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嘘が正義の世界で、“真実”を叫ぶ明証師  作者: 真野はるえい
第2章:優しい嘘の始まり
3/4

Case03「しんじたかったから」

小さなランドセルと、かすかな声。

あの日、喫茶トゥルリエを訪れた依頼人は──小学四年生の女の子だった。

「……明証師さんって、ここにいますか?」

その瞳に宿るのは、幼さよりも諦めに近い影。

信じることをやめそうな心に、俺たちはどう応えるのか。

あの日、喫茶トゥルリエに現れたのは、赤いランドセルを背負った小学生だった。

けれど、子どもにしては妙に落ち着いて見えて、むしろ……諦めてるようにも見えた。


「……あの、明証師さんって……ここにいますか?」


その言葉に、告城さんが口元だけで笑って立ち上がる。


「へえ、今回はずいぶん若い依頼人ですな」


俺のコーヒーは、すっかり冷めていた。


テーブルに案内して、まずは名前を聞く。


雪村心音(ゆきむらここね)──小学四年生。

声が小さくて、時々聞き取れないくらいだった。

「緊張してる?」と訊ねると、心音ちゃんは小さくうなずいた。


「……お母さんに、ここに行ってきなさいって……」

「困ったら、大人に相談しなさいって言われて……」


震える声。けど、ただの“甘え”とかじゃない。

何か、言うべきことをちゃんと整理してきたような、そんな空気があった。


俺も、告城さんも、余計なことは言わなかった。


ただ、隣で告城さんがぽつりと声をかける。


「ここじゃ、嘘はつかなくていいよ。

話せるところからで、かまわない」


心音ちゃんは、ちょっとだけ顔を上げた。

けど、すぐに視線を落とす。


しばらく沈黙があって、やがて――


「……先生が……わたしの作文、勝手に変えたんです……」


その瞬間、俺の中で“カチッ”と音が鳴った気がした。


嘘をつかない場所で、

いちばん最初についた嘘を──

俺は、見逃したくなかった。


「先生っていうのは、担任の……?」


俺がそう訊ねると、心音ちゃんはまた小さくうなずいた。

その仕草が、まるで“はい”という言葉すら信じてもらえないと分かっている子どものようで、胸の奥がざらついた。


「宇津木……結先生、だよな?」


名前を出したのは告城さんだった。

心音ちゃんは目を見開き、言葉を選ぶように言った。


「……作文コンクールがあったんです。

クラス代表に選ばれるって……言われてたんですけど……」


その声は小さくなっていった。

けど、俺にはちゃんと届いていた。


「ある日、急に“他の子に決まった”って言われて。

理由は、“あの子の方が表現がよかったから”って。

でも……見せてもらった作文、ほんの数行しか書いてなくて……」


「それで……おかしいと思った?」


心音ちゃんは首を横に振った。


「最初は、そんなもんかなって……。

でも、それから……先生の態度が、少しずつ変わって……」


口元が震えた。


言いたくない。でも、言わなくちゃ。

そんな気持ちが、彼女の小さな肩を上下させていた。


「他の子の前では普通なのに……

わたしにだけ、声をかけてくれなくなったんです。

目も、合わせてくれなくて……」


「他にも、似たようなことがあった?」


告城さんがそう聞くと、心音ちゃんは少し考えてから答えた。


「○○ちゃんって子がいて……その子も、授業中に間違えたとき、すごくきつく言われてて……。

でも、□□くんが間違えても、笑って済ませてて……」


断定ではなく、疑いの口調。

その中には明確な違和感があった。


「……なんで、そんなことされるのか、分からなくて。

わたし、先生のこと、好きだったのに……」


最後の一言が、一番痛かった。


好きだったから、疑えなかった。でも“おかしい”が、どうしても消えなかった。

その姿勢があまりにまっすぐで、俺は何も言えなかった。

 

告城さんがゆっくり立ち上がる。

ポケットから手帳を取り出し、ページをめくった。


「ありがとう、心音。

ここからは、俺たちの仕事だ」

 

