Case02「それは"愛"じゃない」
“娘を救ってください”──
人気料理研究家・西園寺恵美が持ち込んだのは、娘への誹謗中傷に関する依頼だった。
だがその裏には、“家族”という名の仮面が隠されていて……?
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あれは、“家族”という名の仮面をめぐる、ある母娘の話だった。
誰を守りたかったのか。誰が傷つけたのか。
……その真実を“明証”するのが、俺たちの役目だ。
ライトが眩しいくらいに焚かれたスタジオの中で、誰よりも光を放っていたのは、被写体の女子高生だった。
カメラマンの声に応えることなく、彼女は完璧な笑顔を作っていた。
西園寺美羽――今もっとも注目されている高校生モデルのひとり。
真っ白な背景に、パステルカラーの衣装が映える。スタイリストが後ろ髪を直し、スタッフが汗を拭いながらモニターを確認する。
張り詰めた空気の中、ひとつの音がスタジオ全体を凍らせた。
「……なんだよ、これ……」
スタッフのひとりが、タブレットを持ったまま絶句している。
その画面に表示されていたのは、匿名SNSへの投稿。
“アイツの過去、バレたら終わりだろ”
“裏で何やってるか、知ってる人は知ってるよね?”
“#西園寺美羽 #裏の顔 #地元じゃ有名”
静寂が、カメラのシャッター音すら奪った。
数日後、トゥルリエに届いた封筒。
差出人の名は──西園寺恵美。
依頼内容は、ただ一言。
『娘を、救ってください』
この時、俺たちはまだ知らなかった。
“救うべき娘”が、いちばん誰かを傷つけようとしていたなんて──
……俺たちはまだ、この依頼の“本当の意味”に触れてすらいなかった。
トゥルリエに初めて来る客は、扉の前で少し戸惑う。
看板はなく、表札代わりの“証”という一文字が、古びた扉の脇にぶら下がっているだけだ。
でも、その日やって来た女は──迷う素振りすら見せなかった。
「……西園寺恵美さん、ですね」
マスターが、いつもの低い声で出迎える。
女は颯爽と入ってくると、場の空気を一気に塗り替えた。
「素敵な店ですね。お料理もいただけるのかしら?」
パールのピアスに、ハイブランドのワンピース。
指先は調理人らしく荒れていて、そのアンバランスが妙にリアルだった。
この人が──“あの”西園寺恵美?
俺は、思わず唾を飲んだ。
美羽さんの母であり、今やSNS総フォロワー70万の“美人すぎる料理研究家”。
テレビで観たままの笑顔。けど──実物はもっと濃かった。
「さっそくですけど、本題に入っても?」
とびきりの笑顔。けれど、声には棘がある。
この人、誰かを“料理”するのが得意なんじゃ……と、一瞬よぎる。
「娘が……誹謗中傷を受けているんです。しかも、最近は特に悪質で。裏で何者かが動いている気がして……」
「それなら、専門の弁護士にご相談されたほうが──」
「そういうの、時間もお金もかかるんです。何より──この件は、“明証師”でなければ意味がない」
その瞬間、告城さんの目の奥がわずかに揺れた。
表情は相変わらずだ。
けれど、ほんの一瞬だけ、コーヒーを持つ指が止まった。
……何かに気づいたのかもしれない。
「ふぅん……。じゃあ、念のため訊きますけど──何が“明証”されると、あなたは困ります?」
「ふふ……冗談がお好きなんですね」
女は笑った。たしかに笑っていたけど、目だけが笑っていなかった。
その後、コーヒーを一口飲んだ恵美さんは、ついでのように言った。
「ここって……アルバイトの男の子もいるんですね。ふふ、なんだか可愛い」
──俺のこと、だよな?
え、何この感じ? 急に視線が……妙に濃い。
ドンと肩を叩かれて、俺は一歩よろける。
「あ、ごめんなさい。つい、癖で♡」
その笑顔は、さっきまでの告城さんへのものとは明らかに違っていた。
俺はまだ、この人の“本性”を知らなかった。
依頼を受けた翌日、俺と告城さんは都内の撮影スタジオに向かった。
西園寺美羽、18歳。高校生モデルとして今もっとも“勢いがある”存在だ。
現場では、プロ意識と緊張感が張り詰めていた。
そんな中、美羽さんは完璧なポーズと表情を繰り出し続ける。
なのに──どこか、心ここにあらずだった。
「失礼します。明証師の告城です」
告城さんがスタッフに軽く頭を下げ、撮影を見守る。
「SNSでの中傷、数ヶ月前からですよね?」
「はい。最初は軽い悪口でしたが……最近は“身内しか知らないような話”まで出てきて」
スタッフの一人が答える。
そして──誰ともなく視線が美羽の母・恵美に向いた。
彼女はスマホで何かをチェックしていた。
SNSか? 娘の評判か?
