面妖な居酒屋
赤い山肌に、薄い緑をうっすらと敷いたような山岳地帯。そこを縫うように、一本の河がゆったりと流れている。名を葫芦河という。
空気が乾いていて陽射しが強く、見渡す限り低草木ばかり。身を隠す場所も無い。
その河に通じる赤土の斜面を、土埃を上げながら転がり落ちて来る塊がある。
その塊は生き物の寄せ集めであった。悲鳴も個体もいっしょくたの団子状で転がるそれは、斜面の中腹辺りで大きな《《でっぱり》》に衝突すると、雪玉が砕けるが如くバラバラに飛び散る。
その後は各々が平坦な川べりに落ちた事で、殆どが川に転落する前に回転を止めたが、まぐわをくっつけた黒い個体が一つ、勢いそのままにダボンと川面に落下した。
幸い浅かったので入水には至らなかったものの、そのでっぷりとした体の前半分と黒豚の頭を水面に持ち上げるまでには、しばし時間を要した。
理由は簡単。目が回っていたからである。
「腹が減って力が出ないよぉ」
豚面が情けない声で呟いた直後、チベット風の衣装の下から突き出ている出腹が、ぐううと鈍い音を鳴らす。
空腹のあまり頭と体の動きが鈍っていた事も、すぐに起き上がれなかった理由の一つであったらしい。
「だからといってこの急斜面で寄りかかってくる奴があるか! 見てみろこの惨状を! ワシがこけたら皆こけたぞ!」
三日月形の刃が棒の先についた武器を振り回しながら、青黒い肌の大男――沙悟浄――が喚く。
彼の武器が指し示した先には、彼が倒れる際に巻き込んでしまった立派な白馬――玉龍――と、赤い鉄の棒を背負い虎斑のさるまたを履いた猿――孫悟空――が横たわっていた。
「いてえ……」
むくりと起きた悟空が、斜面の出っ張りで強打した後頭部をさする。その頭には、金色の輪っかがはまっていた。
続いて玉龍が、苛立たしげに鼻を鳴らしながら、バタバタと脚を動かし立ち上がる。
「だって瓜州を出てからなーんも食べてないんだよ。もう五日だよ。いくらおっしょうさまの先を行く為だってね、無茶がすぎるってもんでしょお! 妖仙でもオマンマ食べなきゃ生きてけないでしょうが!」
豚男――猪八戒――は、鼻水と涙をぼたぼた落としながら、癇癪をおこした子供のように拳で水面を何度も叩いた。
疲労よりも空服が、もはや限界だったのだ。
「だから前の绿洲都市で休んどきゃよかったのよ。バーカ」
と嘲ったのは、上下黒の胡服に身をつつんだ細身の娘、沙羅である。集団の最後尾にいたお陰で、転落を免れた彼女は、のんびりと斜面を下りて来た。
「妖怪の気配があんだぞ。绿洲で寛いでる場合かってんだ!」
悟空は生意気な新参者を叱りつけると、威勢よく唾をはいた。
しかし、普段は最も軽快《フットワークが軽い》な元気猿が、いつまでも砂地に胡坐をかいたままである。悟空もまた、疲れているようだった。
「兄貴はおっしょさん第一主義が過ぎるんだよ! 弟分も大事にしなきゃ、俺もう逃げちゃうから」
八戒がシクシクと泣きつつ下流に向かって独り歩いて行ったが、悟空はそれを無視して沙羅を呼び寄せる。
「おい犬コロ。本当にこっちの方角から妖気を感じたんだろうな?」
沙羅は四方の匂いを嗅ぎわけるように、くんくんと鼻を動かしてから、一度大きく頷いた。
「匂うのは間違いないわ。まるでこの土地全体から妖気が漂ってるみたい」
「土地だあ?」
顔をしかめた悟空が立ち上がり、沙羅と同じく鼻と頭をせわしなく動かす。
最後に蹲って地面の匂いをすん、と一嗅ぎすると、顔を上げて沙羅を睨みつけた。
「牛魔王が土地ごと送ってきたっていうのかよ」
「あたしが知るわけないでしょそんな事」
沙羅は言いながら、左胸をごしごしと擦った。瓜州を出た頃から、呪文を刻まれた部分に、火傷のような痛みを覚えるようになっていたのである。常にではなく、二日に一回、一つか二つ数える間程度のものなのだが。
「大体、沙州にだって妖魔はいたかもしれないんだから。言ったでしょ。『町の南側が何となく臭い』って」