俺はただ、コーヒーの残りを一口飲んで──

そのぬるさの中に、ほんの少しの苦味を感じた。


──雪村心音。

小さな依頼人。

けれど、きっと、真実は小さくなんかない。


それからしばらくして、心音ちゃんは帰っていった。


帰り際に、ぺこっと頭を下げた姿がやけに小さくて。

ランドセルの赤だけが、鮮やかに目に残った。


俺たちは、たった今、何か大事なことを預けられた気がしていた。


「いや〜〜、とうとう来ちゃったねぇ。小学生の依頼人!」


不意に、隣で告城さんが伸びをしながら言った。

いつも通りの、告城さんだった。


「そんな呑気なこと言ってる場合かよ」


「いやいや、呑気じゃないよ? 大事件の匂いしかしない。

“優等生な先生がやらかしてました”系、いちばんタチ悪いからね」


「……なら、動きますか?」


「そりゃもちろん。

ただし俺は手を抜く主義なので〜」


「嘘つけ。もう情報集め始めてる目してますよ」


「バレた? さっすが涼真くん。見てこの指、既に検索ワード打つ構えしてるから」


スマホ片手に得意げな顔。

いつもなら鼻で笑うところだが、その目は冴えていた。


宇津木結(うつぎゆい)。桜台学院の教員。保護者のウケ良し、校内の評判良し。

完璧すぎる人物像って、逆に作られすぎててキモいよね」


「……口悪っ」


「褒めてんのに。

まあ……そういう“完璧な人間像”ほど、

“汚点”を隠すのも上手なんだよ」


その言葉のトーンが、少しだけ変わった。


笑ってるけど、どこか静かに冷たい。

目の奥に火が灯ってる。


──スイッチ入ったな。


そう思った。


「まずは外堀から崩す。保護者の噂、学校周りの評判、教育委員会の繋がり……」


「直接突っ込むのは?」


「まだ早い。ああいうタイプは、“表の顔”を持ってる人間にしか本音を見せない。

俺たちみたいな外部の人間には、完璧な教師ムーブで対応してくる」


「やっぱ面倒だな」


「面倒だから燃えるんだろ?」


告城さんはニヤッと笑って、残ったコーヒーを一気に飲み干した。


そのとき、俺のスマホが震えた。


着信じゃない、メッセージ通知。

画面に浮かんだのは、あの子の名前。


──《明証師さんって、本当に何でも知ってるんですね》

──《私、ちょっとだけ、安心しました》


短い文章。それだけなのに、ぐっと胸にくる。


「……ったく」


俺はスマホを握り直した。


「告城さん、頼みます」


「言われるまでも。

俺、嘘つきは嫌いなんでね」


その声に、いつものふざけた色はなかった。


翌日。

告城さんはいつものごとく、俺より30分遅れて店に来た。


「いや〜、ごめんごめん。道端でスズメが転んでてさ、助けてたら遅れちゃった」


「嘘が雑すぎるだろ」


「いやほんとだって。あれは心音のスピリットアニマルだったのかもしれん。運命、感じるわ〜」


コーヒーを一口飲んで落ち着くと、告城さんはすぐ本題に戻った。


「桜台学院、職員構成と過去5年の代表作文の選出履歴は洗った。

“選ばれた子”の親、全員が学校後援会の主要メンバーだった」


「やっぱり……癒着、ってやつか」


「正確には“選ばれるべくして選ばれた子”って扱い。

先生の裁量です、って言われたらそれまで。証拠にはならん」


「じゃあどうするんですか。尻尾出さない限り、ただの妄想扱いじゃないですか?」


「まあまあ焦んなって」


そう言いながら、告城さんはスマホの画面を俺に見せた。


そこには、ある保護者が投稿したブログ記事のスクショ。


“子どもが作文を差し替えられたようだが、学校からは曖昧な返答しかもらえなかった”

“宇津木先生は優しい方なので、きっと何か事情があるのだと思います”


