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女人国と、八戒の腹痛

 ぎいこ、ぎいこ

 居酒屋の老女がかいで船をいでいる。


 悟空らを乗せてずっしりと重くなった船は時折、ゆるやかな流れに船首をもっていかれそうになりながらも、対岸の居酒屋へ向かって復路を進む。


 首から上を水面に出して船と併泳しているのは、玉龍だ。


『こんな立派なお馬様、乗ったら船が沈んじまいますよ。これくらいの流れなら、お馬様は泳げます。手綱だけしっかり握っていておあげなさい』


 居酒屋の老婆がこう言ったからだが、玉龍は不服そうであった。泳ぎながら、ちらりと老婆を見る目つきにどことなくけんがある。


 河の水は澄んでおり、川底の石の形がはっきりと見える程に美しい。


 船の縁から身を乗り出し川面を見つめる八戒が、だらだらとよだれを垂らす。


「わあ……美味しそうな黒豚が見えるよ兄貴ぃ」


「てめぇのつらだよ馬鹿豚」


 渡河の最中で空服の限界を超えた八戒は、川面に映った己の顔を豚の丸焼と勘違いしていた。

 居酒屋の老女が、きゃっきゃと甲高い笑い声を上げる。


「お客さん。そんなにお腹がお空きなら、ここのお水をのんでごらん。甘くて美味しい上に、腹まで膨れるって評判だよ」


「水なんぞでこいつの胃袋が膨れるかよ……」


 悟空が憮然と呟いたが、既に八戒は川面に頭を突っ込んでいた。ゴブゴブゴブと豪快な音を立てて河の水を飲むこととお程の間。

 水中から顔を上げた八戒は、「ぷはあ」と満足げな息を吐くと、腹いっぱい食べた時のような格好で船底に腰を落ち着けた。


「うんまあ、悪くは無い」


 幾分張った出腹をさする。


「水っ腹も大概にせぬと、腹痛を起こすぞ」


 呆れた悟浄が注意をしたその時、老女がにやりと悪質な笑みを浮かべた。

 その様子にぞくりとしたものを覚えた沙羅は、すぐに船から飛び出せるよう腰を浮かせつつ、老女に質問する。


「お婆さん、どうしてこんなところで商いしてるの? 客なんか来ないでしょ」


「それはこっちが聞きたいねえ」


 答えた老女は、口元の笑みを一層深くした。乾いた唇がうっすらと開き、そこから黄色く擦り減った歯が見える。


「旦那方は、随分前にこの川を渡って天竺てんじくへ行きなすったはすじゃが、なぜまだ東から来なさった?」


 これを聞いた悟空が、血相を変えて立ち上がる。


「なんだと! やっぱりオメエ、妖魔か!」


 悟空が老女を打ちすえようと如意棒を振り上げた次の瞬間、後ろに座っていた八戒が「うーん」と唸る。


「いたたたた! 痛いい! お腹が張り裂けそうだよぉ!」


「あっ! ホレ見ろいやしんぼめ! 冷たい水はぽんぽんに良くないと言ったではないか!」


 うずくまって苦しむ八戒に、悟浄が玉龍の手綱を放して駆け寄ろうとする。

 悟空が「ちょっと待て!」と制した。


「おい悟浄。この展開はまさか……」 


 言いながら悟空は、おそるおそる老女を見る。


「むっ!」と察した悟浄が、老女の頭巾をさっとぎ取った。

 

 悟空、八戒、悟浄の三人は、顕わになった老女の顔を見て絶句する。ついでに併泳していた玉龍までもが、驚きのあまり水をかくのを忘れてゴボリと水中に沈んだ。


「きゃきゃきゃ! や~いひっかかった~。カモがひっかかったぞ~」


 正体を現した老女が、ガニ股でご機嫌に飛び跳ねる。

 船が大きく揺れて河の水が服を濡らしたが、悟空らはもはやそれどころではなかった。


「あー! やっぱりオメエ、あの時の下剤ババア!」


「なんと! するとこの河は子母河しぼがか!」


「えー! それじゃあここって女人国にょにんこく!?」


 三蔵の弟子達は、かつて西方への旅の途中で三蔵と八戒をはらませた因縁の河と、女だらけの国の名を口にした。

 悟空が言った『下剤ババア』とは、『落胎泉らむたいせん』という堕胎効果がある泉の水の存在を悟空に教え、三蔵と八戒の堕胎を助けた居酒屋の女主人の事である。

 堕胎効果というが、それは子母河の水を飲んで宿った腹の子を溶かして肛門から出すという、恐ろしい薬効であった。


「師父ー! こっちに来てはなりませぬー! はらんでしまいますぞー!」


 悟浄が、東へ向かって大声で叫ぶ。


「聞こえるわきゃないでしょどんだけアホなのよ!」


 沙羅はすっかり取り乱している一行を一喝した後、さっさと船を岸に付けるよう老女に要求した。


「とにかく三蔵に注意してやらなきゃ! あたしが行ってくる!」


 岸に向けて飛び出そうと船の縁に片足をかけたまではいいが、後ろから八戒にかじりつかれて止められてしまう。


「放せ豚!」


「行かないでよ沙羅ちゃん~! 何だかとっても不安なのよぉ! とっても怖いの泣けて来るのぉぉ!」


「ひゃひゃひゃ! さっそく不安症マタニティーブルーが始まったようじゃの! 奇妙な場所に飛ばされて心配じゃったが、やっぱり子母河の効能は健在じゃったわーい!」


 どうやら老女は、八戒を実験体にしたようである。別世界に来た事で、河が持つ妖力の有無に不安を覚えていたのであろう。

 あちらの世界と変わらぬ効能を確認できた下剤ババアは、小躍りで喜んでいる。


「おばばどの! 堕胎水だたいすいは残っておるのか!?」


「そんなもん、とっくにスッカラカンじゃー」


「ほんじゃどうすんだコイツおすだぞ! どこから子豚出すんだよ!?」


「あいや~っ! 産まれる~っ! 兄貴、お手手てて握ってぇぇぇ!」


「玉龍もっと顔上げなさい! 水飲んじゃダメよ!」


 乾いた赤い渓谷に、異界からやってきた者達の悲鳴と、老女の笑い声が、こだました。




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