やさぐれ悟空と新たな妖魔
ストックが切れました
「釈迦は前世で、飢えた虎の母子にわが身を捧げたといいます。私も僧侶なれば、沙羅に左腕の一本くらいやらねばどうするかと、そう考えまして」
「違う！ そいつは違いますよ、おっしょさん」
大きく首を左右に振った悟空が、ぴょんとひとっ飛びで玄奘の隣に移動した。
「この駄犬に体をやっちまったら、誰が天竺に行くんです？ あんたは世の為人の為に、天竺で経典を頂いて帰る。そういう宿命なんですよ。こいつに大事なお手てやっちゃって、どうやってお経を運ぶんです？ ん？」
両手を大きく動かしながら説いた悟空は、最後に玄奘の左腕を平たい掌でペチペチと叩く。
上目使いに覗きこんでくる白猿の真っ直ぐな眼差しを受けて、玄奘は困った面持ちで俯いた。
「私が天竺へ行くのは、本物の経典を知りたいが故。世の為人の為と言うよりは、自分の為です」
求法の旅に情熱はある。命もかけている。しかし、玄奘はそこに『利他』を結び付けられなかった。
対照的に、悟空は自信満々にふんぞり返る。
「動機が違ったって、お経を持って帰れば、色んな人がその恩恵にあずかれるんです。結局人助けになるんなら同じじゃないですか」
悟空は求法の旅に、大きな価値を見出していた。実際、あちらの三蔵法師にはそういった大義名分があったのかもしれない。そして悟空は、『おっしょさん』は『善』であると、絶対の信頼があるようだった。
「あっちのおっしょさんは、ワガママで手のかかる人ですけどね。一度だって、人の為にならんことはしませんでしたよ。あんたは、あっちのおっしょさんとは少しタイプが違うけど、根っこは同じなはずです。違いますか？」
「なら、彼女の為に、札を貼ってやってくれませんか」
玄奘の頼みに悟空は一瞬、固まった。驚いたというよりは、咄嗟に思索した、といった風である。
そして悟空は一つゆっくり瞬きをすると、
「駄目です」
と、やはり真っ直ぐな眼差しで玄奘に言いきった。
玄奘の頼みを断った理由として、悟空は沙羅の嗅覚の良さを挙げた。
禍斗の優れた嗅覚は、あちらの世界から送られて来た妖魔の居場所を探る為に必要である。白骨夫人の捕獲が成功したのも、沙羅が道中、金川峡の方角に白骨夫人の妖気を嗅ぎつけたからであった。
悟空の言い分も理解できる。しかし玄奘は、沙羅の切実な思いも知っていた。襲われた際、沙羅の口から直接聞いたのである。
「沙羅は、あちらに残してきた病気の母と幼い妹を心配していました。自分の裏切りに気付いた牛魔王が、二人に危害を加えるのではないかと。だから早く戻って、二人を逃がしたいのだと」
悟空は苛ついた様子で体中を掻きむしると、プイと横を向いた。
「知りませんよ。オイラは石から生まれたんでね。家族の情で釣ろうったって無駄です！」
奇跡的に、玄奘、八戒、悟浄のため息が揃った。加えて、今まで石像のように静かに立っていた玉龍までが、失望したように鼻息を立てる。
悟空は全身の毛を逆立てると、愛嬌のある猿面を強張らせた。
「なに、みんなしてオイラを悪者扱い？ 酷ぇの！」
完全にヘソを曲げた悟空は、やにわに如意棒を背中に担ぐと、四本足で走り去る。
「ああんもう、兄貴ったらぁ」
八戒がまぐわを担いで、猿のお尻を追いかけた。
続いて降妖宝杖を手に、悟浄も立ち上がる。
「師父、ここは我らにお任せ下さい」
悟浄は玄奘に微笑むと、ゆったりとした大股で歩いて行った。
二人の方が、悟空の扱いを心得ているだろう。そう判断した玄奘は、二人に悟空を任せ、自分は気絶している乙女のお守に徹する事にした。
相当強く殴られたのであろう。息はしているが、沙羅はぴくりとも動かない。以前、双叉嶺で気を失った時には、もう少し早く目を覚ましていたのだが。
「さて、どうしたものか……」
独り言はあまり口にしない方だという自覚はあるが、今回は声に出てしまった。ため息と一緒に。
川の水で濡らせた布が、そろそろ温くなる頃である。
玄奘は、後頭部の傷口にあてた布を絞り直そうと、手を伸ばした。
その時、視界の隅に妙な物体が映る。顔を上げて確認すると、つむじ風だった。雄牛一頭ほどの大きさだろうか。
それは砂を巻き込み、荒涼とした景色にはっきりと風の輪郭を浮かび上がらせている。
その光景を目にした玄奘の背中に、寒気が走った。目の前のつむじ風は、明らかに異常だった。
上下逆さまだったのある。
次話は金曜日の16時台に投稿予定です。申し訳ありません日が空いてしまいますが、お願い致します。
