保護搬送中です。ここは立入制限——」
「言論の自由って知ってる? 討伐すれば二度と被害は出ない。視聴者に判断させようぜ?」
判断は情報の質に従う。ならば、渡すのは事実だけ。
「あなたが煽ると鳴く。鳴くと興奮して危ない。だから静かに」
「“危ない”のはそいつだろ? あ、見て視聴者、口! 火——」
言い切る前に、高架の上をトラックが轟と通過した。
幼竜の耳が震え——ひゅい。
彼は勝ち誇った笑みでカメラに寄る。「鳴いた! ね、危険!」
喉の奥に、知らない低い声が溜まるのを感じた。怒ってはいけない。怒りは現場を壊す。
わたしは一歩後ろへ下がり、遮音毛布の端を幼竜の耳孔に合わせて折る。
音が小さくなる。
ひゅが息に変わる。
「今のは環境音への反応。あなたへの恐怖ではありません」
「へえ?」
「恐怖なら噛む。でも噛まない。——それが答えです」
彼は舌打ちをマイクに拾わせ、肩をすくめた。
「バズらない話、ありがと。じゃ、カットで煽るわ」
背を向け、軽い歌を口ずさみながら去っていった。
煽りは切り抜きで作れる。けれど現場の空気は切り抜けない。
毛布の中で、小さな頭がこてとわたしの胸に当たった。体温が、ほんの少し上がる。
◇
東京保護モンスターセンターは湾岸の物流倉庫を改装した施設だ。
ゲート出現から五年、討伐一辺倒だった都市は、ようやく保護と更生の現実に追いつきつつある。保護→適応→里親——一気通貫でやらないと、街は回らない。
「H-27、幼竜確定。生後2〜3か月。聴覚過敏、夜鳴き傾向」
芹沢獣医が手袋越しに眼を見、舌を見、小さく頷く。
「点火痕、なし」
「点かない個体なんですか?」
「“今は”だね。火は武器じゃない。代謝と安心の指標になる。無理に点けさせない。安心を積む」
芹沢はわたしに視線だけ寄越した。
「餌木。夜番つけるから、一周目は一緒に寝ろ」
「寝ろ?」
「夜鳴きは同室で最短に落ちる。耳栓を正しく使え。——あと、名前はまだだ」
「わかってます」
わたしは頷き、観察室の薄暗いガラス越しに、黒い小さな背中を見た。
水皿、保温床、遮音ドーム。
鳴かない。鳴く必要がないから。ここは静かだ。
◇
夕方、広報の白石ユナが顔を出した。
「今日の通報地点、渋谷レオンがライブやってた。サムネが“危険!幼竜”で、再生十万。センターに電話、増えるわよ」
ああ。胃がきりと縮む。
「里親希望より苦情が先でしょうね」
「逆手に取る。見学ツアー、抽選で三枠増やそう。夜鳴きの実態を公開して、“鳴く=危険”の誤解を抜く」
白石は軽くウィンクして、モニタに「公開:夜鳴きってなに?」の企画書を投げ込んだ。
言葉で奪われた印象は、言葉でしか取り返せない。
——わたしも、現場の言葉を増やそう。
◇
夜。観察室の隣の簡易ベッドで、わたしは耳栓をきちんと挿し、遮音毛布を肩まで引き上げた。
鳴くならすぐに行ける距離。
最初の二時間は、ただの雨音と換気の低い唸り。
三時間後、ガラスの向こうで影が起き上がる。
ひゅ。
わたしは立ち上がり、ドアのロックを外す。灯りは落としたまま、靴音も半歩に。
遮音ドームの入口に手を差し入れる。
噛まない。舐めない。額が、ぽふとわたしの手のひらに乗る。
——体温が上がる。
掌の中央で、ほうと温かさが膨らんだ。
オレンジ色の小さな粒が、空気の底で瞬いた。
火だ。
点いた。
燃え広がらない。息の温度に揺れて、すぐに消える。
わたしは息を合わせ、手を引かない。
火は武器じゃない。これは——安心の証拠だ。
「ぽか、だね」
声が零れた。
ガラス越しの監視カメラが赤く点灯し、ログが刻まれる。
名前は仕事の邪魔。わかっている。
でも心の中では、もう一音でしか呼べない。
◇
翌朝。センターの電話は予想通り、鳴り続けた。
「危険なら討伐を」「税金返せ」「鳴き声が怖い」
白石が台本を回し、甘粕が巡回に人を出し、黒川センター長は市の会議へ向かう。
渋谷レオンの動画は伸び続け、コメント欄は煽りと不安と正論が渦になっていた。
わたしのデスクに、小さな封書が置かれていた。差出人は無記名。
中から一枚の紙。
クレヨンで書かれた、たどたどしい文字。
「りゅうをころさないで。もしおうちがなかったら、うちにきてもいいです。ひはないほうがいいです。こわいから。」
火が点かないから欠陥。
火が点くから危険。
正しい答えは、いつだって真ん中にある。点くのは安心のときだけ。
それを見せる回を、わたしたちは作る必要がある。
朝礼で、わたしは手を挙げた。
「“夜鳴きの見学”にもう一項目。“火が点く条件”を安全に見せるデモ、私にやらせてください」
甘粕が眉を上げ、芹沢が頷き、白石がガッツポーズを小さく。
黒川は短く言った。
「やるなら全員でやる。討伐派に煽られても、現場は静かに。公開で守れ」
ぽかのケージの前で、わたしは手のひらを見た。
昨夜の温度がまだ、薄く残っている。
安心は武器にならない。
でも都市を守るための術にはなる。
わたしの初出勤は、こうして終日になった。
——これは討伐の物語じゃない。保護の物語だ。
戦いの代わりに手順を、怒号の代わりに静けさを、恐怖の代わりに里親募集を。
東京は今日も生きている。ぽかも、わたしも。
(第1話 了/つづく)