第十六話 貴方が好きです
バーバラが初めてエドガーと出会ったのは、五歳の時だった。
あれは、家で困窮している者達の支援をしていた時。孤児院で炊き出しを行っていた場所でのことだ。
この先長い付き合いになるとは思わなかったダリオに突っかかられた後、エドガーはにこにこしながら告げてきた。
「君は、すごいな!」
きらっきらと。穢れも知らない子供の様な目で――実際子供だったが――言ったのだ。
「僕も、君のようにカッコ良い『ぎぜんしゃ』になれるようにがんばるよ!」
何を言い出したのだろうと思った。
偽善者とは、まさかダリオが言い放ってきたことを指しているのだろうか。
確かにバーバラも、ただの見せかけの親切よりは心のこもった偽善者になる方がよほど良いと思ったが。
まさか、それを目標にされるなんて思いも寄らなかった。
後から、両親に彼は第二王子のエドガーだと教えられた。
変な王子だ。
その時の彼への感想はそれだけだった。
けれど。
「やあ、バーバラ! きぐうだね!」
時折、炊き出しで彼に会う様になった。
最初はただの好奇心で孤児院に来ているのだと思っていた。
けれど。
「兄上。畑のさくもつに元気がないよ」
「おや。それじゃあ、ロミオ。お前の家の力を借りて良いかな?」
「よろこんで、マシューでんか」
「兄上。ここはとてもあるきにくいよ。さっき、つまずいちゃった」
「おや、本当だな。……ここはお年寄りも多いし、子供も学校へ行く通り道だ。もう少し整備した方が良いな」
「兄上。あそこの人たちがこわいよ」
「おや。……兄に任せておけ」
一つ一つ。
本当に一つ一つ。彼は、埋めていく様に綻びを指摘していった。
ただ好奇心で来ているだけではない。彼も心から何かをしたいと。力になりたいと。そう思って動いている。
何より。
彼の笑顔は、あったかかった。
誰も彼もが、彼と一緒にいると笑っている。
疲れている人も、沈んでいる人も、悲しんでいる人も、彼と何か話した後は少しだけ笑顔が戻っている。
彼は不思議な人だ。バーバラには出来ないことをする。
それから、バーバラは彼を目で追う様になった。
けれど。
彼が八歳の時から二年間、交換留学で他国に行ってから状況が変わった。
バーバラは色んな者からストーカーまがいのことをされる様になった。
ただ後を付けられるだけなら良い。盗み撮りした写真。血染めの手紙。毒の入った食べ物。わざと壊した贈り物。髪や爪が入った袋。
そして。
「――あなたを、一人の女性にしてあげよう」
パーティで無理矢理人気のない場所に連れ込まれ、襲われそうになったこと。
すぐに両親や護衛、警備の人間が気付いて事なきを得た。
それでも、もうバーバラは男性が恐かった。恐ろしかった。近付かれるだけで吐いた。
辛うじて父と弟だけは大丈夫だったが、一時期は執事であるじいやをはじめとする使用人も駄目だった。
外にも出られなくなった。ずっと行っていた支援も出来なくなった。
ぬいぐるみを抱き締め、ただただ暗い部屋で過ごす日々。
そんな時だ。彼との婚約話が持ち上がったのは。
両親も、バーバラが彼にほのかな思いを抱いているのは知っていた。彼なら無体を働かない。何とかしてくれる。藁にも縋る思いだったのだろう。
バーバラも同じ心境だった。
彼なら、この真っ暗な恐怖から救い出してくれるのではないか。希望を抱いた。
でも、駄目だった。
彼でも、駄目だった。
目が合って。ぱあっと光の様に笑った彼を見て。
〝あなたを、一人の女性にしてあげよう〟
発狂しそうになった。
彼が男。ただそれだけで。
彼は悪くないのに。
彼はバーバラの反応に、確かに傷付いていた。
それなのに。
「――君を愛することはない」
放たれた一言は、どこまでも底冷えするほどに冷たいものだった。
蔑んだ視線。軽蔑する様な表情。温度など何も感じられない態度。