「……あれ? これ……」


「心音ちゃんの話と、内容がほぼ一致する。しかも投稿者、別の子の親」


「つまり、心音だけじゃないってことか」


「この親は表立って問題視してないけど、“おかしい”とは思ってる。

それでも名前は出さない。校内で波風立てたくないってやつだ」


俺は思わず頭をかいた。


「評判だけ良いって、怖いな……」


「そう。

そして俺たちが今、戦おうとしてるのは──“正しい”とされてるものそのものだ」


その言葉には、いつもの軽さがなかった。

それだけで、本気だとわかる。


「念のためにもう一人、話を聞いておきたい人がいる」


「誰だよ」


「元・宇津木の生徒。

今は教育ジャーナリストやってる女性。

名前は──如月冴」


「……へえ、そいつも宇津木にやられた口?」


「当時は“救われた”と思ってたらしい。

けど、後になって気づいたんだと。“自分が見てたのは、片側だけだった”ってな」

 

窓の外を見ながら、告城さんはぽつりと言った。


「“信じる”って、やっぱ怖いよな」


「……ああ」


俺は、心音ちゃんの“信じたかった”って言葉を思い出していた。


どんなに優しくされても。

どんなに賞賛されても。

“選ばれなかった子”には、あの笑顔は向けられない。


「会ってみる価値はありますね」


「でしょ?」


告城さんがいたずらっぽく笑う。


「俺たち、真実屋だからさ。

片面だけじゃ、判断できないんで」


 

