Case03「しんじたかったから」
小さなランドセルと、かすかな声。
あの日、喫茶トゥルリエを訪れた依頼人は──小学四年生の女の子だった。
「……明証師さんって、ここにいますか?」
その瞳に宿るのは、幼さよりも諦めに近い影。
信じることをやめそうな心に、俺たちはどう応えるのか。
▽
▼
▽
あの日、喫茶トゥルリエに現れたのは、赤いランドセルを背負った小学生だった。
けれど、子どもにしては妙に落ち着いて見えて、むしろ……諦めてるようにも見えた。
「……あの、明証師さんって……ここにいますか?」
その言葉に、告城さんが口元だけで笑って立ち上がる。
「へえ、今回はずいぶん若い依頼人ですな」
俺のコーヒーは、すっかり冷めていた。
テーブルに案内して、まずは名前を聞く。
雪村心音──小学四年生。
声が小さくて、時々聞き取れないくらいだった。
「緊張してる?」と訊ねると、心音ちゃんは小さくうなずいた。
「……お母さんに、ここに行ってきなさいって……」
「困ったら、大人に相談しなさいって言われて……」
震える声。けど、ただの“甘え”とかじゃない。
何か、言うべきことをちゃんと整理してきたような、そんな空気があった。
俺も、告城さんも、余計なことは言わなかった。
ただ、隣で告城さんがぽつりと声をかける。
「ここじゃ、嘘はつかなくていいよ。
話せるところからで、かまわない」
心音ちゃんは、ちょっとだけ顔を上げた。
けど、すぐに視線を落とす。
しばらく沈黙があって、やがて――
「……先生が……わたしの作文、勝手に変えたんです……」
その瞬間、俺の中で“カチッ”と音が鳴った気がした。
嘘をつかない場所で、
いちばん最初についた嘘を──
俺は、見逃したくなかった。
「先生っていうのは、担任の……?」
俺がそう訊ねると、心音ちゃんはまた小さくうなずいた。
その仕草が、まるで“はい”という言葉すら信じてもらえないと分かっている子どものようで、胸の奥がざらついた。
「宇津木……結先生、だよな?」
名前を出したのは告城さんだった。
心音ちゃんは目を見開き、言葉を選ぶように言った。
「……作文コンクールがあったんです。
クラス代表に選ばれるって……言われてたんですけど……」
その声は小さくなっていった。
けど、俺にはちゃんと届いていた。
「ある日、急に“他の子に決まった”って言われて。
理由は、“あの子の方が表現がよかったから”って。
でも……見せてもらった作文、ほんの数行しか書いてなくて……」
「それで……おかしいと思った?」
心音ちゃんは首を横に振った。
「最初は、そんなもんかなって……。
でも、それから……先生の態度が、少しずつ変わって……」
口元が震えた。
言いたくない。でも、言わなくちゃ。
そんな気持ちが、彼女の小さな肩を上下させていた。
「他の子の前では普通なのに……
わたしにだけ、声をかけてくれなくなったんです。
目も、合わせてくれなくて……」
「他にも、似たようなことがあった?」
告城さんがそう聞くと、心音ちゃんは少し考えてから答えた。
「○○ちゃんって子がいて……その子も、授業中に間違えたとき、すごくきつく言われてて……。
でも、□□くんが間違えても、笑って済ませてて……」
断定ではなく、疑いの口調。
その中には明確な違和感があった。
「……なんで、そんなことされるのか、分からなくて。
わたし、先生のこと、好きだったのに……」
最後の一言が、一番痛かった。
好きだったから、疑えなかった。でも“おかしい”が、どうしても消えなかった。
その姿勢があまりにまっすぐで、俺は何も言えなかった。
告城さんがゆっくり立ち上がる。
ポケットから手帳を取り出し、ページをめくった。
「ありがとう、心音。
ここからは、俺たちの仕事だ」
俺はただ、コーヒーの残りを一口飲んで──
そのぬるさの中に、ほんの少しの苦味を感じた。
