灰の静寂
扉が破られる音はなかった。だが、冷気のような気配がアジトの空間に忍び込み、息を潜めていた空気が震えた。
「気配が複数いる。こっちの動きを窺ってやがる。」
猟犬が低く呟き、俺は肩越しに頷いた。刃を構えたまま、足音が近づくのを待つ。
アジトは完全に無防備ではない。侵入口の一つには猟犬が仕掛けた簡易の罠があるし、抜け道もひとつだけ用意してあった。だが、それも時間稼ぎにしかならない。
遼はまだ意識を取り戻していない。荒い呼吸のたびに、その胸がかすかに上下している。あれが止まれば、俺たちの行動は全て無意味になる――そう思いながらも、不思議と焦りはなかった。
俺にとってこれは任務でも義務でもない。ただ……縁があったというだけの話だ。
「正面じゃねぇ。左の壁……抜かれるぞ。」
猟犬の声と同時に、金属の壁が鈍く鳴った。鉄板が歪み、内側から黒い指がぬっと突き出される。
即座に俺は飛び込んだ。壁を突き破る前に、その腕を斬り落とす。肉を断つ感触はあまりに軽く、相手がまだ完全に実体化していないことがわかった。
「実体を持たねえ敵か……厄介だな。」
断面から煙のような何かが噴き出し、部屋中に広がっていく。猟犬が何かを投げつけ、煙に火がついた。炎は瞬間的に広がり、影の存在をあぶり出す。
その輪郭は人ではなかった。異形――いや、化け物だ。腕が四本、目がなかった。
「お前ら……遼に何の用がある。」
返事はなかった。ただ、燃え盛る中でその化け物が笑った気がした。
俺は飛び込む。炎の中に躊躇なく身を投じ、不死の体を盾にして斬りかかる。斬られ、焼かれ、崩れても、俺の体はまた動き出す。
死んでも、どうせ生き返る。
「いいぜ……何度でもやってやるよ。」
燃える灰の中で、刃を突き立てるたび、敵は少しずつ形を崩していった。
だが――倒した手応えはなかった。
闇の中から、別の影が音もなく現れる。その目も顔もない存在が、遼を見ていた。
何かが、確かに狙っている。ただの命ではない“何か”を。
遼の秘密は、まだわからない。だが、放っておけば、この街ごと飲み込まれる気がした。
「……ついでにしては、厄介すぎるな。」
そう吐き捨てながら、俺は次の斬撃に備えた。