──数日後。

トゥルリエのドアを開けて現れたのは、スーツ姿の女性だった。


冷静で、どこか研ぎ澄まされたような眼差し。

その瞳には、確かに“かつての子ども”の影があった。


「はじめまして。如月冴です。

宇津木先生には……過去にお世話になりました」


その言い方は、丁寧で落ち着いていた。

けれど、“お世話になりました”の最後の語尾だけ、少しだけ硬かった気がした。


「どうぞ、おかけください」


告城さんが椅子を引くと、如月さんは軽く会釈して座った。


「お忙しいところ、ありがとうございます」


俺が頭を下げると、如月さんは微笑んだ。けれどその目は笑っていなかった。


「正直、学校関係で“宇津木先生”の名前が出るなんて、久しぶりでした。

それだけ、“信じられていた”ということなんでしょうね……皮肉ですけど」


「実際、保護者にも教師にも好かれてるようですね」


「ええ。それは、間違いなく“表の顔”です」


俺と告城さんが一瞬だけ視線を交わす。


如月さんはそれに気づいていたのか、ゆっくりと話し始めた。


「私は、宇津木先生の教え子でした。

当時は“優しい先生”だと思っていましたよ。実際、表面上はとても丁寧でしたし。

褒められる子、結果を出す子には、とても親身だった」


「じゃあ……裏があった?」


「そうですね」


如月さんは少し言葉を選んだように見えた。


「“選ばれなかった子”には冷たかった。

気づかないふり、名前を呼ばない……小さな無視が積み重なって、子どもは“いらない存在”だと思い込む」


俺は言葉を失った。


それは、心音ちゃんが言っていた“声をかけられない”“目を合わせてもらえない”という訴えと、まったく同じだった。


「私も、途中からそれに気づきました。

ああ、私は“あの枠”には入っていないんだ、って」


如月さんは微笑んだ。それは、どこか凍った笑顔だった。


「それでも、大人になるまでは、ずっと“自分が悪かったんだ”と思っていたんです。

でも、教育に携わるようになって……いろんな現場を見てきて、やっと分かりました。

“あれは教育じゃなかった”って。

ただ、“選別”だったんだって」


告城さんが、静かに息をついた。

いつものふざけた空気が、今はどこにもなかった。


「だからこそ、心音さんの話を聞いて、放っておけなかったんです。

きっと、また同じようなことが起きてるって……そう思ったから」


如月さんの声は静かだったけど、確かな決意がこもっていた。


トゥルリエのカウンター席に、もうひとりの“聞き耳”がいた。


「へえ、宇津木って“理想の小学校教師”のアレね。やっぱ裏があったんだ」


黒瀬真理亜はスマホを指で滑らせながら、片眉を上げる。


「理想の教師なんてのは、作られた偶像よ。崩れる音、待ってたくらいだわ」

黒瀬は資料を差し出した。

「整いすぎてて怪しかった。使えそうなら、どうぞ」


そう言って彼女が手渡したのは、黒瀬が独自に入手した教職員評価の内部資料の写しだった。


「……とはいえ、やっぱり直接的な証拠は難しいな」

告城さんが机に手をついて、額に手を当てた。


俺も同じだった。日記や証言はあっても、それが“決定打”にはならない。

相手が教師である限り、立場は圧倒的に不利なのだ。


「もうひと押し……が足りないんですよね」

「うん。何か、突破口になるような……」


「如月冴が表で動いてるなら、私は裏から包囲してあげるってだけ。ふふっ……こういうの、嫌いじゃないのよ」


冷めたコーヒーをくいっと飲み干しながら、黒瀬は満足げに目を細めた。


俺は、テーブルの上で手を組みながら問う。


「証言、記事にできますか?」


如月さんは迷いなく頷いた。


「ええ。できる限りの裏を取って、出します。

ただ──“表”だけを信じる人たちには、届かないかもしれない」 


そのとき、告城さんがふっと笑った。


「じゃあ、俺らが“裏”をひっくり返すよ。

今度は、全部ひっくるめて“真実”にしてやる」


その口ぶりは軽いのに、妙に信じられた。


そして俺は、気づいていた。


心音ちゃんの“疑い”と如月さんの“後悔”は、同じ線でつながっている。

次に必要なのは──証拠。

“やってないとは言わせない”ような、決定的なやつ。


如月さんとのやり取りを終えて、トゥルリエの店内に再び静けさが戻った。

どこか空気は変わっていた。

何かが動き始めた──

そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。


「……本気で動くなら、次は“記録”だな」


告城さんが、ぼそっと言った。


「記録?」


「先生が“何をしたか”じゃなく、“何をされたか”が残ってる方。

生徒側、保護者側の手元。

作文の控え、日記、学校とのやりとり……そういう“証拠”になりうるものがあるはず」


「……心音には、当時の原稿あるかな」


「さすがに本人に聞くのは早い。

でも、もう一人の子──例の“代表を外された”ってブログで触れられてた子。

あの子の親なら、何か残してる可能性ある」


「……心音ちゃんの気持ち、無駄にしたくないな」

「そ」

告城さんはカップをくるりと回した。


「“信じたい”って、いちばん怖い選択だよ。

裏切られたとき、全部、自分が悪いって思っちゃうから」


それは、如月さんが言ってたことと、まったく同じだった。

でも──

「だからこそ、信じた子がバカを見ない世界にしなきゃなんねぇよな」


その一言に、俺は小さくうなずいた。


 