──雪村心音。
小さな依頼人。
けれど、きっと、真実は小さくなんかない。
それからしばらくして、心音ちゃんは帰っていった。
帰り際に、ぺこっと頭を下げた姿がやけに小さくて。
ランドセルの赤だけが、鮮やかに目に残った。
俺たちは、たった今、何か大事なことを預けられた気がしていた。
「いや〜〜、とうとう来ちゃったねぇ。小学生の依頼人!」
不意に、隣で告城さんが伸びをしながら言った。
いつも通りの、告城さんだった。
「そんな呑気なこと言ってる場合かよ」
「いやいや、呑気じゃないよ? 大事件の匂いしかしない。
“優等生な先生がやらかしてました”系、いちばんタチ悪いからね」
「……なら、動きますか?」
「そりゃもちろん。
ただし俺は手を抜く主義なので〜」
「嘘つけ。もう情報集め始めてる目してますよ」
「バレた? さっすが涼真くん。見てこの指、既に検索ワード打つ構えしてるから」
スマホ片手に得意げな顔。
いつもなら鼻で笑うところだが、その目は冴えていた。
「宇津木結。桜台学院の教員。保護者のウケ良し、校内の評判良し。
完璧すぎる人物像って、逆に作られすぎててキモいよね」
「……口悪っ」
「褒めてんのに。
まあ……そういう“完璧な人間像”ほど、
“汚点”を隠すのも上手なんだよ」
その言葉のトーンが、少しだけ変わった。
笑ってるけど、どこか静かに冷たい。
目の奥に火が灯ってる。
──スイッチ入ったな。
そう思った。
「まずは外堀から崩す。保護者の噂、学校周りの評判、教育委員会の繋がり……」
「直接突っ込むのは?」
「まだ早い。ああいうタイプは、“表の顔”を持ってる人間にしか本音を見せない。
俺たちみたいな外部の人間には、完璧な教師ムーブで対応してくる」
「やっぱ面倒だな」
「面倒だから燃えるんだろ?」
告城さんはニヤッと笑って、残ったコーヒーを一気に飲み干した。
そのとき、俺のスマホが震えた。
着信じゃない、メッセージ通知。
画面に浮かんだのは、あの子の名前。
──《明証師さんって、本当に何でも知ってるんですね》
──《私、ちょっとだけ、安心しました》
短い文章。それだけなのに、ぐっと胸にくる。
「……ったく」
俺はスマホを握り直した。
「告城さん、頼みます」
「言われるまでも。
俺、嘘つきは嫌いなんでね」
その声に、いつものふざけた色はなかった。
翌日。
告城さんはいつものごとく、俺より30分遅れて店に来た。
「いや〜、ごめんごめん。道端でスズメが転んでてさ、助けてたら遅れちゃった」
「嘘が雑すぎるだろ」
「いやほんとだって。あれは心音のスピリットアニマルだったのかもしれん。運命、感じるわ〜」
コーヒーを一口飲んで落ち着くと、告城さんはすぐ本題に戻った。
「桜台学院、職員構成と過去5年の代表作文の選出履歴は洗った。
“選ばれた子”の親、全員が学校後援会の主要メンバーだった」
「やっぱり……癒着、ってやつか」
「正確には“選ばれるべくして選ばれた子”って扱い。
先生の裁量です、って言われたらそれまで。証拠にはならん」
「じゃあどうするんですか。尻尾出さない限り、ただの妄想扱いじゃないですか?」
「まあまあ焦んなって」
そう言いながら、告城さんはスマホの画面を俺に見せた。
そこには、ある保護者が投稿したブログ記事のスクショ。
“子どもが作文を差し替えられたようだが、学校からは曖昧な返答しかもらえなかった”
“宇津木先生は優しい方なので、きっと何か事情があるのだと思います”
「……あれ? これ……」
「心音ちゃんの話と、内容がほぼ一致する。しかも投稿者、別の子の親」
「つまり、心音だけじゃないってことか」
「この親は表立って問題視してないけど、“おかしい”とは思ってる。
それでも名前は出さない。校内で波風立てたくないってやつだ」
俺は思わず頭をかいた。
「評判だけ良いって、怖いな……」
「そう。
