05.殿下、それは納豆です
「………ん、」
暑い。めちゃくちゃ暑い。
熱中症対策のために就寝中のエアコン付けっぱなしを推奨する番組をテレビで見て以来、26度で固定したまま寝ているのに、何故こうもベッタリした暑さを感じるのだろう。
まるで、背中に大きな猫を背負っているような。
「……は?」
私の腰に巻き付くこの二本の腕はいったい何。グッと首を捻って振り向くと、スヤスヤと寝息を立てる健やかなロイの寝顔が目に入った。
「っほわっちゃ!?」
「ーーーーっ!」
思わず顔面を両手で強く押すと、痛がるロイはベッドから落ちてフローリングの上を転がって行く。
待って。記憶を整理しよう。
昨日はシャワーを浴びた後、ロイに就寝の挨拶を告げてスライドドアを閉めた。幸い、リビングにも隣の洋室にもエアコンは設置されているから、彼が暑がって私の元へ来た可能性も低い。枕の下に手を突っ込むと、小ぶりな果物ナイフはまだそこにあった。スッと取り出して胸元に抱くと、それを見たロイは怯んだように後退する。
「待て!これには事情が…!」
「どんな事情ですか!夜這いなんて犯罪ですよ…!」
「夜這いじゃない、断じて!」
「じゃあ何で貴方がここに居るの!?」
「それは本能的に…人肌を求めて……」
「はぁ…!?」
理解不能な言い訳を口にするロイの後ろでは、カーテンの隙間から差し込む日差しが朝の到来を教えている。
今日は金曜日。
燃えないゴミを出す日。
時計を見て時刻を確認しつつ、ロイへの説教は後に回すことにした。ここで、くどくどと彼を詰めたところで一日の始まりを台無しにしてストレスを溜め込むだけ。別に何かをされた様子はないし、存在自体がファンタジーな彼を普通の男として扱う方がおかしいだろう。従って、一旦保留。
「7時半です。準備してください」
「何の?」
「朝食を用意するので、貴方は先に洗面所へどうぞ」
「おお!俺は朝は紅茶と林檎をひと齧り…」
何を勘違いしているのか、リクエストを飛ばして来る男を洗面所まで押しやって、私は台所へ立った。ロイの準備がどれだけ掛かるか分からないので、もうここで顔は洗ってしまおう。
シャコシャコと歯磨きをしながら、冷蔵庫の中身を確認する。納豆が二つとウィンナーが数本、あとは卵があるから目玉焼きかスクランブルエッグにして。異国の彼はやはりパン派なのだろうか?でも、昨日はのり弁を完食していたし白米NGでもないのだろう。
「おーい」
ぴょこっと顔を覗かしたロイを見る。
「何ですか?」
「タオルがもうない」
「え?」
驚いて駆け込むと、棚の上に重ねていたフワフワのタオルはすべて床に無惨に広げられていた。水浸しの洗面台を見ながら怒りが込み上げて来る。
「あの………」
「おん?」
「加減して水を出してください。勢いよく出し過ぎるとこのように水が跳ねます」
「だろうな」
「………、」
大丈夫。この迷惑な男は確実に明日には家を去る。
怒鳴り散らしそうになるのを何とか堪えて、ぎゅっと拳を握った。「だろうな」じゃなくて謝罪だろう、ここは。
「お化粧するのでテレビでも見ててください」
リビングに戻るように指示を出すと、口笛を吹きながらのろのろと歩いて行った。
その後ろ姿を見送って、洗面所の扉を閉める。棚の中からメイクポーチを取り出すと、簡易的にベースメイクを施して、ファンデーションを叩いた後に薄くシャンパンベージュのアイシャドウをブラシで塗った。家で仕事するだけなのでアイラインは省略。最後の仕上げで色付きのリップを付けて終わり。
ものの5分程度で済んでしまうので、我ながら早い方だと思う。一人で待たせている王子の様子が気になったので、手櫛で寝癖を直しながら足早に洗面所を出た。
「なんで俺の運勢が大凶なんだ……?」
相変わらずテレビ相手に会話を試みている可哀想なロイを一瞥して、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出す。テレビ画面の中では今日の星占いが映し出されていて、どうやらシルヴェイユ王国の王子は乙女座のようだ。
グラスと箸、そして念のためロイにはフォークとスプーンを机の上に並べる。目玉焼きを焼きながらフライパンの隅っこでウインナーを転がした。
「もうすぐ出来るので座ってください」
「お前の席は?」
「私はキッチンで立ったまま食べます」
「なんかそれも悪いな…」
彼にしては珍しく、申し訳なく思ったのか、暫く黙り込んだ。唸りながら何か思案した後、ハッと閃いたような顔をする。
「……もう一脚椅子を買えば良いのでは?」
「いや、貴方が元の世界に戻るまでの我慢ですから」
大した名案でもないのに無駄に待たされたので若干の苛つきを覚えながら、冷凍ごはんをレンジに二つ入れて温めを開始した。
待っている間に納豆のパックを開けて、付属のタレを掛けたら小さな豆の粒たちを箸で練る。
「それは……それは、一体なんだ…?」
「納豆ですけど?」
「え、食べるのか…?腐ってるだろ完全に…」
ドン引きするロイに白い目を向ける。異国の人たちが納豆に抵抗感を覚えるのはよく聞く話だけれど、それは異世界の人であろうと同じらしい。
「挑戦してみますか?身体に良いですよ」
「お前は王族である俺に腐った食べ物を勧めるのか…?」
言いながらも健康的という言葉に惹かれたのか、恐る恐る近付いてくるから、スプーンで掬って口元まで持って行ってみた。
ヒッと短い悲鳴を上げてロイが顔を逸らす。
「あれだな、一週間風呂に入ってない兵士の足みたいな臭いがする……」
「………、」
食べないくせに人の食欲まで爆下げする発言にげんなりした。べつに無理してチャレンジしてもらう必要もないので、私は納豆をテーブルに置いて、温めたごはんを器に盛り直すと、その他のおかずと共にロイの前に並べる。
「いただきます。はい、復唱」
「……いただきます」
彼自身の食欲も低下したのか、やや暗い表情をしたままでウインナーにフォークを指す端正な顔立ちを見つめた。早く元の世界に帰ってほしい気持ちは勿論あるけれど、こうして家で誰かと一緒に食事を囲むのは久しぶりで、少しだけ浮き足立っているのも本当。