数日後。


俺たちは“もう一人の子ども”に会いに行った。


正確には、母親のほうが先に連絡をくれた。


件のブログ投稿は、告城さんが匿名掲示板を調べて特定した。

そこから割り出した旧姓とSNSの繋がりを辿って、連絡先を確保した。


「こんにちは。……あの、トゥルリエという喫茶店で、“明証師(めいし)”を名乗ってる者です」


俺たちが名乗ると、母親は少しだけ驚いたように眉を上げて、それから静かに言った。


「……やっと、話を聞いてくれる人が来てくれた気がします」


リビングに通され、テーブルには厚めの封筒が置かれていた。

中には、当時の作文の下書き、学校との連絡帳のコピー、そして──

生徒本人が書いた、担任とのやり取りに関する日記。


「うちの子、もう転校したんです。

でも……今も、自分が“失敗した”って思ってるみたいで」


「失敗?」


「作文、頑張ってたんですよ。何回も書き直して。

それなのに、代表が決まった日、“あなたのは表現が平坦だったから外しました”って。

あの子、泣きながら、

“だったら最初から何回も見せなきゃよかった”って言ってて……」


俺は手元のプリントに視線を落とす。


そこには、丁寧に推敲された作文があった。

誤字も直されていて、構成もよく練られている。

確かに、心音ちゃんの作文とも似たような雰囲気がある。


「……似てるな」


「うん」


告城さんも、手に取った日記を閉じた。


「“差し替え”じゃない。

宇津木は、最初から選ぶ子を決めていて、それ以外は“見たフリ”をしてるだけだったんだ」


その瞬間、静かに──

だが確実に、全容がつながった気がした。


俺たちは目を合わせた。


ここから先は、“動く”だけだ。


平日の午後、俺たちは桜台学院の職員応接室にいた。


連絡は、如月さんが繋いでくれた。

表向きは“教育現場について取材したい”という名目。

だが、こちらの意図は察していたのだろう──

宇津木結は、最初から警戒心を隠さなかった。


「お話を伺えるのはありがたいのですが……取材というのは、正式な許可を得ていらっしゃるんですか?」


「一応、教育問題に関わる民間団体という立場で動いてます」

告城さんが、穏やかな声で応じる。


「僕ら、“教育と子どもの声”をテーマに動いてましてね。

先生方が日々どういう現場と向き合っているか、ぜひ知りたいと思った次第で」


その口調は丁寧で、礼儀正しい。

けれど、笑っている目元にだけ、何か別の意図が滲んでいた。


宇津木は眉を寄せたが、すぐに表情を戻した。


「私は、特別なことはしていませんよ。

ただ、生徒たちに真摯に向き合ってきたつもりです」


「ええ。評判は非常に高いですし、保護者からの信頼も厚い。

成績優秀者も多く輩出していらっしゃると聞きました」


「恐縮です」


宇津木は静かに微笑む。

完璧な対応。

それだけに、“仮面”のような無機質さが、逆に際立っていた。


俺は、傍らで告城さんの様子をうかがう。

彼はポケットから一枚の紙を取り出した。


「これ、以前に出された代表作文の選考資料ですね」

「保護者の方が開示請求したものを、一部見せていただいたんですが──」


「……保護者が?」


「ええ。ちょっと気になることがありまして」


そう言って、告城さんはもう一枚、別の紙を出した。

そこには、別の生徒が書いた“代表に選ばれなかった作文”の原稿が並んでいる。


俺たちが調査の中で得た、ふたりの被害者の証拠だ。


「不思議なんですよ。

この二つ、どちらも非常に構成が丁寧で、内容も児童らしい素直な視点で書かれている。

でも、選ばれたのは……こっちじゃない」


宇津木の目が、わずかに揺れた。


「……教師としての裁量の範囲内です。

評価には主観が入るものですし、誰かを選ぶ以上、誰かが選ばれないのは当然です」


「その通り。

だからこそ、選ぶ理由が“説明できるものであること”が求められます」


告城さんは笑っていた。

その声は少しずつ冷たさを帯びていた。


「“作文が平坦だったから”

“他の子の表現が優れていたから”