そして俺たちが今、戦おうとしてるのは──“正しい”とされてるものそのものだ」
その言葉には、いつもの軽さがなかった。
それだけで、本気だとわかる。
「念のためにもう一人、話を聞いておきたい人がいる」
「誰だよ」
「元・宇津木の生徒。
今は教育ジャーナリストやってる女性。
名前は──如月冴」
「……へえ、そいつも宇津木にやられた口?」
「当時は“救われた”と思ってたらしい。
けど、後になって気づいたんだと。“自分が見てたのは、片側だけだった”ってな」
窓の外を見ながら、告城さんはぽつりと言った。
「“信じる”って、やっぱ怖いよな」
「……ああ」
俺は、心音ちゃんの“信じたかった”って言葉を思い出していた。
どんなに優しくされても。
どんなに賞賛されても。
“選ばれなかった子”には、あの笑顔は向けられない。
「会ってみる価値はありますね」
「でしょ?」
告城さんがいたずらっぽく笑う。
「俺たち、真実屋だからさ。
片面だけじゃ、判断できないんで」
──数日後。
トゥルリエのドアを開けて現れたのは、スーツ姿の女性だった。
冷静で、どこか研ぎ澄まされたような眼差し。
その瞳には、確かに“かつての子ども”の影があった。
「はじめまして。如月冴です。
宇津木先生には……過去にお世話になりました」
その言い方は、丁寧で落ち着いていた。
けれど、“お世話になりました”の最後の語尾だけ、少しだけ硬かった気がした。
「どうぞ、おかけください」
告城さんが椅子を引くと、如月さんは軽く会釈して座った。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
俺が頭を下げると、如月さんは微笑んだ。けれどその目は笑っていなかった。
「正直、学校関係で“宇津木先生”の名前が出るなんて、久しぶりでした。
それだけ、“信じられていた”ということなんでしょうね……皮肉ですけど」
「実際、保護者にも教師にも好かれてるようですね」
「ええ。それは、間違いなく“表の顔”です」
俺と告城さんが一瞬だけ視線を交わす。
如月さんはそれに気づいていたのか、ゆっくりと話し始めた。
「私は、宇津木先生の教え子でした。
当時は“優しい先生”だと思っていましたよ。実際、表面上はとても丁寧でしたし。
褒められる子、結果を出す子には、とても親身だった」
「じゃあ……裏があった?」
「そうですね」
如月さんは少し言葉を選んだように見えた。
「“選ばれなかった子”には冷たかった。
気づかないふり、名前を呼ばない……小さな無視が積み重なって、子どもは“いらない存在”だと思い込む」
俺は言葉を失った。
それは、心音ちゃんが言っていた“声をかけられない”“目を合わせてもらえない”という訴えと、まったく同じだった。
「私も、途中からそれに気づきました。
ああ、私は“あの枠”には入っていないんだ、って」
如月さんは微笑んだ。それは、どこか凍った笑顔だった。
「それでも、大人になるまでは、ずっと“自分が悪かったんだ”と思っていたんです。
でも、教育に携わるようになって……いろんな現場を見てきて、やっと分かりました。
“あれは教育じゃなかった”って。
ただ、“選別”だったんだって」
告城さんが、静かに息をついた。
いつものふざけた空気が、今はどこにもなかった。
「だからこそ、心音さんの話を聞いて、放っておけなかったんです。
きっと、また同じようなことが起きてるって……そう思ったから」
如月さんの声は静かだったけど、確かな決意がこもっていた。
トゥルリエのカウンター席に、もうひとりの“聞き耳”がいた。
「へえ、宇津木って“理想の小学校教師”のアレね。やっぱ裏があったんだ」
黒瀬真理亜はスマホを指で滑らせながら、片眉を上げる。
「理想の教師なんてのは、作られた偶像よ。崩れる音、待ってたくらいだわ」
黒瀬は資料を差し出した。
