Case05「それ、真実じゃない」
今朝、目を覚ました瞬間から胸の奥がざわついていた。
嫌な予感というやつは、往々にして当たる。
テレビをつけた途端、画面に映った彼女の名前と顔写真——そして赤いテロップ。
《ストーカー加害者として逮捕》。
昨夜まで怯えた声で「助けて」と言っていた彼女が、今は“加害者”として語られている。
キャスターは淡々と警察発表を読み上げ、スタジオのコメンテーターが頷く。
そこには、被害者としての彼女の証言も、相談したという事実も、ひと言も触れられない。
まるで最初から、そんな真実は存在しなかったかのように。
そして映像の端に、一瞬だけ見覚えのある横顔が映った。
黒瀬真理亜——フリーの記者。
柔らかく笑みを浮かべながら、黒瀬さんは“世間が信じたい物語”を作り上げる人間だ。
事件現場は、報道で何度も見たアパートの前だった。規制線が張られ、出入りするのは警察と取材クルーだけ。俺は歩道の端からその様子を眺めていたが、不意に名前を呼ばれた。
「仁科くん……だったわよね?」
振り返ると、黒瀬真理亜が立っていた。
長い髪を後ろで束ね、淡い色のジャケットにパンツスタイル。首からは取材パス、片手には小さな手帳とICレコーダー。声は柔らかいが、視線だけは一切笑っていない。
「彼女のこと、あなたが一番よく知ってるはずよね。少しだけ話を聞かせてもらえる?」
「……何を聞くつもりですか」
「本当のことよ。ただ、世間が納得できる形で、ね」
何気ない一言のようで、その“形”という言葉が胸に引っかかった。
黒瀬さんの質問は一見、事実確認のようだった。「彼女はストーカー被害を受けていた?」と聞くから「はい」と答える。
だが彼女はすぐにペンを走らせながら、「そう“思った”んですね」と言い換える。
「思った、じゃなくて——」
「ええ、気持ちは分かるわ。でも証拠がなければ、それは感想に過ぎないの」
言葉の芯をすり替えられるたび、胃の奥がじわじわ熱くなる。
黒瀬さんは俺の返事のうち、都合のいい部分だけを書き留め、都合の悪い部分は「なるほど」と笑って流した。
そして突然、彼女はスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。そこには記事の下書きが映っていた。
《被害者装う危険人物、過去にもトラブルか》。
文中の引用部分は、さっき俺が言った言葉の一部だけだった。
「……これ、俺はそんなこと言ってません」
「言ったわよ。“危険人物”とは言ってないけど、そう受け取られても仕方ない内容だったわ」
「それは事実じゃない」
黒瀬さんは小さく肩をすくめ、笑みを深めた。
「事実よ。ただ、全部を載せる必要はないの」
「必要がない? それじゃ真実が変わるだろ!」
「変わらないわ。人が信じたい物語に沿ってる限りは」
その言葉は、冷たい氷水のように頭からかけられた気分だった。俺が何を言っても、この女は“世間が喜ぶ形”に塗り直すのだ。
「じゃあ、続きは放送で見てちょうだい」
そう言い残し、黒瀬さんはカメラマンと合流し、規制線の向こうへ消えていった。追いかけようと一歩踏み出した俺の前に、制服警官が立ちはだかる。仕方なく足を止めると、胸の奥にまたあの声が響いた。
——信じて、お願い……。
夕方、彼女から一度だけあった着信の声だ。
通話はすぐに切れ、その直後から彼女はニュースの中で“加害者”として映り続けている。
やり場のない怒りを抱えたまま、《トゥルリエ》へ戻る。
カウンターの中で、名倉マスターが無言でコーヒーを置いてくれた。
香りだけが、少しだけ気持ちを落ち着かせる。
「……見たな、黒瀬を」
奥の席で新聞を広げていた告城さんが、視線も上げずに言った。
「はい。あの人……真実を……」
「真実を捻じ曲げるのが仕事みたいなもんだ」
告城さんは新聞をたたみ、俺をまっすぐに見た。
「事実を掘り起こすのは容易じゃない。だが——やる覚悟はあるか?」
息を吸い、カップを置く。
「……あります」
告城さんの問いに答えた途端、店内の空気がわずかに変わった。
名倉マスターがカウンター越しに、封筒をひとつ差し出す。中には、コピー用紙が数枚。見出しはすべて事件に関する記事だったが、どれも“同じ言葉”で始まっていた。
《警察発表によると——》
「情報の出どころは一つ。そこを押さえれば、歪みの理由も見えてくる」
告城さんの声は低く、だが確信に満ちていた。
その時、スマホが震えた。画面には、非通知。
迷わず通話ボタンを押すと、息を潜めるようなノイズの奥から、あの声がした。
「……助けて……追いかけられてる……」
背筋が凍る。
けれど次の瞬間、通話はぷつりと途切れた。
耳に残ったのは、雑踏の音と、かすかなブレーキ音。
胸の奥で、警鐘のように脈打つ。
これは、時間との戦いになる。