08.殿下、それはラーメンです
地下鉄の駅は帰宅途中のサラリーマンでごった返していた。こんな混雑にロイを付き合わせるなら近場のスーパーにした方が良かったかもしれない。
人の波に押し潰されそうになりながら振り返った私の手を、グッとロイが握り締めた。
「ーーーっ!」
「メイ、ここは戦場か?」
「戦場?」
「制服を着た男がたくさん居る…どこの軍隊だ?」
「いえ、彼らは軍隊ではなくて…」
眉間に皺を寄せて訝しむロイを落ち着かせるために、とりあえず一度地上へ戻ることにした。このまま満員電車に乗ってもきっとライフを削るだけだし、都会慣れしていない彼を連れ回すことは気の毒に思える。
どういうわけか繋がれたままの右手を気にしながら、なんとか階段を登って地上へと顔を出す。これからどうしようかとロイの顔を見つめていると、道路を挟んだ向かいに赤い暖簾を引っ提げた中華料理屋を見つけた。
「ロイさん、麺って食べられますか?」
「……めん?」
首を傾げるロイの手を引く。
うん、ボランティアだと思えば、この繋いだ手も意識する必要はない。介護で車椅子を押すようなものだし。この大都会東京で彼が再度迷子にならないためにも、繋いだ手を離さずに私がロイをリードするべきだろう。
古びた暖簾を潜って店の扉をスライドした。この街に数年住んでいるけれど、あまりにも駅近なので行ったことがない店だった。店内は年季の入った中華料理屋が大抵そうであるように、少し薄汚れた壁に長方形の紙が貼られて、ラーメンやチャーハンといった定番のメニューが書き出されていた。
案内された席に腰を下ろして、戸惑うロイを観察する。
「ロイさん、ここは中華のお店です」
「ちゅうか……」
「ラーメンとチャーハンを一つずつ頼むので、気に入った方を食べてください」
「ほう」
重々しい顔で頷くロイを前に、簡単にチャーハンとラーメンについて説明する。卵と炒めた米、という表現にパッと顔を輝かせたのでどうやらチャーハンには興味を持ったようだ。
客で賑わっているわりに提供は早く、私がラーメンの説明を終える頃にはテーブルの上に熱々の湯気を上げたラーメンとこんもりと盛り付けられたチャーハンが並べられた。
「……おお!」
スンスンと匂いを嗅ぎながら、ロイは嬉しそうな声を上げた。
「伸びる前に食べちゃいましょう」
取り皿の上に少しだけラーメンを取り分けて、ロイの元へ差し出す。と、そこまでやったところで彼が箸を使えないという事実を思い出した。
泣きそうな顔で割り箸に麺を引っ掛けようとする王子を見て、可哀想になったので、店員に頼んで子供用のフォークをもらってレンゲの上でパスタのように巻いてみる。
「はい、どうぞ」
くるくると巻いたラーメンを乗せた状態でレンゲを渡そうとすると、ロイは目を閉じて大きく口を開けた。
「……?」
「早くしろ」
薄らと目を開けて催促するものだから、仕方なく開いた口にレンゲを突っ込んだ。もごもごと口が動いた後に満足そうに笑うから、きっとお気に召したのだろう。
その後、自分も食べつつ、チャーハンやラーメンを忙しなくロイの口に運んでいたら、気付くと皿は空になっていた。
「なかなか美味かったな!」
大きな独り言に厨房からは店主の笑い声が返ってきた。
会計を済まして店を出ると、辺りは暗くなっていた。
虫の鳴き声がする線路沿いをロイと並んで歩きながら、私はロイによるシルヴェイユ王国の食文化講座に耳を傾けていた。どの時代に存在する国なのか不明だけれど、中華料理は未知との遭遇だったようだし、まだ異国の文化が入って来る前なのだろうか。
「明日から土日で時間が取れるので、元の世界に帰る方法をじっくり考えましょうね」
「そうだな。まあ、俺的にはもう少し居候したいが…」
「え…?」
意外な返答にドキッとする。
「今日食べたラーメンとやらは美味しかった。どうせなら、この世界の美味いものを全部食い尽くしてから帰りたい」
「……ああ、なるほど」
食に惹かれたという話か。一瞬でも居心地の良さを感じてくれたのかもしれないと期待しためでたい頭をしばきたい。でも私なりに一生懸命おもてなしを施したつもりなのだ。
帰り道の途中であったコンビニに寄って、アルコールを数本とサラミなどのつまみを買い込んだ。シルヴェイユ王国の飲酒事情は知らないけれど、最後の夜になるならば、少しぐらいロイと語り合っても良いと思った。
そんな私の気持ちも露知らず、呑気な王子は線路を走る電車に手を振って見送っていた。