「整いすぎてて怪しかった。使えそうなら、どうぞ」
そう言って彼女が手渡したのは、黒瀬が独自に入手した教職員評価の内部資料の写しだった。
「……とはいえ、やっぱり直接的な証拠は難しいな」
告城さんが机に手をついて、額に手を当てた。
俺も同じだった。日記や証言はあっても、それが“決定打”にはならない。
相手が教師である限り、立場は圧倒的に不利なのだ。
「もうひと押し……が足りないんですよね」
「うん。何か、突破口になるような……」
「如月冴が表で動いてるなら、私は裏から包囲してあげるってだけ。ふふっ……こういうの、嫌いじゃないのよ」
冷めたコーヒーをくいっと飲み干しながら、黒瀬は満足げに目を細めた。
俺は、テーブルの上で手を組みながら問う。
「証言、記事にできますか?」
如月さんは迷いなく頷いた。
「ええ。できる限りの裏を取って、出します。
ただ──“表”だけを信じる人たちには、届かないかもしれない」
そのとき、告城さんがふっと笑った。
「じゃあ、俺らが“裏”をひっくり返すよ。
今度は、全部ひっくるめて“真実”にしてやる」
その口ぶりは軽いのに、妙に信じられた。
そして俺は、気づいていた。
心音ちゃんの“疑い”と如月さんの“後悔”は、同じ線でつながっている。
次に必要なのは──証拠。
“やってないとは言わせない”ような、決定的なやつ。
如月さんとのやり取りを終えて、トゥルリエの店内に再び静けさが戻った。
どこか空気は変わっていた。
何かが動き始めた──
そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。
「……本気で動くなら、次は“記録”だな」
告城さんが、ぼそっと言った。
「記録?」
「先生が“何をしたか”じゃなく、“何をされたか”が残ってる方。
生徒側、保護者側の手元。
作文の控え、日記、学校とのやりとり……そういう“証拠”になりうるものがあるはず」
「……心音には、当時の原稿あるかな」
「さすがに本人に聞くのは早い。
でも、もう一人の子──例の“代表を外された”ってブログで触れられてた子。
あの子の親なら、何か残してる可能性ある」
「……心音ちゃんの気持ち、無駄にしたくないな」
「そ」
告城さんはカップをくるりと回した。
「“信じたい”って、いちばん怖い選択だよ。
裏切られたとき、全部、自分が悪いって思っちゃうから」
それは、如月さんが言ってたことと、まったく同じだった。
でも──
「だからこそ、信じた子がバカを見ない世界にしなきゃなんねぇよな」
その一言に、俺は小さくうなずいた。
数日後。
俺たちは“もう一人の子ども”に会いに行った。
正確には、母親のほうが先に連絡をくれた。
件のブログ投稿は、告城さんが匿名掲示板を調べて特定した。
そこから割り出した旧姓とSNSの繋がりを辿って、連絡先を確保した。
「こんにちは。……あの、トゥルリエという喫茶店で、“明証師”を名乗ってる者です」
俺たちが名乗ると、母親は少しだけ驚いたように眉を上げて、それから静かに言った。
「……やっと、話を聞いてくれる人が来てくれた気がします」
リビングに通され、テーブルには厚めの封筒が置かれていた。
中には、当時の作文の下書き、学校との連絡帳のコピー、そして──
生徒本人が書いた、担任とのやり取りに関する日記。
「うちの子、もう転校したんです。
でも……今も、自分が“失敗した”って思ってるみたいで」
「失敗?」
「作文、頑張ってたんですよ。何回も書き直して。
それなのに、代表が決まった日、“あなたのは表現が平坦だったから外しました”って。
あの子、泣きながら、
“だったら最初から何回も見せなきゃよかった”って言ってて……」
俺は手元のプリントに視線を落とす。
そこには、丁寧に推敲された作文があった。
誤字も直されていて、構成もよく練られている。