その言葉で納得できるなら、

僕らもここには来てません」


宇津木は一瞬、黙った。


「……俺たちは、“子どもが信じたこと”を無かったことにされるのが、一番許せないんですよ」


それは、いつもの告城さんのトーンではなかった。

言葉の奥に、静かな怒りがあった。


俺は、ここで言葉を挟んだ。


「子どもって、そういう説明、真に受けるんです。

“自分の努力が足りなかったんだ”って。

それが何よりも──残酷ですよ」


「……そんなつもりはありません」


「そう、“つもり”じゃない。

でも、“結果”がそうなってるんです」


沈黙。


だがその間に、宇津木の目の奥から何かが滲み出てくる。


警戒か、それとも苛立ちか──

いずれにせよ、“完璧な教師”の仮面には、確かにヒビが入っていた。


そして、告城さんが最後の一撃を静かに放つ。


「この件、すでにジャーナリストの如月冴さんにも確認してもらってます。

“かつて、あなたに選ばれなかった生徒”として。

今回の件を通して、記事にさせていただく予定です」


宇津木の表情が、明確に凍りついた。


「……脅しですか?」


「違いますよ」


告城さんは、やんわりと笑う。


「これは、“予告”です。

私たちは事実を集めて、それを“見える形”にする。

あなたが子どもたちにしてきたのと同じことです。

“選ばれた側の言葉”ばかり見せて、“選ばれなかった子”の声を、全部、隠してきたでしょう?」


応接室に沈黙が落ちた。

その中で、ただ一つ、俺は思った。


──これで、ようやく対等になった。


子どもたちが一方的に“評価されるだけの存在”じゃなく、

“声を持つ側”として立てる日が、ようやく来たんだと。


それから一週間も経たないうちに、

宇津木結は“体調不良による長期休職”という名目で、現場から外れた。


校内で何があったのか、保護者たちに詳しい説明はなかったらしい。

けれど、“何か”があったことだけは、全員が感じ取っていた。


後任の教員が発表され、同時に、作文コンクールの選出も“再審査”という形で見直された。


心音ちゃんの名前が、正式に代表として発表されたのは、その翌日だった。


俺と告城さんは、その知らせを受けて、校舎の掲示板を見に行った。


放課後の教室。

掲示板には、子どもたちの描いたポスターや表彰状の中に混じって、

一枚の作文が貼られていた。


白い紙に、丁寧な文字で書かれたその文章は、

どこか震えるような筆跡で──

でも、最後まで真っ直ぐだった。


「わたしは、先生をしんじたかった。

でも、さいごまでしんじきれなかったのが、いちばん、かなしかったです。

でもね、また、だれかをしんじてもいいかもって、すこしだけ、おもいました。」


言葉が、胸に残った。


声にならないまま、喉の奥に何かが詰まる感覚。


隣で、告城さんも同じように掲示板を見つめていた。


そのとき、足音が聞こえた。


振り返ると、心音ちゃんがいた。


制服姿のまま、ランドセルを背負って。

けれど、その顔は──

前に会ったときより、ずっと穏やかだった。


「ありがとうございましたっ!」


小さな声だったけど、はっきりと届いた。


俺は自然に頭を下げた。

何も言えなかったけど、それでよかった気がする。


告城さんは、目を細めていた。


そのあと、心音ちゃんは母親と合流して、振り返らずに帰っていった。


後ろ姿を見送りながら、告城さんが静かに言った。


「小さな依頼人に、大きな勇気を教わったな」


その言葉に、俺はうなずくしかなかった。

本当に、そうだったから。


──そして、数日後。


「……ん? なにこれ」

黒瀬真理亜はスマホの画面に目を留めた。


タイムラインの片隅に流れてきたのは、ある小学校の掲示板に貼られた一枚の作文の写真だった。


そのタイトルは、

《わたしが、しんじたかったから》


“この作文、すごく胸に刺さる”

“うちの子も、こんなふうに感じてたのかも”


誰かが、心音ちゃんの作文の一節を撮って投稿していた。


リポストが伸びていく。

静かに、でも確実に、声が届いていく。


黒瀬は目を細め、コーヒー片手に独りごちる。


「──次は、誰が火種になるのかしらね」

彼女は静かに席を立った。


その頃、どこかの部屋。

薄暗い書斎で、そのポストを見つめる一人の男がいた。


画面には、心音の一節が光っていた。


「しんじたから、いたかった。

でも、しんじたからこそ、今のわたしがいる。」


……その一節が、ずっと胸に引っかかって離れない。


男は、写真立てを伏せたままの机を一瞥(いちべつ)して、スマホを閉じた。


「……俺だって、誰かを守っていいよな」


その瞳の奥に、微かな決意の火が灯る。


そして、次の依頼が──静かに、始まりを告げた。

今回の依頼人は小学四年生の心音ちゃんでした。

小さな肩に背負っていたものは、ランドセルよりずっと重かったかもしれません。


「しんじたかったから」──その気持ちに、俺たちはどう応えられただろうか。

喫茶トゥルリエに流れる時間の中で、ほんの少しでも彼女の心が軽くなっていたなら、うれしいです。


次回は、また別の“真実”が、扉を叩きます。

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