その夜、トゥルリエに戻ると、マスターから連絡があった。
「名取朱音……西園寺恵美が出したレシピ本、あれを担当していた編集者だ」
「過去にトラブルで退職したって話ですよね?」
「表向きは“方向性の違い”。でも、本当は──出版前の原稿に問題があったらしい」
俺は名取さんに会いに行った。
彼女は渋い喫茶店で、紅茶を飲みながら俺を見た。
「恵美さんが隠してること? 山ほどあるわよ。
本来あの人、料理なんて趣味でやってただけ。
“美人母”って肩書で娘に便乗してメディアに出たのよ」
「でも、彼女自身の人気も……」
「中身が伴ってない人が、世間に評価された時──歪むのよ」
その言葉には、どこか痛みが滲んでいた。
……この違和感の正体が、徐々に“娘自身”へと向かっていくなんて、まだ考えてもいなかった。
俺は告城さんに報告した。
──そして、驚くことを聞かされた。
「匿名アカウント、文体がずっと一貫してる」
「……それって、誰か一人が投稿してるってこと?」
「もっと言うと──“誰か”じゃなく、“本人”かもな」
「まさか……美羽さんが、自分で?」
「それが事実なら──この件、“愛”なんかじゃない。
彼女は“愛されてない”と感じてる。……ずっとな」
……まだ確信はない。けれど、何かが軋んだ。
「この投稿……何か引っかかるな」
俺は、美羽への誹謗中傷が投稿されたSNSアカウントの画面を眺めていた。
無数の投稿。どれも決定的な侮辱にはならないが、じわじわと心を削る言葉が並ぶ。
──《アイドル気取りで痛い》《料理研究家の娘ってだけ》《どうせ全部ステマ》──
「全部“本人しか知りえないタイミング”で投稿されてる。モデル仲間って線もあるかもなぁ」
「ふーん……“仲間”ねえ」
不意に背後から現れた女の声に、振り返る。
入口には、髪をひとつにまとめたポニーテール姿の女性が立っていた。
「黒瀬真理亜、フリー記者。久しぶりね、明証師さん?」
「また盗聴? 趣味が悪いですなぁ」
告城さんはカウンターに座ったまま、気怠げにグラスを傾ける。
「あなたが動いたってことは、この母娘、ただの芸能ゴシップじゃないってことよね?」
黒瀬さんは告城さんにスマホを見せる。そこには、美羽のスケジュールと誹謗中傷の投稿時間が並べられていた。
「見て。現場入りから投稿までの“間”が10分以内なの。つまり、撮影現場にいた誰か。……もしくは、本人」
「本人が……?」
俺は思わず言葉を飲む。
「でも、母親は“娘を守って”って依頼を──」
「守りたいのは、“母である自分のイメージ”でしょ」
そう言ったのは、もう一人の来訪者だった。
「真柴廉、生活安全課。こっちも勝手に捜査進めないでくれるかな」
現れたのは、スーツ姿の青年。
真面目そうな目元の奥に、どこか冷ややかさが漂っている。
「真柴……今度は警察まで嗅ぎつけてきたか」
「正確には“家庭内トラブルによる誹謗中傷の可能性”で、相談が来てた。おたくらの動きに合わせて確認しただけだよ」
「家族が、娘の足を引っ張る? そんな馬鹿な話──」
俺が言いかけたとき、告城さんが口を開く。
信じたい“絆”ほど、見誤る。
家族という言葉は、ときに最も残酷だ。
「仁科くん、“親子”ってだけで心が通じると思わない方がいい。
……特に、片方が“家族をブランド化”しようとしてる場合はね」
「……!」
「実際、美羽さんは最近──ずいぶん変わってきてる」
思い出したのは、撮影現場で見た美羽の表情だ。
その瞳には、疲れと苛立ち、そして一瞬だけ“怒り”が宿っていた。
さらに、名取さんからの調査報告も届く。
「母親の恵美さん、昔は出版現場でも評判悪かったみたいよ。
気に入ったスタッフにはセクハラ、嫌いな相手にはパワハラ。記事を歪めさせてまで自分の“成功物語”を作ろうとしてたって」
俺の胸に、ざらりとした違和感が広がる。
そして、黒瀬さんが口にする。
「つまり、彼女たちは“加害者”で“被害者”──両方なのよ。
“家族”って名札を使えば、全部が綺麗に見えるとでも思った?」
その言葉に、俺は言葉を失っていた。
告城さんは静かに呟く。