沙羅は、昨日素通りしたオアシス都市沙州でも妖魔の気配を感じ取っていた。しかし悟空は、沙州を素通りして葫芦河へ急ぐと言って聞かなかったのだ。沙羅はそれが不満だった。
「師父は沙州をお通りにならないはずなのだ。しかし、この葫芦河は必ず渡河される。だから我々は、こちらの調査を優先せねばならんでな」
悟浄が昨日と同じように、沙羅を宥めた。
沙羅は「覚えてるわよ、うるさいな」と仏頂面を深くする。
釈迦如来から渡されたという玄奘の旅の工程表を、沙羅は見た事が無い。後ろから覗き見てやろうと試みても、『お前にゃまだ早い』と悟空が隠すのである。
要は、未だに信頼関係が構築できていないという事であった。
それはお互い様だという認識は沙羅にもあるので、不平は無い。しかしながら、わざわざしてやった忠告を無視するという行いは、妖魔探知機係としては不本意だった。
「でもこれで三蔵に何かあったら、あたしは二度と従わないわよ」
「おっしょさんの旅の邪魔をしてみろ。体毛全部むしり取ってやるからな」
一人と一匹が、額がぶつかりそうな距離で睨み合う。
元々いがみ合っていた二人ではあったが、瓜州を出立してから不仲ぶりに拍車がかかったようである。
悟浄は、罵り合う二人を心底困った面持ちで見つめた。
そこに、喜色満面の八戒が、まぐわを担いでどたどたと走って来る。
「みんなあ! あっちに、飯屋があるよ!」
息を切らせて、遥か下流を指さす。
「「「飯屋だあ!?」」」
悟空、沙悟浄、沙羅の三名は、一様に眉をひそめた。
ここは街道を離れた渓谷である。鹿や猪や烏などの野生動物くらいしか通らない。
悟空が口をへの字に曲げる。
「山鬼の住処じゃねえだろうな」
「もお兄貴ったらあ。ここは妖魔のいない世界でしょっ」
八戒は食べ物の気配を前にして、自身が妖仙である事実も、妖魔があちらの世界から送られてきている事も消失してしまっているらしい。
怠惰な豚が、いつもの倍は素早い動きで玉龍の手綱を取ると、「みんなもホラ早く!」と走ってゆく。
三人は仕方なく、後を追った。
「ホラあそこあそこ!」
八戒が、人間の親指程度の長さしかない人差し指をいっぱいに伸ばし、対岸を指さした。
確かに。緩やかな流れの向こう側に、断崖絶壁を背にして茅葺の田舎家が一軒、軒先に『居酒屋』の印である箒を垂らしている。
その家は荒涼とした風景に全く溶け込んでおらず、実にとってつけた様相だ。
悟空は田舎家を見るなり、首を捻って顎をかいた。
「なんか……見覚えのある居酒屋だな」
「居酒屋なんて、どこも似たようなもんだよ! おうい、船頭さーん!」
八戒が、軒先に座っている質素な身なりの女に大声で手を振った。
女はこちらに気がつくなり、ばたばたとした足取りで川岸に上げてある船に走った。背中が曲がっているので、老女のようだ。
老女は器用に櫂を操りながら、船を岸に近づける。
「おおしまった。色を変えるのを忘れておった」
「もう遅ぇよ。こいつなんか豚頭のまんまだっつーの。悲鳴上げて逃げられんなら、まずこいつだろうよ」
悟浄が自身の肌色が青いままである事に気付いて慌てたので、悟空が落ち着くよう言いながら、八戒の尻を叩く。
「あああ、飯ぃぃぃ。早く早くぅぅぅ」
だが八戒は何も聞いていなかった。
ごとん、と音を立てて、船が陸に上がる。
一番に近づいた沙羅が、「お婆さん、こんな連中だけど大丈夫?」と老女に訊ねた。
老女は俯き加減である上に頭巾を被っている為、悟空らには表情が分らない。しかし、頭巾の縁からわずかにのぞいている皺だらけの口元が、にい、と笑ったように持ちあがったのが見えた。続いて、顔が上がって目元が顕わになる。
やや白濁した二つの大きな目玉が、沙羅を捕え、残りの三人へと移る。
老婆は両目を細めて笑顔のようなものを作ると、深くお辞儀した。
「構いませんよ。面妖な旦那様方」