確かに、心音ちゃんの作文とも似たような雰囲気がある。
「……似てるな」
「うん」
告城さんも、手に取った日記を閉じた。
「“差し替え”じゃない。
宇津木は、最初から選ぶ子を決めていて、それ以外は“見たフリ”をしてるだけだったんだ」
その瞬間、静かに──
だが確実に、全容がつながった気がした。
俺たちは目を合わせた。
ここから先は、“動く”だけだ。
平日の午後、俺たちは桜台学院の職員応接室にいた。
連絡は、如月さんが繋いでくれた。
表向きは“教育現場について取材したい”という名目。
だが、こちらの意図は察していたのだろう──
宇津木結は、最初から警戒心を隠さなかった。
「お話を伺えるのはありがたいのですが……取材というのは、正式な許可を得ていらっしゃるんですか?」
「一応、教育問題に関わる民間団体という立場で動いてます」
告城さんが、穏やかな声で応じる。
「僕ら、“教育と子どもの声”をテーマに動いてましてね。
先生方が日々どういう現場と向き合っているか、ぜひ知りたいと思った次第で」
その口調は丁寧で、礼儀正しい。
けれど、笑っている目元にだけ、何か別の意図が滲んでいた。
宇津木は眉を寄せたが、すぐに表情を戻した。
「私は、特別なことはしていませんよ。
ただ、生徒たちに真摯に向き合ってきたつもりです」
「ええ。評判は非常に高いですし、保護者からの信頼も厚い。
成績優秀者も多く輩出していらっしゃると聞きました」
「恐縮です」
宇津木は静かに微笑む。
完璧な対応。
それだけに、“仮面”のような無機質さが、逆に際立っていた。
俺は、傍らで告城さんの様子をうかがう。
彼はポケットから一枚の紙を取り出した。
「これ、以前に出された代表作文の選考資料ですね」
「保護者の方が開示請求したものを、一部見せていただいたんですが──」
「……保護者が?」
「ええ。ちょっと気になることがありまして」
そう言って、告城さんはもう一枚、別の紙を出した。
そこには、別の生徒が書いた“代表に選ばれなかった作文”の原稿が並んでいる。
俺たちが調査の中で得た、ふたりの被害者の証拠だ。
「不思議なんですよ。
この二つ、どちらも非常に構成が丁寧で、内容も児童らしい素直な視点で書かれている。
でも、選ばれたのは……こっちじゃない」
宇津木の目が、わずかに揺れた。
「……教師としての裁量の範囲内です。
評価には主観が入るものですし、誰かを選ぶ以上、誰かが選ばれないのは当然です」
「その通り。
だからこそ、選ぶ理由が“説明できるものであること”が求められます」
告城さんは笑っていた。
その声は少しずつ冷たさを帯びていた。
「“作文が平坦だったから”
“他の子の表現が優れていたから”
その言葉で納得できるなら、
僕らもここには来てません」
宇津木は一瞬、黙った。
「……俺たちは、“子どもが信じたこと”を無かったことにされるのが、一番許せないんですよ」
それは、いつもの告城さんのトーンではなかった。
言葉の奥に、静かな怒りがあった。
俺は、ここで言葉を挟んだ。
「子どもって、そういう説明、真に受けるんです。
“自分の努力が足りなかったんだ”って。
それが何よりも──残酷ですよ」
「……そんなつもりはありません」
「そう、“つもり”じゃない。
でも、“結果”がそうなってるんです」
沈黙。
だがその間に、宇津木の目の奥から何かが滲み出てくる。
警戒か、それとも苛立ちか──
いずれにせよ、“完璧な教師”の仮面には、確かにヒビが入っていた。
そして、告城さんが最後の一撃を静かに放つ。
「この件、すでにジャーナリストの如月冴さんにも確認してもらってます。
“かつて、あなたに選ばれなかった生徒”として。
今回の件を通して、記事にさせていただく予定です」
宇津木の表情が、明確に凍りついた。
「……脅しですか?」
「違いますよ」
告城さんは、やんわりと笑う。