だが。
「だから、安心して嫁いで来い。泣いてすがり付いてきても、君には一切触れてはやらないからな」
それは、彼の精一杯の心遣いだった。
バーバラは悟った。この人は、どこまで優しいのか。
だから。
「――もちろんですわ、殿下」
この人しかいない。
感謝を込めて、持ち得る限りの技量を駆使し、とびっきりの優雅なカーテシーを捧げた。
帰ってから、両親が不安まじりに「良いのか、本当に」と確認してきた。彼の態度が予想外だったためだろう。
「お父様、お母様。殿下は、わたくしを救ってくださったのですわ」
触れることさえしない。
そう宣言してくれたのは、あらかじめ彼もバーバラの境遇を聞き知っていたからだろう。彼に全てを知られていると思うと顔から火を噴くほど恥ずかしかった。だが、それを知るのが彼で良かったとも思った。
両親ははじめ、バーバラの言葉に疑心暗鬼になっていたが。
「……お前が言った意味が分かったよ」
馬車に乗る時、彼は必ずバーバラが乗ったのを確認してから乗り込んでくる。
その時の表情を、両親は見たのだと言う。
「お前がよたついた時、口を開けて飛び上がりそうになっていたよ」
「貴方が無事に乗り込んだ時、殿下はほっとしたような顔をしていたわ」
バーバラの見えないところで、彼は案じてくれている。表情を出してくれている。
それを知って、バーバラはこっそりベッドの中で泣いた。これだけ優しくしてくれる彼に、何も返せないことが苦しかった。
いつか。いつか。
いつか。
彼に触れたいと思う時が来たら、彼に告げられるだろうか。
少しずつ。本当に少しずつ。
彼の冷たい言葉の裏の熱を感じるたび、バーバラの恐怖は溶けていった。
未だに男は嫌いだが、彼だけには嫌悪を感じることはなくなった。
恐怖が薄れてきた頃から、彼を名前で呼ぶ様になった。
初めて呼んだ時、彼は冷たい表情を崩してあからさまに動揺していた。すぐに冷徹な仮面に戻ったが、それだけでバーバラには充分だった。
しかし。
――どの口が、彼に愛を告げられるのだろう。
だんだんと恐くなってきた。
これだけ散々彼を傷付けておいて、今更バーバラは言うのか。彼を慕っている、と。
言わなければならないことは分かっている。現在進行形で彼を傷付けている。
彼から、好きだと言えるはずもない。
最初に拒絶したのはバーバラだ。それを彼は受け入れた。そんな彼が間違っても、口が滑っても、バーバラに好きだと告げられるはずがない。
だから、バーバラから伝えなければならない。
分かっている。告げたい。早く謝りたい。
けれど。
本当に、いつも告げられている言葉が真実になっていたらどうしよう。
――君を愛することはない。
それが、いつの間にか事実になっていたらどうしよう。
春になったら。三年生になったら。次のテストを終えたら。パーティを終えたら。――卒業式になったら。
どんどんどんどん先延ばしにしていって。
臆病だったから。
「ばー、ばら。君を、僕は」
こんなに苦しそうにさせてしまった。
「……っ。君を、……愛する、……こと、は……っ!」
――こんなに、彼を追い詰めた。
この先を言わせてはいけない。
どこまでも優しすぎる彼に、残酷な続きを口にさせてはいけない。
「お慕いしています」
気付けば、口にしていた。
一度口にしてしまえば、もう止まらない。
「お慕いしています、エドガー様」
――貴方が好きです。
ずっと、それこそ幼い頃から。
婚約者になってから、己を犠牲にしてまで、心を殺してまで守り切ってくれた彼が。
「貴方を、お慕いしていますわ。エドガー様」
自分から彼に触れ、バーバラは真っ直ぐに積年の思いをぶつけた。
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