「……さて。そろそろ、本当に守りたかったものを聞きに行きましょうか」
人気料理研究家・西園寺恵美の自宅。
そのキッチンは、テレビの中と同じく、完璧に整えられていた。
「まさか、誹謗中傷の主が……自分の娘だったとはね」
名取さんが、どこか悔しそうにそう呟いた。
……ずっと、心のどこかで叫んでたんだろう。
誰にも届かない、自分だけの言葉で。
「……違う。私は、ただ、ママが間違ってるってことに気づいてほしかっただけで……!」
美羽の声が震える。膝の上で握りしめた指は、白くなるほど力がこもっていた。
「私の努力も、苦しみも……“ママのため”じゃない。誰かの“踏み台”になるために、頑張ってきたわけじゃない……!」
恵美さんは、美羽の目を見られなかった。
「……守りたかったんじゃないですか。娘さんじゃなくて、『料理研究家・西園寺恵美』という自分の“看板”を。」
静かに、しかし確かに言葉を突き刺すのは告城さんだ。
その言葉に、恵美さんの肩が小さく揺れた。
「私……そんなつもりじゃ……」
「“そんなつもりじゃなかった”は、便利な言い訳ですから」
そう言って、恵美さんにハンカチを差し出した。
――沈黙。
その場を見守っていた真柴さんが、眉間にしわを寄せながら呟いた。
「これは……逮捕案件ではないな。動機も、構造も複雑すぎる」
すかさず、後ろからフラッシュがたかれそうになるのを、告城さんが無言で手を伸ばして遮る。
「……撮るなら、もっと綺麗な“愛”の方をどうぞ。これは誰も得しませんよ」
「……チッ。あなた、やっぱりただの正義の味方じゃないわね」
黒瀬さんが舌打ちしながらカメラを下ろす。
あの目は──まだ、続きを追いかけようとしているように見えた。
告城さんはわずかに口角を上げて、グラスの氷をかき混ぜた。
「正義? 俺は、そういうの担当してないんで」
どこまでも軽い口調で、封筒をポンと机に置く。
けれど、その音は妙に重たく感じられた。そこには、美羽の自作自演の証拠と、母のすれ違いの記録が綴られていた。
封筒は、誰の手にも取られず、そこに置かれたままだった。
……俺も、開こうとは思えなかった。
撮影スタジオで初めて見た、美羽さんのあの笑顔。
あれはきっと、“守られている”子どもの顔じゃなかった。
誰にも頼れないまま、ずっとひとりで立ち続けてきた──そんな目をしていた。
守るって、なんなんだろうな。
“正しい”ってなんなんだろうな。
彼女を救ったのは、真実だったのか、それとも──嘘だったのか。
俺には、まだ答えが出せない。
──夜。
トゥルリエのカウンター席で、いつものようにコーヒーを啜る。
「ふぅ……事件は解決したけど、後味って意味じゃ……今回、ダントツで苦いっスね」
「コーヒーの話か、人生の話か、どっちですかな」
「どっちもっスよ。ほんと……」
思わず天井を仰ぐと、店内の灯りが柔らかく揺れていた。
静けさが、心の奥をじわりと満たしていく。
「あの娘の涙、嘘じゃなかったと思いますよ。
あの“本音”が、彼女の救いだったんじゃないですか」
「嘘も真実も、扱う者しだいですな。……どちらも人を救えるし、傷つけもする」
「深いこと言うなあ……あ、俺、いま名言っぽいの出ました?」
「0点ですな」
「くっそ~!」
思わず笑ってしまったその瞬間、扉のベルがカランと鳴った。
──静かな足音。
ドアの向こうから現れたのは、一人の小学生だった。
ランドセルを背負い、けれど表情は妙に落ち着いている。
「……あの、明証師さんって……ここにいますか?」
「へえ、今回はずいぶん若い依頼人ですな」
告城さんが口元だけで笑いながら立ち上がる。
俺のコーヒーは、すっかり冷めていた。
──次回、Case.03「小さな依頼人」
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今回も最後まで読んでくれて、ありがとうございます!
“愛”って言葉、便利だけど、雑に使うと誰かを傷つけることもあるんスね。
……少しだけ、分かった気がします。
ではまた、喫茶トゥルリエで。
仁科