「これは、“予告”です。
私たちは事実を集めて、それを“見える形”にする。
あなたが子どもたちにしてきたのと同じことです。
“選ばれた側の言葉”ばかり見せて、“選ばれなかった子”の声を、全部、隠してきたでしょう?」
応接室に沈黙が落ちた。
その中で、ただ一つ、俺は思った。
──これで、ようやく対等になった。
子どもたちが一方的に“評価されるだけの存在”じゃなく、
“声を持つ側”として立てる日が、ようやく来たんだと。
それから一週間も経たないうちに、
宇津木結は“体調不良による長期休職”という名目で、現場から外れた。
校内で何があったのか、保護者たちに詳しい説明はなかったらしい。
けれど、“何か”があったことだけは、全員が感じ取っていた。
後任の教員が発表され、同時に、作文コンクールの選出も“再審査”という形で見直された。
心音ちゃんの名前が、正式に代表として発表されたのは、その翌日だった。
俺と告城さんは、その知らせを受けて、校舎の掲示板を見に行った。
放課後の教室。
掲示板には、子どもたちの描いたポスターや表彰状の中に混じって、
一枚の作文が貼られていた。
白い紙に、丁寧な文字で書かれたその文章は、
どこか震えるような筆跡で──
でも、最後まで真っ直ぐだった。
「わたしは、先生をしんじたかった。
でも、さいごまでしんじきれなかったのが、いちばん、かなしかったです。
でもね、また、だれかをしんじてもいいかもって、すこしだけ、おもいました。」
言葉が、胸に残った。
声にならないまま、喉の奥に何かが詰まる感覚。
隣で、告城さんも同じように掲示板を見つめていた。
そのとき、足音が聞こえた。
振り返ると、心音ちゃんがいた。
制服姿のまま、ランドセルを背負って。
けれど、その顔は──
前に会ったときより、ずっと穏やかだった。
「ありがとうございましたっ!」
小さな声だったけど、はっきりと届いた。
俺は自然に頭を下げた。
何も言えなかったけど、それでよかった気がする。
告城さんは、目を細めていた。
そのあと、心音ちゃんは母親と合流して、振り返らずに帰っていった。
後ろ姿を見送りながら、告城さんが静かに言った。
「小さな依頼人に、大きな勇気を教わったな」
その言葉に、俺はうなずくしかなかった。
本当に、そうだったから。
──そして、数日後。
「……ん? なにこれ」
黒瀬真理亜はスマホの画面に目を留めた。
タイムラインの片隅に流れてきたのは、ある小学校の掲示板に貼られた一枚の作文の写真だった。
そのタイトルは、
《わたしが、しんじたかったから》
“この作文、すごく胸に刺さる”
“うちの子も、こんなふうに感じてたのかも”
誰かが、心音ちゃんの作文の一節を撮って投稿していた。
リポストが伸びていく。
静かに、でも確実に、声が届いていく。
黒瀬は目を細め、コーヒー片手に独りごちる。
「──次は、誰が火種になるのかしらね」
彼女は静かに席を立った。
その頃、どこかの部屋。
薄暗い書斎で、そのポストを見つめる一人の男がいた。
画面には、心音の一節が光っていた。
「しんじたから、いたかった。
でも、しんじたからこそ、今のわたしがいる。」
……その一節が、ずっと胸に引っかかって離れない。
男は、写真立てを伏せたままの机を一瞥して、スマホを閉じた。
「……俺だって、誰かを守っていいよな」
その瞳の奥に、微かな決意の火が灯る。
そして、次の依頼が──静かに、始まりを告げた。
▼
▽
▼
今回の依頼人は小学四年生の心音ちゃんでした。
小さな肩に背負っていたものは、ランドセルよりずっと重かったかもしれません。
「しんじたかったから」──その気持ちに、俺たちはどう応えられただろうか。
喫茶トゥルリエに流れる時間の中で、ほんの少しでも彼女の心が軽くなっていたなら、うれしいです。
次回は、また別の“真実”が、扉を叩きます。